『浮世絵・錦絵』などを見る
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江戸町火消の道具 |
- 「いろは
四十八組 」で知られる江戸の町火消 は、いろは組の他に、隅田川東側の本所・深川地区に数字を用いた一組から十六組までがあり、いろは組と合わせて全部で六十四組でした。纏の種類とその名称 - 六十四組それぞれが
纏 を組の印として持ち、いざ出動という時には、竹梯子 、竜吐水 、玄蕃桶 、刺股 、鳶口 、大伐鋸 、掛矢 、水弾 (水鉄砲 とも)などを担いで現場へ駆け付けました。中には、火の粉を払う大団扇 や 火はたき、水で濡らして火にかぶせる水莚 などもありました。 刺股 は長いものでは 四間を超すもの(7メートル以上)もあり、「破壊消火」と言われた江戸の消火活動で建物を壊して延焼を防ぐために使われました。- 江戸の火災は鎮火までに時間が掛かることが多かったことから食事もとらなければならず、弁当
が用意されました。そのために、弁当を運ぶ 弁当箱、場所の目印となる、昼間用の
弁当幟 、夜用の弁当提灯 などもありました。 -
消札 と呼ばれる木札がありました。火消が火事場に到着すると消口 [けしぐち]という消火に取り掛かる場所を決め、組の名前を書いた木札を軒先に掲げて纏持ちが屋根に纏を上げました。また、消札は延焼をくいとめた場所の印でもあり、褒美を受けるときの証拠としても使われたということです。 - 火消しの仕事ではありませんが、土蔵に火がはいらないように
戸前 を塗りふさぐ目塗 といわれる仕事もありました。用心土 といって、土を貯えておくこともされました。 - 持ち出せない家財道具などを火から守るために、地面に穴を掘って作られた
穴蔵 と呼ばれる地下倉庫もありました。 - ここでは、江戸の町火消が使った道具類などを見てみます。
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- この項で何回か登場する「
守貞謾稿 」は、喜田川守貞 によって天保8年〈1837年〉から慶応3年〈1867年〉まで、30年間にわたって書かれた江戸時代後期の風俗史。江戸時代の風俗に関する考証随筆であると同時に、近世風俗の百科事典的意味を持つ大著とされる。
竹梯子は、古竹は燃えやすく折れやすいため、水分を多く含む青竹の真新しいものが使われていた。天地は赤銅で覆い腐食を防いだ。
刺股は、家屋を押し倒して延焼を防ぐ破壊消火の際に使われ、長さ四間(約7m)位のものも。
鳶口は、鳥のトビの嘴 のような形の鉄製の穂先を長い柄の先に取り付けた道具。刺股と同じように破壊消火に用いられ、建物を引き倒すように破壊して延焼を防いだ。
大団扇は、火の粉を払い飛び火を防いだ。火はたきは、火が燃えひろがるのを防ぐために火をたたいて消しとめるもの。水莚は、水で濡らした莚を火にかぶせ火の広がりを防ごうとしたもの。
提灯や幟は、誰がどこに居るか、何がどこにあるかの目印として使われた。
江戸の火災は鎮火までに時間が掛かることが多かったことから食事もとらなければならず、弁当が用意された。
そのための目印として、昼間は弁当幟が、夜は弁当提灯が用意された。また、食事を火事場まで運ぶために、食事を背負って運ぶ弁当箱も用意された。
弁当箱を背負った様子、弁当提灯を立てた様子、弁当を食べている様子などの絵図も残されている。
火消が火事場に到着すると、「消口 [けしぐち]」という消火に取り掛かる場所を決め、組の名前を書いた木札を軒先に掲げて纏持ちが屋根に纏を上げた。これが消札 と呼ばれた。
また、消札は延焼をくいとめた場所の印でもあり、褒美を受けるときの証拠としても使われた。
町火消の装束は、半纏に頭巾といったいでたち。半纏は木綿の袷 仕立で全面に刺子
が施された。
火に近づいた時に全身に水をかぶることから、水を多く含むことができる刺子を施した半纏が用いられた。
武家の奥方が身につけるのは火事装束。嫁入り道具の一つであったという。
火事を監視する施設は、大掛かりに櫓を組んだいわゆる火の見櫓や、毎町の自身番小屋の屋根の上に設けられた火の見梯子などがあった。
半鐘が設置され、火災が発生するとこれを打ち鳴らして火元までの距離を人々に知らせた。半鐘は、櫓の内部ではなく櫓の柱の外部に吊された。
火の見櫓はおよそ十町(1.091km)ごとに建てられ、その費用は周辺に住む者がまかなったとされる。
「定火消
」という幕府直轄の火消組織の火の見櫓では、2人の同心が昼夜を分かたず市中を監視していた。
定火消の櫓には大きな太鼓と半鐘が設けられ、出火を発見すると太鼓で合図を出した。
定火消が太鼓を鳴らさない限り、他の櫓で半鐘を叩くことは許されなかったとされる。
*この項目の画像は、全て原画から当該部分を切り取ったいわゆる「部分」です。クリックすると全体をご覧いただけます。
武家屋敷や自身番小屋に作られ、半鐘を備えた「火の見櫓」の他に、町屋でも火事の様子をうかがったりする「火の見台」が屋根の上に多く造られた。江戸時代の絵入娯楽本の「
草双紙
」には、夕涼みをする様子なども見られる。
また、草双紙に描かれた火の見台には風見鶏が取り付けられた様子が見られる。
*この項目の画像は、全て原画から当該部分を切り取ったいわゆる「部分」です。クリックすると全体をご覧いただけます。
火災が発生すると、半鐘を鳴らして火元までの距離を人々に知らせた。
喜田川守貞の『守貞謾稿』には次のように記される。
遠所の火事には一打して、また間ありてまた一打し、
寛
く一つづゝこれを打つなり。
すでにに大火の
兆 ありて火消人足 の出すべきには、二打づゝこれを打ちて人夫を促すの証とす。
また近火には一打づゝ極て急繁にこれを打ち、
町内および隣町の火には
撞木 にて打ちの摩 る。
■打ち方
火元遠い(一打):ジャーン・ジャーン・ジャーン
火消出動(二打):ジャーンジャーン・ジャーンジャーン
近火(連打):ジャンジャンジャン・ジャンジャンジャン
間近(乱打):鐘の中で擦り回す。擦半鐘
、略してすりばんとも。
鎮火 :ジャーン・ジャンジャーン・ジャーン・ジャンジャーン
《参考》半鐘の家紋
![](img/Hansho-004.jpg)
櫓半鐘
![](img/Hansho-001.jpg)
半鐘
目塗は蔵に火が入らないように行われたもので、当時の瓦版には、『壁と窓の隙間や各所の孔を塞ぐ目塗りとして
用心土
を準備しておくこと。用心土が不用意で間に合わない時は味噌でもよい』などの記述も見られる。 鎮火用心たしなみ種
穴蔵は、持ち出せない家財道具などを火から守るために地面に穴を掘って作られた地下倉庫。
地下倉庫として使われた「穴蔵」については、江戸時代の書物のいくつかにその記述が見られる。
-
亀岡宗山 ・杉田玄白 の『後見草』 (天明7年〈1787年〉成立〉)』 -
加藤曳尾庵 が文化・文政期(1804年〜1830年)に表した『我衣 』 -
喜多村信節 が文政13年〈1830年〉に表した『嬉遊笑覧 』 -
喜田川守貞 の『守貞謾稿 (起稿:1837年〈天保8年〉)』など。
これらによれば、江戸で「穴蔵」というものを造ることが広まったのは、いわゆる「明暦の大火(明暦3年1月18日から20日〈1657年3月2日 - 4日〉)」以降とみられ、また同時に、俗称「穴蔵屋」という職業も確立したことが推測できる。
なお、加藤曳尾庵の『我衣』では、『穴蔵を始めて造ったのは、呉服商和泉屋九左衛門で明暦2年のこと』という説を披露し、喜田川守貞もこれを引用するが、喜多村信節の『嬉遊笑覧』ではこれを否定している。〈後述〉
亀岡宗山・杉田玄白『後見草』(写・燕石十種)
『
後見草
』で次のように述べる。
『其大火事[明暦の大火]迄は、穴蔵と申事人々存よりも無之候得ば、人々長持頼みにて諸道具皆々焼失せり』
[参考] 後見草 Wikipedia
加藤曳尾庵『我衣』(写・我衣鈔 巻三)
加藤曳尾庵
は『
我衣
』で次のように述べる。
[現代語意訳]
『江戸では明暦2年〈1656年〉に日本橋本町二丁目の呉服商和泉屋九左衛門が始めて作り使い始めたが、当時の人々はその効果を疑っていた。しかし、翌、明暦3年〈1657年〉の御城を焼失した大火[江戸時代最大の火災で、世にいう「明暦の大火」。江戸城天守も焼失した]の際に、これが役に立ったことを人々が目の当たりにし、それ以降世の中に広まった』
[参考] 加藤曳尾庵 Wikipedia
喜田川守貞『守貞謾稿』
喜田川守貞 の『
守貞謾稿
(起稿:1837年〈天保8年〉)』では、「窖」という字を使い、「俗に穴蔵という」とした上で、前述の加藤曳尾庵『我衣』を引用したと思われる記述が見られ、さらに次のように述べる。
江戸では、
- 上流の大きな家では土蔵を持っていても穴蔵を作り、専ら金銀をしまっていた。
- 中流以下では金銭をしまうための土蔵は造らなかった。
- 土蔵を造らない者は穴蔵を造り、火災の時に諸物をこれに納めた。
- 土蔵を造るには費用が掛かったが、穴蔵は易く出来たのでそのようにした。
- あるいは土蔵を造る費用はあったが、土地がない者なども穴蔵を造った。
- 京坂では切石を積んで造ったが、江戸では専らヒバ材を使って造った。
- 京坂では地水が深く穴蔵に水が出なかったが、江戸では地水が近く(地下水位が高く)、穴蔵に水が入ることがあり、その度これを汲み出す必要があった。従って、木製でなければ水を防ぐことが難しかった。
- 木製ではないもので、木製より水が入らないものははなはだ稀であった。
また、「穴蔵屋」と呼ばれ、穴蔵を作る「
窖工 」が霊岸島川口町(現在の東京都中央区新川一・二丁目)を始めとして所々にいたとしている。
「
窖工
」
「穴蔵屋」(穴蔵大工とも)が、職業として成り立っていたことが当時の錦絵から確認出来る。
一つ目の絵には「あなぐらや」の文字(緑の丸)が見える。二つ目の絵では「穴」の文字(緑の丸)が見える。 赤い丸 は「穴蔵屋」。
これらの絵は、国立国会図書館が「江戸大地震之絵図」
として公開する内の2図で、拡大すると鯰
が描かれている。ここでは、「穴蔵屋」が地震による災害で一儲けした職業として描かれている。
[参考] 守貞謾稿 Wikipedia
喜多村信節『嬉遊笑覧』
文政13年〈1830年〉に発刊された
喜多村信節
の
『
嬉遊笑覧
』
では、加藤曳尾庵が『我衣』で唱える『穴蔵を始めて造ったのは、呉服商和泉屋九左衛門で明暦2年のこと』という説を否定している。
なお、『嬉遊笑覧』からの引用も多数見られる喜田川守貞の『守貞謾稿』では、このことについての『嬉遊笑覧』への言及は見られない。
喜多村信節は次のように記す。
因みに云う、江戸にて穴蔵の始
は、『我衣』に、「明暦二年
丙申 〈1656年〉
、本町二丁目和泉屋九左衛門といふ呉服屋始むとなり。此者は福島家の浪人なり」といへり。
按
るにこれ始にあらず。穴蔵石屋宗山『明暦火災記』「此火事迄は穴蔵と申 事人々存よりも無。之たゞ車長持をたのみにて諸道具を皆々焼失ひたり」。又云、「御天守台石垣の内、両面にして高さ二間、石垣四方築の内、前々より穴蔵と唱へ、御用の金銀納り有之」と見え。又、浮生が『滑稽太平記』に、「末吉道節がある歳の『歳旦
[元日・元旦のこと]』に、穴蔵の みのとし祝ふ
朝
かな」。書中に「道節江戸に下り、寛永十八年〈1641年〉正月廿八日、桶町の火災に逢て帰京しける。当歳旦に」とあれば、げに此歳
辛巳
なり。【割註:されども、此句、「ほどなく身の上となりて承応三年〈1654年〉に死す」といふ時は、其間十二年も間のあるを程なくとも云べからず。承応二年〈1653年〉は
癸巳
の歳なれば、此年にこそ程なくとは云べけれ】。又、『
塵滴問答
』【割註:宝永三年〈1706年〉撰】に、「近年町屋の人居
繁
く、空地すくなきにより、又は火を防ぐに堅固なりとて、穴蔵と云ふもの多く出来たり」といへれば、明暦二年〈1656年〉は始にはあらねど、宝永の初(宝永は1704年から)迄もいまだすくなかりしと見ゆ。
〔1903年〈明治36年〉近藤活版所刊・国立国会図書館蔵〕
因みに云う、江戸にて穴蔵は『石屋宗山が明暦火災に逢いたる記事』に、「此火事までは穴蔵と申
こと、人に存ずるも無之。たゞ車長持をたのみにて、諸道具を皆失ひたり」。又云、「御天守台石垣の内、両面にして高さ弐間、石垣四方築の内、前々よりあな蔵と唱へて御用の金銀納りたり」。『
我古路裳 』に、「明暦二年丙申 〈1656年〉本町弐丁め、和泉屋九左衛門といふ呉服や、穴蔵を始む」と也。此者は「福島家の浪人なり」と、委 しく見えたり。されど末吉道節といふ者、ある年の『歳旦 [元日・元旦のこと]』に、「穴ぐらの みのとし祝ふ あしたかな」。是みのとしは承応二年〈1653年〉癸巳 なるべし。然らば穴ぐらの始 、明暦二年〈1656年〉とはいひがたし。件
の句のこと、浮生が『滑稽太平記』に、「道節江戸に下り、寛永十八年〈1641年〉正月廿八日、桶町の火災に逢て帰京しける。当歳旦に」とあれば、げにその年
辛巳
なれど、此句「程なく身のうへとなりて承応三年〈1654年〉死す」といふは十二年も間のあるを、程なくとはいふべからず。これによりて承応二年〈1653年〉癸巳なるべしと思へど、「程なく云々」いひしが誤ならば、疑ふべき事なし。いづれにも明暦
已前 穴蔵ありしは明らか也。但其後までも多くはなかりしと見えて、『塵滴問答
』(宝永三年〈1706年〉の撰なり)、「近年町屋の人居しげく空地すくなきにより、又は火を防ぐに堅固なりとて、穴蔵といふもの多く出来たり」ともいへり。
〔2002年〈平成14年〉岩波書店刊〕
纏
竜吐水・玄蕃桶・水鉄砲
梯子・刺股
鳶口・手鉤
大団扇・火はたき・水莚
提灯・幟
弁当幟・弁当提灯・弁当箱
消札・木札
火消装束・火事装束[半纏・頭巾]など
火の見櫓・半鐘・太鼓・拍子木
火の見台
《参考》半鐘の打ち方
《参考》目塗・穴蔵
《参考》江戸と穴蔵
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