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亀岡宗山
・
杉田玄白
の『
後見草』
(天明7年〈1787年〉成立〉)』
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加藤曳尾庵
が文化・文政期(1804年〜1830年)に表した『
我衣
』
-
喜多村信節
が文政13年〈1830年〉に表した『
嬉遊笑覧
』
-
喜田川守貞
の『
守貞謾稿
(起稿:1837年〈天保8年〉)』など。
これらによれば、江戸で「穴蔵」というものを造ることが広まったのは、いわゆる「明暦の大火(明暦3年1月18日から20日〈1657年3月2日 - 4日〉)」以降とみられ、また同時に、俗称「穴蔵屋」という職業も確立したことが推測できる。
なお、加藤曳尾庵の『我衣』では、『穴蔵を始めて造ったのは、呉服商和泉屋九左衛門で明暦2年のこと』という説を披露し、喜田川守貞もこれを引用するが、喜多村信節の『嬉遊笑覧』ではこれを否定している。〈後述〉
加藤曳尾庵『我衣』(写・我衣鈔 巻三)
加藤曳尾庵
は『
我衣
』で次のように述べる。
[現代語意訳]
『江戸では明暦2年〈1656年〉に日本橋本町二丁目の呉服商和泉屋九左衛門が始めて作り使い始めたが、当時の人々はその効果を疑っていた。しかし、翌、明暦3年〈1657年〉の御城を焼失した大火[江戸時代最大の火災で、世にいう「明暦の大火」。江戸城天守も焼失した]の際に、これが役に立ったことを人々が目の当たりにし、それ以降世の中に広まった』
喜多村信節『嬉遊笑覧』
文政13年〈1830年〉に発刊された
喜多村信節
の
『
嬉遊笑覧
』
では、加藤曳尾庵が『我衣』で唱える『穴蔵を始めて造ったのは、呉服商和泉屋九左衛門で明暦2年のこと』という説を否定している。
なお、『嬉遊笑覧』からの引用も多数見られる喜田川守貞の『守貞謾稿』では、このことについての『嬉遊笑覧』への言及は見られない。
喜多村信節は次のように記す。
因みに云う、江戸にて穴蔵の
始
は、『我衣』に、「明暦二年
丙申〈1656年〉
、本町二丁目和泉屋九左衛門といふ呉服屋始むとなり。此者は福島家の浪人なり」といへり。
按
るにこれ始にあらず。穴蔵石屋宗山『明暦火災記』「此火事迄は穴蔵と
申事人々存よりも無。之たゞ車長持をたのみにて諸道具を皆々焼失ひたり」。又云、「御天守台石垣の内、両面にして高さ二間、石垣四方築の内、前々より穴蔵と唱へ、御用の金銀納り有之」と見え。又、浮生が『滑稽太平記』に、「末吉道節がある歳の『
歳旦
[元日・元旦のこと]』に、穴蔵の みのとし祝ふ
朝
かな」。書中に「道節江戸に下り、寛永十八年〈1641年〉正月廿八日、桶町の火災に逢て帰京しける。当歳旦に」とあれば、げに此歳
辛巳
なり。【割註:されども、此句、「ほどなく身の上となりて承応三年〈1654年〉に死す」といふ時は、其間十二年も間のあるを程なくとも云べからず。承応二年〈1653年〉は
癸巳
の歳なれば、此年にこそ程なくとは云べけれ】。又、『
塵滴問答
』【割註:宝永三年〈1706年〉撰】に、「近年町屋の人居
繁
く、空地すくなきにより、又は火を防ぐに堅固なりとて、穴蔵と云ふもの多く出来たり」といへれば、明暦二年〈1656年〉は始にはあらねど、宝永の初(宝永は1704年から)迄もいまだすくなかりしと見ゆ。
〔1903年〈明治36年〉近藤活版所刊・国立国会図書館蔵〕
因みに云う、江戸にて穴蔵は『石屋宗山が明暦火災に逢いたる記事』に、「此火事までは穴蔵と
申
こと、人に存ずるも無之。たゞ車長持をたのみにて、諸道具を皆失ひたり」。又云、「御天守台石垣の内、両面にして高さ弐間、石垣四方築の内、前々よりあな蔵と唱へて御用の金銀納りたり」。『
我古路裳』に、「明暦二年
丙申〈1656年〉本町弐丁め、和泉屋九左衛門といふ呉服や、穴蔵を始む」と也。此者は「福島家の浪人なり」と、
委しく見えたり。されど末吉道節といふ者、ある年の『
歳旦[元日・元旦のこと]』に、「穴ぐらの みのとし祝ふ あしたかな」。是みのとしは承応二年〈1653年〉
癸巳なるべし。然らば穴ぐらの
始、明暦二年〈1656年〉とはいひがたし。
件
の句のこと、浮生が『滑稽太平記』に、「道節江戸に下り、寛永十八年〈1641年〉正月廿八日、桶町の火災に逢て帰京しける。当歳旦に」とあれば、げにその年
辛巳
なれど、此句「程なく身のうへとなりて承応三年〈1654年〉死す」といふは十二年も間のあるを、程なくとはいふべからず。これによりて承応二年〈1653年〉癸巳なるべしと思へど、「程なく云々」いひしが誤ならば、疑ふべき事なし。いづれにも明暦
已前穴蔵ありしは明らか也。但其後までも多くはなかりしと見えて、『
塵滴問答
』(宝永三年〈1706年〉の撰なり)、「近年町屋の人居しげく空地すくなきにより、又は火を防ぐに堅固なりとて、穴蔵といふもの多く出来たり」ともいへり。
〔2002年〈平成14年〉岩波書店刊〕