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松本城
日本・長野県

松本城(まつもとじょう)・長野県
  Wikipediaによる解説
 松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にある城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。
松本城
(長野県)
別名 烏城
城郭構造 梯郭式+輪郭式平城
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か1615年築)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 小笠原長棟、石川数正・康長父子
築城年 1504年(永正元年)
主な改修者 松平直政
主な城主 小笠原氏、石川氏、松平氏、堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 国宝(天守)、国の史跡
再建造物 黒門、太鼓門
位置 北緯36度14分20.76秒/東経137度58分8.83秒
 戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、松本平の信濃府中(井川)に井川館を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。 後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては木曾義昌が支配していたが、同年6月には越後上杉氏の擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還する。その後、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。 その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。 享保12年(1727年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。
[松本城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2014年3月11日 (火) 12:05 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔松本城〕日本・長野県


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Last updated : 2022/11/23