江戸名所図会えどめいしょずえより「両国橋りょうごくばし

  • 江戸名所図会』から、「両国橋」の3枚の絵を抜き出しパノラマ画像としました。
    *一丁の半分、つまり1ページ分の絵を1枚と数えています。
    *原画は国立国会図書館蔵。

  • 両国橋(りょうごくばし)は、隅田川にかかる橋で、西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。
  • 『江戸名所図会』には次のように記される。
    両国橋りょうごくばし
    浅草川あさくさがわすえ吉川町よしかわちょうと本所本町ほんじょもとまちあいだわたす。ながさ九十六間(はし前後ぜんごならびに橋上きょうじょう番屋ばんやすえて、これまもらしむ)。万治まんじ二年己亥官府かんぷよりはじめてこれつくりたもう。(略)旧名きゅうみょう大橋おおはしごうす。(略)其昔そのむかし此川このかわ国界くにざかいとせしにより、両国橋りょうごくばしごうありといえども、いまごと利根川とねがわもってさかいさだめたもうよりのちは、本所ほんじょおなじく武蔵国むさしののくにぞくすといえども、はしごうとなきたるにまかせて其侭そのままあらためられずとなり(或人あるひといわく、貞享じょうきょう三年丙寅春三月、利根川とねがわ西にしわりて、武蔵国むさしののくにぞくせしめらるると云々)。此地このち納涼のうりょうは、五月二十八日にはじまり、八月二十八日におわる。つねにぎわしといえども、就中なかんづく夏月かげつあいだもっともさかんなり。くがには観場みせものところせきばかりにして、その招牌しようはいのぼりかぜひるがえりて扁翻へんぽんたり。両岸りょうがん飛楼高閣ひろうこうかく大江たいこうのぞみ、茶亭さてい床几しようぎ水辺すいへんたてつらね、ともしびひかり玲瓏れいろうとしてながれにえいず。楼船ろうせん扁舟へんしゅうところせくもやいつれ、一時いちじ水面すいめんおおいかくしてあたかも陸地りくちことならず。絃歌鼓吹げんかこすいみみみちかまびすしく、じつ大江戸おおえど盛事せいじなり。
    *適宜、現代仮名遣いとするなどした。
    *万治二年は1659年で、
    *貞享三年は1686年で、
    *招牌(しようはい)は、看板(かんばん)のこと。
    *玲瓏(れいろう)は、玉のように明るく光り輝くさま。
    *扁舟(へんしゅう)は、小舟のこと。
    *楼船(ろうせん)は、 屋形船(やかたぶね)のこと。
    *もやいつれは、連なって停泊するさま。
《3枚をつないだパノラマ画像》
「両国橋」
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  • 当サイト独自の色調補正を行っており、国立国会図書館が公開している原画とは色調が若干違います。
「江戸名所図会」両国橋りょうごくばし
[両国橋 一]
一両が 花火間もなき 光かな 其角
[両国橋 二]
この人数にんず 舟なればこそ すずみかな
其角
両国橋
[国立国会図書館索引へ]  
     
江戸名所図会えどめいしょずえ 』とは
  • 江戸名所図会えどめいしょずえ』は、全7巻、20冊からなる絵入りの江戸の地誌。江戸名所の集大成と評される。
  • 斎藤幸雄さいとうゆきお長秋ちょうしゅう)が、寛政年間の江戸府内などの実地調査をして原稿を執筆したが刊行出来ず、その子幸孝ゆきたか莞斎かんさい)、孫の幸成ゆきしげ月岑げっしん)へと引き継がれ三十余年の時を経て三代で完成。第一巻から第三巻までの 10冊は天保5年〈1834年〉に、第四巻から第七巻までの 10冊は天保7年〈1836年〉に刊行された。
  • 寛政から天保に至る、江戸およびその近郊の町・神社・仏閣・名勝地・旧跡・橋・風俗などを多数の絵とともに説明。丁数で 1,160余、ページ数で 2,300余にのぼる大作。
  • 月岑げっしんは『附言』で次のように記す。
    この書は祖父が寛政中の編にして、父県麻呂あがたまろ刪補さんぽ、文化の末に至りてなり、文政の今に至りて上梓の功を終りぬ。凡そ年序を経る事三十有余年、江都蕃昌はんじょうしたがひて、神社寺院、境地沿革するものすこぶる多し。一向の小祠も須臾しゅゆに壮麗たる大社となり、わづかの草庵も巍然ぎぜんたる荘厳となれるもの少なからず。或いは祝融しゅくゆうわざわいかかりて楼門回廊を焼失し、礎石のみ存するの類、興廃枚挙すべからず。しかりといへども時々是を改むる事あたはず。故に今時のていたがへるもの多し。見るものいぶかる事なかれ。
    斎藤月岑識

    [注]
    斎藤長秋さいとうちょうしゅう :1737〈元文2〉年 - 1799〈寛政11〉年(長秋が没した寛政11年は、)。 斎藤莞斎さいとうかんさい :1772〈安永元〉年 - 1818〈文化15〉年。 斎藤月岑さいとうげっしん :1804〈文化元〉年 - 1878〈明治11〉年。寛政:1789年 - 1801年。文化:1804年 - 1818年。文政:1818年 - 1831年。 刪補さんぽ: 取り去ったり付け足したりすること。年序:年数。沿革:漸次にうつり変わる。一向の小祠:まったく小さな祠。須臾しゅゆ:わずかの時間。巍然ぎぜん:際立っているさま。祝融しゅくゆうわざわ:火災。火事の災難のこと。
  • 絵は 長谷川雪旦はせがわせったん(安永7年〈1778年〉- 天保14年1月28日〈1843年2月26日〉)。挿画はその多くが鳥瞰図の技法で描かれる。

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Last updated : 2024/06/29