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正岡子規

病牀六尺びょうしょうろくしゃく
  • ここでは、正岡子規が、病に臥せつつ明治35年〈1902年〉 の5月5日から亡くなる二日前の9月17日まで書き続けた随筆『 病牀六尺びょうしょうろくしゃく 』を読んでみる。
  • 正岡子規まさおかしき :1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)。日本の俳人、歌人、国語学研究家。俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病いに臥せつつ書いた『病牀六尺』は、少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。(Wikipedia  )(青空文庫「病牀六尺」  
  • 「病牀六尺」の書き出し。
  • 病牀六尺 一
    ○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽をむさぼ果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして(略)
    (五月五日)
  • 子規は、この「病牀六尺」の中で、このページの関連項目として掲載している果物と草花を写生した「菓物帖」「草花帖」についても触れている。
  • 「草花帖」での最後の絵となる朝顔の花を描いた1か月後の9月19日に、34歳11か月の人生を閉じた。
  • 病牀六尺 八十六
    このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る。けふは相変らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊えぞぎくを写生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に画いた花はやや成功してうれしかつた。午後になつて頭はいよいよくしやくしやとしてたまらぬやうになり、ついには余りの苦しさに泣き叫ぶほどになつて来た。そこで服薬の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ薬を飲む時刻には少し早いのであるが、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それからまた写生をしたくなつて忘れ草(萱草かんぞうに非ず)といふ花を写生した。この花は曼珠沙華まんじゅしゃげのやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は百合に似たやうなのが一本に六つばかりかたまつて咲いて居る。それをいきなり画いたところが、大々失敗をやらかしてしきりに紙の破れつくすまでもと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ気合くそがわるくて堪らんので、また石竹せきちくを一輪画いた。これも余り善い成績ではなかつた。とかくこんなことして草花帖が段々に画きふさがれて行くのがうれしい。八月四日記。
    (八月六日)
  • 病牀六尺 八十八
    ○八月六日。朝、例によりて苦悶す。七時半麻痺剤を服し、新聞を読んでもらふて聞く。牛乳一合。午餐。頭苦しく新聞も読めず画もかけず。されど 鳳梨パインアップルを求め置きしが気にかかりてならぬ故休み休み写生す。これにて菓物帖くだものちょう完結す。始めて鳴門蜜柑なるとみかんを食ふ。液多くして夏橙なつだいだいよりも甘し。今日の番にて左千夫来る。午後四時半また服剤。夕刻は昨日よりやや心地よし。夕刻寒暖計八十三度。
    (八月八日)
  • 病牀六尺 百三
    ○今日は水曜日である。朝から空は れたと見えて病床に寝て居つても暑さを感ずる。例に依つて草花の写生をしたいと思ふのであるが、今一つで草花帖を完結する処であるから何か力のあるものを画きたい、それには朝顔の花がよからうと思ふたが、生憎あいにく今年は朝顔を庭に植ゑなかつたといふので仕方がないから隣の朝顔の盆栽を借りにつた。ところが何と間違へたか朝顔の花を二輪ばかりちぎつて貰ふて来た。それでは何の役にも立たぬので独り腹立てて居ると隣の主人が来られてしばら くぶりの面会であるので、余は麻痺剤を服してから色々の話をした。正午頃に主人は帰られたが、その命令と見えて幼き娘たちは朝顔の鉢を持つて来てくれられた。(略)
    (八月二十三日)
    • 子規は、「草花帖」での最後の絵となる朝顔の花を描いた1か月後の9月19日に、34歳11か月の人生を閉じた。
  • 次の「百二十七」は「病牀六尺」の最後の記述で、亡くなる二日前の日付。子規は、9月19日に34歳11か月の人生を閉じた。
  • 病牀六尺 百二十七
    芳菲山人ほうひさんじんより来書
     拝啓昨今御病床六尺の記二、三寸にすぎすこぶる不穏に存候間ぞんじそうろうあいだ御見舞申上候達磨儀だるまぎも盆頃より引籠ひきこも縄鉢巻なわはちまきにてかけいの滝に荒行中あらぎょうちゅう御無音ごぶいん致候いたしそうろう
    俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか
    (九月十七日)
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Last updated : 2024/06/29