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臨済宗りんざいしゅう経文きょうもん

宗門安心章しゅうもんあんじんしょう

漢字・唱え方など参考:『お経 禅宗』(講談社)

宗門安心章しゅうもんあんじんしょう

  第一だいいち 信心帰依しんじんきえ
万劫まんごうにもがたきは人身じんしん億劫おくごうにもがたきは仏法ぶっぽうなり。われらいまさいわいにがた人身じんしんけ、がた仏法ぶっぽうう、宿善しゅくぜんのいたすところといえども、仏祖広大ぶっそこうだい恩徳おんとくらざるなし。いかでか歓喜かんぎ踊躍ゆやくせざらんや。ひとえ信心帰依しんじんきえこころおこし、如説にょせつ修行しゅぎょうをはげむべし。むなしく一生いっしょうすごごして、永劫ようごうくいのこすことなかれ。
しん道源功徳どうげんくどくははにして、行善ぎょうぜんもとはすなわち帰依きえにあり。至心ししん合掌がっしょうし、あつ三宝さんぼううやまうべし。三宝さんぼうとは仏法僧ぶっぽうそうなり。四生ししょう終帰しゅうき万国ばんこく極宗ごくしゅういずれのいずれれのひとか、このほうたっとばざらん。ひとはなはしきはすくなし。よくおしうればこれにしたがう。それ三宝さんぼうせずんば、なにもってかまがれるをなおうせん。
うやうやしく大法だいほう渕源えんげんをたずぬるに、世尊せそん成道じょうどうのあかつき、玉歩ぎょくほ鹿苑ろくおんほこばして、五比丘ごびくのためにしたしく四諦したい法門ほうもんきたもう。三宝さんぼうこのときはじめてず。これを現前げんぜん三宝さんぼうしょうしたてまつる。
世尊せそんひとたび涅槃ねはんくもにかくれたまえば、大衆だいしゅう悲泣ひきゅう哀恋あいれんがたく、あるいいしきざみ、かみうつして、巍々ぎぎたる光陽こうよう末代まつだいしのび、あるい貝葉ばいようしるし、黄巻こうかんろくして、一代いちだい説法せっぽうことごと万世ばんせいつたう。また円頂えんちょう方袍ほうぼう比丘衆びくにしゅうはたけく四弘しぐ願輪がんりんむちうって、上座じょうざ真威儀しんいぎを、五濁ごじょく末世まっせ宛然えんぜんしたもう。みなこれ正法しょうぼう護持ごじ悲願ひがんにしてこれを住持じゅうじ三宝さんぼうづく。
しかも三宝さんぼう実体じったいは、元来がんらい人々にんにん自性じしょううち本具ほんぐしたれば、みずか覚性かくしょう帰依きえして、念々ねんねん痴闇ちあんしんなき、これを帰依仏きえぶつ無上尊むじょうそんといい、みずか心法しんぼう帰依きえして煩悩邪見ぼんのうじゃけんしんなき、これを帰依法きえほう離欲尊りよくそんという。みず柔軟心にゅうなんしん帰依きえして、なくなく一切衆生いっさいしゅじょう和敬わけい随順ずいじゅんするを帰依僧きえそう和合尊わごうそんという。もとより一体いったいにして自性じしょう霊妙れいみょうはなれず、ゆえにこれを一体いったい三宝さんぼうづく。
上来じょうらい三宝さんぼう三種さんしゅべつありといえども、仔細しさい点検てんけんすればすなわち別異べついにあらず。ひとえにわが大恩教主だいおんきょうしゅ釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ成等正覚じょうとうしょうかく由来ゆらいし、三世一切さんぜいっさい諸仏しょぶつ諸尊しょそんも、南無なむ釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ一念唱名いちねんしょうみょううちにはふくませたもう。されば朝夕ちょうせき随所ずいしょ南無なむ釈迦牟尼仏しゃかむにぶつと、一心いっしんとな至心ししん帰命きみょうしたてまつるべし。
至心ししん帰命きみょうしたてまつるがゆえに、いまよりのち、尽未来際じんみらいさいちかって一切いっさい邪魔じゃま外道げどうには帰依きえせざるべし。されば諸仏しょぶつ諸菩薩しょぼさつ無辺むへん願海がんかい摂取せっしゅせられて、殊勝しゅしょうもとめんとようせざれども、殊勝しゅしょうおのずいたって、光明不尽こうみょうふじん生涯しょうがいめぐまるること決定けつじょうしてうたがいあるべからず。

  第二だいに 自覚安心じかくあんじん
かなしいかな、われら一念いちねんさとればじきにこれほとけとなるをらずして、かえって一念いちねんまようがゆえに、みずか凡夫ぼんぶとなりさがる。かくもたっと仏法ぶっぽうみみにしつつも一向いっこうに、信心帰依しんじんきえこころなく、生死しょうじうみ浮沈ふちんして、三毒五欲さんどくごよく妄念もうねん憎愛取捨ぞうあいしゅしゃ迷執めいしゅうに、日夜にちや造業ぞうごう造作ぞうさして、永劫ようごう出離しゅつりきわもなし。
たまたま信心しんじんおこせども、自心じしんほとけらざれば、ただいたずらに狂奔きょうほんし、傍家ぼうけ波々地ははじに、ほとけもとめ、ほうもとめめてむときなし。あわれというもおろかなり。
いずれのひとすみややかに、善知識ぜんちしきにはいまつり、無明長夜むみょうちょうやゆめて、常楽涅槃じょうらくねはん入相いりあいの、かねこころをすましつつ、菩提心ぼだいしんをぞおこすべし。
そもそも諸仏出世しょぶつしゅっせ一大事いちだいじ因縁いんねんは、衆生しゅじょうをして、仏知見ぶっちけんひらかしめ、衆生しゅじょう仏知見ぶっちけんしめし、衆生しゅじょう仏知見ぶっちけんさとらしめ、衆生しゅじょうをして仏知見ぶっちけんどうらしめんがためなりと、大聖だいしょう世尊せそんしめされぬ。
しかも霊山りょうぜん会上えじょうにて、梵天王ぼんてんのうけんじたる、金波羅華こんぱらげをばねんじつつ、破顔微笑はがんみしょうでたまい、正法眼蔵しょうぼうげんぞう涅槃妙心ねはんみょうしん実相微妙じっそうみみょう法門ほうもんを、摩訶迦葉まかかしょうにぞつたえらる。
それより的々てきてき相承そうじょうし、二十八代にじゅうはちだい菩提ぼだい達磨だるま大師だいしをば、わがしゅう鼻祖びそあおぐなり。得々とくとくとして南海なんかいうかかび、三千里外さんぜんりがいとお大法だいほう震土しんどつたえ、黙々もくもくとして、嵩山すうざん九年くねん面壁めんぺきなしたもう。祖師そし西来意せいらいい、もとより梁王りょうおうらざるところ畢竟ひっきょう無功徳むくどく廓然かくねんとして聖諦しょうたいなく、隻履せきり西にしってよりようとして消息しょうそくなし。しかりといえども、祖師そしもとこのきたる、ほうつたえて迷情めいじょうすくわんがためなり。不立文字ふりゅうもんじ教外別伝きょうげべつでんじき人心じんしんゆびざして、見性成仏けんしょうじょうぶつせしめらる。大悲だいひ恩徳おんとくきわみなし。
さればなんじ言下ごんかみずか回光返照えこうへんしょうして、らに別処べっしょもとめざれ。身心しんじん祖仏そぶつべつならざることをって、当下とうげ無事ぶじなるべし。山僧さんぞう見処けんじょやくすれば、釈迦しゃかべつならず。ってはるといい、みみってはきくくといい、はなってはぎ、くちっては談論だんろんし、っては執捉しっしゃくし、あしっては運奔うんぽんす。このなにをか欠少かんしょうすと、宗祖しゅうそ臨済禅師りんざいぜんんじせられたり。
やまいいずれのところぞや。やまい不自信ふじしんところにあり。即今そくこん聴法底ちょうぼうてい識得しきとくすれば、自性じしょうすなわち無性むしょうにて、すで戯論けろんはなれたり。不安ふあんしんもとむるに、不可得ふかとくなりとてっしてぞ二祖にそ安心あんじんたまえる。
寒暑かんしょにたがいにうつれども、慧玄えげん這裡しゃり生死しょうじしとしめされぬ。日日にちにちこれ好日こうじつ人人にんにんこれ真人しんにんかんとようすればすなわき、せんとようすればすなわす。きたればはんきっし、こんきたればすなわねむる。ただ平常へいじょうにして無事ぶじなれば、無事ぶじこれ貴人きにんさとるべし。

  第三だいさん 行事仏道ぎょうじぶつどう
正法しょうぼうみち多途たとなれど、要約ようやくすれば、かいじょう三学さんがくでず。三学さんがく一心いっしんし、定慧じょうえもと不二ふににして禅戒一如ぜんかいいちにょ妙道みょうどうなり。
かいとは止悪修善しあくしゅぜん人人にんにん心地しんち様相ようそうなり。ゆえ衆生しゅじょう仏戒ぶっかいくれば、すなわち諸仏しょぶつくらいる。くらい大覚だいかくおなじうしおわる。まさに仏戒ぶっかいけんには、無始劫来むしごうらい罪障ざいしょうことごとくみな懺悔さんげすべし。懺悔さんげせんとほっせば、端坐たんざして実相じっそうかんぜよ。衆罪しゅうざい霜露そうろごとし、慧日えにちよくこれをしょうせん。すで懺悔さんげおわれば、しん三業さんごう清浄しょうじょうにして、まさ菩薩ぼさつ大戒だいかいくべし。
第一だいいち 殺生せっしょうするなかれ。もろもろの生命いのちあるもの、ことさらにころすなかれ。みずかころし、をしてころさしむることなかれ。衆生しゅじょう仏性ぶっしょうしぬれば、すなわちいずれも仏子ぶっしなり。いかでかころすにしのびんや。
第二だいに 偸盗ちゅうとうするなかれ。吾等われらもとより空手くうしゅにして、このきたり、空手くうしゅにしてまたかえる。一紙いっし半銭はんせんたりといえども、元来がんらい吾等われら所有しょゆうなし。わずかに可得かとくけんあらば、すなわちぬすむむとしめされぬ。一切いっさい財宝ざいほうおしみなく、あまねく衆生しゅじょう布施ふせすべし。いかでかぬすむにしのびんや。
第三だいさん 邪淫じゃいんするなかれ。自性じしょう元来がんらい清浄しょうじょうなれば、行事ぎょうじおのずか清浄しょうじょうなるを、梵行ぼんぎょうとてはたっとべり。たとい夫婦ふううふなかとても、みだらの所行しょぎょうあるなかれ。家庭かていはこれ敬愛けいあいにわにして、子女しじょ養育よういく道場どうじょうなり。これをみだすにしのびんや。
第四だいし 妄語もうごするなかれ。ざるをたりとほこり、いたらざるをいたれりととくくことなかれ。直心じきしんはこれ道場どうじょうなり。行住坐臥ぎょうじゅうざが脚下きゃっか照顧しょうこし、ごとごとく、すべからく潜行密用せんこうみつゆうすべし。みずかひとりをつつししむべく、あざむくにしのびんや。
第五だいご 飲酒おんじゅするなかれ。愚痴ぐちさけむことなかれ、無明むみょうさけうなかれ。自性霊妙じしょうれいみょう主人公しゅじんこう惺々せいせいとしてめたれば、随所ずいしょしゅとなって、立処りっしょみなしんなり。みずか自性じしょうくらまして、をして迷惑めいわくせしめんや。
かくのごときの菩薩ぼさつ大戒だいかいまさ尊重そんちょう珍敬ちんきょうすべし。あんめいい、貧人ひんじんたからたるがごとし。これはこれわれらが大師だいしなり。今身こんじんより仏身ぶっしんいたるまで、かたじけなくも行持ぎょうじして、懈怠けたいこころなかるべし。
じょうとは坐禅ざぜん三昧ざんまいなり。ほか一切いっさい善悪ぜんなく境界きょうかいむかって心念しんねんおこらざる、これをづけてとなし、内自性うちじしょうどうぜざる、これをづけてぜんとなす。三昧ざんまいとは正念相続しょうねんそうぞくなり。ぎょうまたぜんまたぜん語黙動静ごもくどうじょう安然あんねんとして、専一せんいつ己事こじ究明きゅうめいするは、坐禅ざぜん要諦ようたいにして、宗門しゅうもん第一だいいち行事ぎょうじなり。
とは智慧ちえなり。仏智ぶっちなり。自我じが迷妄めいもう脱却だっきゃくして、不二ふに妙道みょうどうてっするなり。じん十方世界じっぽうせかい沙門しゃもんまなこたてには三世さんぜつらぬき、よこには十方じっぽう瀰淪みりんして、刹土せつどとしてわがあらざるなく、瞬時しゅんじとしてわが時光じこうあらざるなし。いまこの三界さんかいことごとくこれわがにして、そのうち衆生しゅじょうみなこれわがなり。
衆生しゅじょうむがゆえにわれまたむ。慈悲じひ愛憐あいれんせざらんや。劫石ごうせきたといしょうするのありとも、わが願力がんりききざらん。尽未来際じんみらいさい報恩謝徳ほうおんしゃとくおもい、興隆仏法こうりゅうぶっぽうこころざし寤寐ごびにもわするべからず。
宗門安心章しゅうもんあんじんしょう
  第一だいいち 信心帰依しんじんきえ
万劫まんごうにもがたきは人身じんしん億劫おくごうにもがたきは仏法ぶっぽうなり。われらいまさいわいにがた人身じんしんけ、がた仏法ぶっぽうう、宿善しゅくぜんのいたすところといえども、仏祖広大ぶっそこうだい恩徳おんとくらざるなし。いかでか歓喜かんぎ踊躍ゆやくせざらんや。ひとえ信心帰依しんじんきえこころおこし、如説にょせつ修行しゅぎょうをはげむべし。むなしく一生いっしょうすごごして、永劫ようごうくいのこすことなかれ。
しん道源功徳どうげんくどくははにして、行善ぎょうぜんもとはすなわち帰依きえにあり。至心ししん合掌がっしょうし、あつ三宝さんぼううやまうべし。三宝さんぼうとは仏法僧ぶっぽうそうなり。四生ししょう終帰しゅうき万国ばんこく極宗ごくしゅういずれのいずれれのひとか、このほうたっとばざらん。ひとはなはしきはすくなし。よくおしうればこれにしたがう。それ三宝さんぼうせずんば、なにもってかまがれるをなおうせん。
うやうやしく大法だいほう渕源えんげんをたずぬるに、世尊せそん成道じょうどうのあかつき、玉歩ぎょくほ鹿苑ろくおんほこばして、五比丘ごびくのためにしたしく四諦したい法門ほうもんきたもう。三宝さんぼうこのときはじめてず。これを現前げんぜん三宝さんぼうしょうしたてまつる。
世尊せそんひとたび涅槃ねはんくもにかくれたまえば、大衆だいしゅう悲泣ひきゅう哀恋あいれんがたく、あるいいしきざみ、かみうつして、巍々ぎぎたる光陽こうよう末代まつだいしのび、あるい貝葉ばいようしるし、黄巻こうかんろくして、一代いちだい説法せっぽうことごと万世ばんせいつたう。また円頂えんちょう方袍ほうぼう比丘衆びくにしゅうはたけく四弘しぐ願輪がんりんむちうって、上座じょうざ真威儀しんいぎを、五濁ごじょく末世まっせ宛然えんぜんしたもう。みなこれ正法しょうぼう護持ごじ悲願ひがんにしてこれを住持じゅうじ三宝さんぼうづく。
しかも三宝さんぼう実体じったいは、元来がんらい人々にんにん自性じしょううち本具ほんぐしたれば、みずか覚性かくしょう帰依きえして、念々ねんねん痴闇ちあんしんなき、これを帰依仏きえぶつ無上尊むじょうそんといい、みずか心法しんぼう帰依きえして煩悩邪見ぼんのうじゃけんしんなき、これを帰依法きえほう離欲尊りよくそんという。みず柔軟心にゅうなんしん帰依きえして、なくなく一切衆生いっさいしゅじょう和敬わけい随順ずいじゅんするを帰依僧きえそう和合尊わごうそんという。もとより一体いったいにして自性じしょう霊妙れいみょうはなれず、ゆえにこれを一体いったい三宝さんぼうづく。
上来じょうらい三宝さんぼう三種さんしゅべつありといえども、仔細しさい点検てんけんすればすなわち別異べついにあらず。ひとえにわが大恩教主だいおんきょうしゅ釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ成等正覚じょうとうしょうかく由来ゆらいし、三世一切さんぜいっさい諸仏しょぶつ諸尊しょそんも、南無なむ釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ一念唱名いちねんしょうみょううちにはふくませたもう。されば朝夕ちょうせき随所ずいしょ南無なむ釈迦牟尼仏しゃかむにぶつと、一心いっしんとな至心ししん帰命きみょうしたてまつるべし。
至心ししん帰命きみょうしたてまつるがゆえに、いまよりのち、尽未来際じんみらいさいちかって一切いっさい邪魔じゃま外道げどうには帰依きえせざるべし。されば諸仏しょぶつ諸菩薩しょぼさつ無辺むへん願海がんかい摂取せっしゅせられて、殊勝しゅしょうもとめんとようせざれども、殊勝しゅしょうおのずいたって、光明不尽こうみょうふじん生涯しょうがいめぐまるること決定けつじょうしてうたがいあるべからず。

  第二だいに 自覚安心じかくあんじん
かなしいかな、われら一念いちねんさとればじきにこれほとけとなるをらずして、かえって一念いちねんまようがゆえに、みずか凡夫ぼんぶとなりさがる。かくもたっと仏法ぶっぽうみみにしつつも一向いっこうに、信心帰依しんじんきえこころなく、生死しょうじうみ浮沈ふちんして、三毒五欲さんどくごよく妄念もうねん憎愛取捨ぞうあいしゅしゃ迷執めいしゅうに、日夜にちや造業ぞうごう造作ぞうさして、永劫ようごう出離しゅつりきわもなし。
たまたま信心しんじんおこせども、自心じしんほとけらざれば、ただいたずらに狂奔きょうほんし、傍家ぼうけ波々地ははじに、ほとけもとめ、ほうもとめめてむときなし。あわれというもおろかなり。
いずれのひとすみややかに、善知識ぜんちしきにはいまつり、無明長夜むみょうちょうやゆめて、常楽涅槃じょうらくねはん入相いりあいの、かねこころをすましつつ、菩提心ぼだいしんをぞおこすべし。
そもそも諸仏出世しょぶつしゅっせ一大事いちだいじ因縁いんねんは、衆生しゅじょうをして、仏知見ぶっちけんひらかしめ、衆生しゅじょう仏知見ぶっちけんしめし、衆生しゅじょう仏知見ぶっちけんさとらしめ、衆生しゅじょうをして仏知見ぶっちけんどうらしめんがためなりと、大聖だいしょう世尊せそんしめされぬ。
しかも霊山りょうぜん会上えじょうにて、梵天王ぼんてんのうけんじたる、金波羅華こんぱらげをばねんじつつ、破顔微笑はがんみしょうでたまい、正法眼蔵しょうぼうげんぞう涅槃妙心ねはんみょうしん実相微妙じっそうみみょう法門ほうもんを、摩訶迦葉まかかしょうにぞつたえらる。
それより的々てきてき相承そうじょうし、二十八代にじゅうはちだい菩提ぼだい達磨だるま大師だいしをば、わがしゅう鼻祖びそあおぐなり。得々とくとくとして南海なんかいうかかび、三千里外さんぜんりがいとお大法だいほう震土しんどつたえ、黙々もくもくとして、嵩山すうざん九年くねん面壁めんぺきなしたもう。祖師そし西来意せいらいい、もとより梁王りょうおうらざるところ畢竟ひっきょう無功徳むくどく廓然かくねんとして聖諦しょうたいなく、隻履せきり西にしってよりようとして消息しょうそくなし。しかりといえども、祖師そしもとこのきたる、ほうつたえて迷情めいじょうすくわんがためなり。不立文字ふりゅうもんじ教外別伝きょうげべつでんじき人心じんしんゆびざして、見性成仏けんしょうじょうぶつせしめらる。大悲だいひ恩徳おんとくきわみなし。
さればなんじ言下ごんかみずか回光返照えこうへんしょうして、らに別処べっしょもとめざれ。身心しんじん祖仏そぶつべつならざることをって、当下とうげ無事ぶじなるべし。山僧さんぞう見処けんじょやくすれば、釈迦しゃかべつならず。ってはるといい、みみってはきくくといい、はなってはぎ、くちっては談論だんろんし、っては執捉しっしゃくし、あしっては運奔うんぽんす。このなにをか欠少かんしょうすと、宗祖しゅうそ臨済禅師りんざいぜんんじせられたり。
やまいいずれのところぞや。やまい不自信ふじしんところにあり。即今そくこん聴法底ちょうぼうてい識得しきとくすれば、自性じしょうすなわち無性むしょうにて、すで戯論けろんはなれたり。不安ふあんしんもとむるに、不可得ふかとくなりとてっしてぞ二祖にそ安心あんじんたまえる。
寒暑かんしょにたがいにうつれども、慧玄えげん這裡しゃり生死しょうじしとしめされぬ。日日にちにちこれ好日こうじつ人人にんにんこれ真人しんにんかんとようすればすなわき、せんとようすればすなわす。きたればはんきっし、こんきたればすなわねむる。ただ平常へいじょうにして無事ぶじなれば、無事ぶじこれ貴人きにんさとるべし。

  第三だいさん 行事仏道ぎょうじぶつどう
正法しょうぼうみち多途たとなれど、要約ようやくすれば、かいじょう三学さんがくでず。三学さんがく一心いっしんし、定慧じょうえもと不二ふににして禅戒一如ぜんかいいちにょ妙道みょうどうなり。
かいとは止悪修善しあくしゅぜん人人にんにん心地しんち様相ようそうなり。ゆえ衆生しゅじょう仏戒ぶっかいくれば、すなわち諸仏しょぶつくらいる。くらい大覚だいかくおなじうしおわる。まさに仏戒ぶっかいけんには、無始劫来むしごうらい罪障ざいしょうことごとくみな懺悔さんげすべし。懺悔さんげせんとほっせば、端坐たんざして実相じっそうかんぜよ。衆罪しゅうざい霜露そうろごとし、慧日えにちよくこれをしょうせん。すで懺悔さんげおわれば、しん三業さんごう清浄しょうじょうにして、まさ菩薩ぼさつ大戒だいかいくべし。
第一だいいち 殺生せっしょうするなかれ。もろもろの生命いのちあるもの、ことさらにころすなかれ。みずかころし、をしてころさしむることなかれ。衆生しゅじょう仏性ぶっしょうしぬれば、すなわちいずれも仏子ぶっしなり。いかでかころすにしのびんや。
第二だいに 偸盗ちゅうとうするなかれ。吾等われらもとより空手くうしゅにして、このきたり、空手くうしゅにしてまたかえる。一紙いっし半銭はんせんたりといえども、元来がんらい吾等われら所有しょゆうなし。わずかに可得かとくけんあらば、すなわちぬすむむとしめされぬ。一切いっさい財宝ざいほうおしみなく、あまねく衆生しゅじょう布施ふせすべし。いかでかぬすむにしのびんや。
第三だいさん 邪淫じゃいんするなかれ。自性じしょう元来がんらい清浄しょうじょうなれば、行事ぎょうじおのずか清浄しょうじょうなるを、梵行ぼんぎょうとてはたっとべり。たとい夫婦ふううふなかとても、みだらの所行しょぎょうあるなかれ。家庭かていはこれ敬愛けいあいにわにして、子女しじょ養育よういく道場どうじょうなり。これをみだすにしのびんや。
第四だいし 妄語もうごするなかれ。ざるをたりとほこり、いたらざるをいたれりととくくことなかれ。直心じきしんはこれ道場どうじょうなり。行住坐臥ぎょうじゅうざが脚下きゃっか照顧しょうこし、ごとごとく、すべからく潜行密用せんこうみつゆうすべし。みずかひとりをつつししむべく、あざむくにしのびんや。
第五だいご 飲酒おんじゅするなかれ。愚痴ぐちさけむことなかれ、無明むみょうさけうなかれ。自性霊妙じしょうれいみょう主人公しゅじんこう惺々せいせいとしてめたれば、随所ずいしょしゅとなって、立処りっしょみなしんなり。みずか自性じしょうくらまして、をして迷惑めいわくせしめんや。
かくのごときの菩薩ぼさつ大戒だいかいまさ尊重そんちょう珍敬ちんきょうすべし。あんめいい、貧人ひんじんたからたるがごとし。これはこれわれらが大師だいしなり。今身こんじんより仏身ぶっしんいたるまで、かたじけなくも行持ぎょうじして、懈怠けたいこころなかるべし。
じょうとは坐禅ざぜん三昧ざんまいなり。ほか一切いっさい善悪ぜんなく境界きょうかいむかって心念しんねんおこらざる、これをづけてとなし、内自性うちじしょうどうぜざる、これをづけてぜんとなす。三昧ざんまいとは正念相続しょうねんそうぞくなり。ぎょうまたぜんまたぜん語黙動静ごもくどうじょう安然あんねんとして、専一せんいつ己事こじ究明きゅうめいするは、坐禅ざぜん要諦ようたいにして、宗門しゅうもん第一だいいち行事ぎょうじなり。
とは智慧ちえなり。仏智ぶっちなり。自我じが迷妄めいもう脱却だっきゃくして、不二ふに妙道みょうどうてっするなり。じん十方世界じっぽうせかい沙門しゃもんまなこたてには三世さんぜつらぬき、よこには十方じっぽう瀰淪みりんして、刹土せつどとしてわがあらざるなく、瞬時しゅんじとしてわが時光じこうあらざるなし。いまこの三界さんかいことごとくこれわがにして、そのうち衆生しゅじょうみなこれわがなり。
衆生しゅじょうむがゆえにわれまたむ。慈悲じひ愛憐あいれんせざらんや。劫石ごうせきたといしょうするのありとも、わが願力がんりききざらん。尽未来際じんみらいさい報恩謝徳ほうおんしゃとくおもい、興隆仏法こうりゅうぶっぽうこころざし寤寐ごびにもわするべからず。
漢字・唱え方など参考:『お経 禅宗』(講談社)
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Last updated : 2024/06/27