赤穂浪士・赤穂義士・四十七士= 辞世の句・享年など =
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討ち入りのきっかけとなったのは、元禄14年3月14日(1701年4月21日)、赤穂藩主の浅野長矩が、吉良義央に対して江戸城殿中において刃傷に及び、浅野長矩は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩が改易となったことであった。
江戸城殿中での刃傷事件から討ち入りまでの一連の事件は「赤穂事件」「元禄赤穂事件」などと呼ばれる。
討ち入りから 49日後の、元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹し、遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。
この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎が『仮名手本忠臣蔵』として演じられ、このことから「赤穂事件」が一般に「忠臣蔵」と呼ばれたりもする。
- このページの辞世の句は、
太田南畝 の雑記帳「街談録」を基に後人が編纂した『半日閑話 ・巻二十二』(大田南畝全集第十一巻 1988年・昭和63年 岩波書店刊)によります。 - 『半日閑話』には、大田南畝の寛政8年(1796年)2月28日の記事として、「芝の
万松山 泉岳寺 で開帳があり、その中に義士が夜討に用いた武器や辞世などがあったので写し置いた」との記述があります。
「寛政八丙辰年二月廿八日ヨリ芝万松山泉岳寺ニテ日本一開帳有之。其節義士夜討ニ用所武器、辞世等出版、写置」大田南畝(寛延2年3月3日(1749年4月19日)- 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。号を蜀山人 などとも。
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掲載した四十七士などの錦絵は、基本的に左から(スマートフォンでは上から)、幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師の
月岡芳年 による『誠忠義士銘々画伝』(明治元年 - 明治2年・1869年刊)(ボストン美術館所蔵)、明治から大正期の浮世絵師、日本画家の尾形月耕 による『義士四十七図』(国立国会図書館所蔵)、江戸時代末期の浮世絵師の歌川国芳による『仮名手本忠臣蔵』の登場人物を描いた『誠忠義士伝』(弘化4年・1847年刊)(ボストン美術館所蔵)です。 - 当サイト独自の色彩補正を行っている部分があり、それぞれが公開している原画とは色調が若干違う場合があります。
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関連人物 | ||
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姓名・辞世など |
享年 | 錦絵 |
萱野三平重実
かやのさんぺいしげざね
浅野内匠頭の切腹とお家取り潰しの報せを赤穂まで早籠で伝えた。討ち入り前に忠孝のはざまで自刃。
事件を基に後年制作された『仮名手本忠臣蔵』では早野勘平とされた。 《辞世》
晴れゆくや日頃心の花曇り 涓泉
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