*スマートフォンの縦向きで画面がはみ出す場合、横向きでご利用ください。(調整中です) 浄土宗(じょうどしゅう)の経文(きょうもん) 一紙小消息(いっしこしょうそく) 『一紙小消息』PDF をダウンロード 漢字・唱え方など参考:『お経 浄土宗』(講談社) 一紙小消息(いっしこしょうそく) [一] 末代(まつだい)の衆生(しゅじょう)を、往生(おうじょう)極楽(ごくらく)の機(き)にあてて見(み)るに、行(ぎょう)すくなしとても疑(うたご)うべからず、一念(いちねん)十念(じゅうねん)に足(た)りぬべし。 罪人(ざいにん)なりとても疑(うたご)うべからず、罪根(ざいこん)ふかきをもきらわじと宣(の)給(たま)えり。 時(とき)くだれりとても疑(うたご)うべからず、法滅(ほうめつ)以後(いご)の衆生(しゅじょう)なおもて往生(おうじょう)すべし、況(いわん)や近来(きんらい)をや。 我(わ)が身(み)わろしとても疑(うたご)うべからず、自身(じしん)はこれ煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)せる凡夫(ぼんぶ)なりとの給(たま)えり。 十方(じっぽう)に浄土(じょうど)おおけれど西方(さいほう)を願(ねご)うは、十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生(しゅじょう)の生(うま)るる故(ゆえ)なり。 諸仏(しょぶつ)の中(なか)に弥陀(みだ)に帰(き)したてまつるは、三念(さんねん)五念(ごねん)に至(いた)るまで自(みず)から来迎(らいこう)し給(たも)う故(ゆえ)なり。 諸行(しょぎょう)の中(なか)に念仏(ねんぶつ)を用(もち)うるは、彼(かの)仏(ほとけ)の本願(ほんがん)なる故(ゆえ)なり。 一紙小消息(いっしこしょうそく) [二] いま弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に乗(じょう)じて往生(おうじょう)しなんに、願(がん)として成(じょう)ぜずという事(こと)あるべからず。 本願(ほんがん)に乗(じょう)ずることは信心(しんじん)のふかきによるべし。 受(うけ)がたき人身(にんしん)をうけて、あいがたき本願(ほんがん)にあいて、おこしがたき道心(どうしん)を発(おこ)して、 はなれがたき輪廻(りんね)の里(さと)をはなれて、生(う)まれがたき浄土(じょうど)に往生(おうじょう)せんこと、悦(よろこび)の中(なか)の悦(よろこび)なり。 罪(つみ)は十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の者(もの)も生(うま)ると信(しん)じて、少罪(しょうざい)をも犯(おか)さじと思(おも)うべし、罪人(ざいにん)なお生(うま)る。 況(いわん)や善人(ぜんにん)をや。 行(ぎょう)は一念(いちねん)十念(じゅうねん)なおむなしからずと信(しん)じて、無間(むけん)に修(しゅ)すべし、一念(いちねん)なお生(うま)る況(いわん)や多念(たねん)をや。 阿弥陀仏(あみだぶつ)は不取正覚(ふしゅしょうがく)の詞(ことば)を成就(じょうじゅ)して、現(げん)に彼(かの)国(くに)にましませば、 一紙小消息(いっしこしょうそく) [三] 定(さだ)めて命終(みょうじゅう)の時(とき)は来迎(らいこう)し給(たま)わん。 釈尊(しゃくそん)は善哉(よきかな)我(わ)が教(おし)えに随(したが)いて生死(しょうじ)を離(はな)ると知見(ちけん)したまい、六方(ろっぽう)の諸仏(しょぶつ)は悦(よろこ)ばしき哉(かな)我(わ)が証誠(しょうじょう)を信(しん)じて、不退(ふたい)の浄土(じょうど)に生(うま)ると悦(よろこ)び給(たも)うらんと、天(てん)に仰(あお)ぎ地(ち)に臥(ふ)して悦(よろこ)ぶべし。 このたび弥陀(みだ)の本願(ほんがん)にあう事(こと)を。 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、かの仏(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。 頼(たの)みてもたのむべきは、乃至十念(ないしじゅうねん)の詞(ことば)、信(しん)じても猶(なお)信(しん)ずべきは必得往生(ひっとくおうじょう)の文(もん)なり。 一紙小消息(いっしこしょうそく) 末代(まつだい)の衆生(しゅじょう)を、往生(おうじょう)極楽(ごくらく)の機(き)にあてて見(み)るに、行(ぎょう)すくなしとても疑(うたご)うべからず、一念(いちねん)十念(じゅうねん)に足(た)りぬべし。 罪人(ざいにん)なりとても疑(うたご)うべからず、罪根(ざいこん)ふかきをもきらわじと宣(の)給(たま)えり。 時(とき)くだれりとても疑(うたご)うべからず、法滅(ほうめつ)以後(いご)の衆生(しゅじょう)なおもて往生(おうじょう)すべし、況(いわん)や近来(きんらい)をや。 我(わ)が身(み)わろしとても疑(うたご)うべからず、自身(じしん)はこれ煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)せる凡夫(ぼんぶ)なりとの給(たま)えり。 十方(じっぽう)に浄土(じょうど)おおけれど西方(さいほう)を願(ねご)うは、十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生(しゅじょう)の生(うま)るる故(ゆえ)なり。 諸仏(しょぶつ)の中(なか)に弥陀(みだ)に帰(き)したてまつるは、三念(さんねん)五念(ごねん)に至(いた)るまで自(みず)から来迎(らいこう)し給(たも)う故(ゆえ)なり。 諸行(しょぎょう)の中(なか)に念仏(ねんぶつ)を用(もち)うるは、彼(かの)仏(ほとけ)の本願(ほんがん)なる故(ゆえ)なり。 いま弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に乗(じょう)じて往生(おうじょう)しなんに、願(がん)として成(じょう)ぜずという事(こと)あるべからず。 本願(ほんがん)に乗(じょう)ずることは信心(しんじん)のふかきによるべし。 受(うけ)がたき人身(にんしん)をうけて、あいがたき本願(ほんがん)にあいて、おこしがたき道心(どうしん)を発(おこ)して、はなれがたき輪廻(りんね)の里(さと)をはなれて、生(う)まれがたき浄土(じょうど)に往生(おうじょう)せんこと、悦(よろこび)の中(なか)の悦(よろこび)なり。 罪(つみ)は十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の者(もの)も生(うま)ると信(しん)じて、少罪(しょうざい)をも犯(おか)さじと思(おも)うべし、罪人(ざいにん)なお生(うま)る。 況(いわん)や善人(ぜんにん)をや。 行(ぎょう)は一念(いちねん)十念(じゅうねん)なおむなしからずと信(しん)じて、無間(むけん)に修(しゅ)すべし、一念(いちねん)なお生(うま)る況(いわん)や多念(たねん)をや。 阿弥陀仏(あみだぶつ)は不取正覚(ふしゅしょうがく)の詞(ことば)を成就(じょうじゅ)して、現(げん)に彼(かの)国(くに)にましませば、定(さだ)めて命終(みょうじゅう)の時(とき)は来迎(らいこう)し給(たま)わん。 釈尊(しゃくそん)は善哉(よきかな)我(わ)が教(おし)えに随(したが)いて生死(しょうじ)を離(はな)ると知見(ちけん)したまい、六方(ろっぽう)の諸仏(しょぶつ)は悦(よろこ)ばしき哉(かな)我(わ)が証誠(しょうじょう)を信(しん)じて、不退(ふたい)の浄土(じょうど)に生(うま)ると悦(よろこ)び給(たも)うらんと、天(てん)に仰(あお)ぎ地(ち)に臥(ふ)して悦(よろこ)ぶべし。 このたび弥陀(みだ)の本願(ほんがん)にあう事(こと)を。 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、かの仏(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。 頼(たの)みてもたのむべきは、乃至十念(ないしじゅうねん)の詞(ことば)、信(しん)じても猶(なお)信(しん)ずべきは必得往生(ひっとくおうじょう)の文(もん)なり。 一紙小消息(いっしこしょうそく) 末代(まつだい)の衆生(しゅじょう)を、往生(おうじょう)極楽(ごくらく)の機(き)にあてて見(み)るに、行(ぎょう)すくなしとても疑(うたご)うべからず、一念(いちねん)十念(じゅうねん)に足(た)りぬべし。 罪人(ざいにん)なりとても疑(うたご)うべからず、罪根(ざいこん)ふかきをもきらわじと宣(の)給(たま)えり。 時(とき)くだれりとても疑(うたご)うべからず、法滅(ほうめつ)以後(いご)の衆生(しゅじょう)なおもて往生(おうじょう)すべし、況(いわん)や近来(きんらい)をや。 我(わ)が身(み)わろしとても疑(うたご)うべからず、自身(じしん)はこれ煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)せる凡夫(ぼんぶ)なりとの給(たま)えり。 十方(じっぽう)に浄土(じょうど)おおけれど西方(さいほう)を願(ねご)うは、十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生(しゅじょう)の生(うま)るる故(ゆえ)なり。 諸仏(しょぶつ)の中(なか)に弥陀(みだ)に帰(き)したてまつるは、三念(さんねん)五念(ごねん)に至(いた)るまで自(みず)から来迎(らいこう)し給(たも)う故(ゆえ)なり。 諸行(しょぎょう)の中(なか)に念仏(ねんぶつ)を用(もち)うるは、彼(かの)仏(ほとけ)の本願(ほんがん)なる故(ゆえ)なり。 いま弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に乗(じょう)じて往生(おうじょう)しなんに、願(がん)として成(じょう)ぜずという事(こと)あるべからず。 本願(ほんがん)に乗(じょう)ずることは信心(しんじん)のふかきによるべし。 受(うけ)がたき人身(にんしん)をうけて、あいがたき本願(ほんがん)にあいて、おこしがたき道心(どうしん)を発(おこ)して、はなれがたき輪廻(りんね)の里(さと)をはなれて、生(う)まれがたき浄土(じょうど)に往生(おうじょう)せんこと、悦(よろこび)の中(なか)の悦(よろこび)なり。 罪(つみ)は十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の者(もの)も生(うま)ると信(しん)じて、少罪(しょうざい)をも犯(おか)さじと思(おも)うべし、罪人(ざいにん)なお生(うま)る。 況(いわん)や善人(ぜんにん)をや。 行(ぎょう)は一念(いちねん)十念(じゅうねん)なおむなしからずと信(しん)じて、無間(むけん)に修(しゅ)すべし、一念(いちねん)なお生(うま)る況(いわん)や多念(たねん)をや。 阿弥陀仏(あみだぶつ)は不取正覚(ふしゅしょうがく)の詞(ことば)を成就(じょうじゅ)して、現(げん)に彼(かの)国(くに)にましませば、定(さだ)めて命終(みょうじゅう)の時(とき)は来迎(らいこう)し給(たま)わん。 釈尊(しゃくそん)は善哉(よきかな)我(わ)が教(おし)えに随(したが)いて生死(しょうじ)を離(はな)ると知見(ちけん)したまい、六方(ろっぽう)の諸仏(しょぶつ)は悦(よろこ)ばしき哉(かな)我(わ)が証誠(しょうじょう)を信(しん)じて、不退(ふたい)の浄土(じょうど)に生(うま)ると悦(よろこ)び給(たも)うらんと、天(てん)に仰(あお)ぎ地(ち)に臥(ふ)して悦(よろこ)ぶべし。 このたび弥陀(みだ)の本願(ほんがん)にあう事(こと)を。 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、かの仏(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。 頼(たの)みてもたのむべきは、乃至十念(ないしじゅうねん)の詞(ことば)、信(しん)じても猶(なお)信(しん)ずべきは必得往生(ひっとくおうじょう)の文(もん)なり。 漢字・唱え方など参考:『お経 浄土宗』(講談社) 《一紙小消息 PDF版》 『一紙小消息』PDF版をダウンロード PDF版全画面表示 PDFが表示されない場合、こちらをクリック。 おすすめサイト・関連サイト…