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漢字・唱え方など参考:『お経 禅宗』(講談社)
宗門安心章
第一 信心帰依
万劫にも
受け
難きは
人身、
億劫にも
遇い
難きは
仏法なり。われら
今さいわいに
受け
難き
人身を
受け、
遇い
難き
仏法に
遇う、
宿善のいたすところと
雖も、
仏祖広大の
恩徳に
依らざるなし。いかでか
歓喜し
踊躍せざらんや。
偏に
信心帰依の
心を
発し、
如説に
修行をはげむべし。
空しく
一生を
過ごして、
永劫に
悔を
遺すことなかれ。
信は
道源功徳の
母にして、
行善の
本はすなわち
帰依にあり。
至心に
合掌し、
篤く
三宝を
敬うべし。
三宝とは
仏法僧なり。
四生の
終帰、
万国の
極宗、
何れの
世、
何れの
人か、この
法を
尊ばざらん。
人尤だ
悪しきは
鮮し。よく
教うればこれに
従う。それ
三宝に
帰せずんば、
何を
以てか
枉れるを
直うせん。
恭しく
大法の
渕源をたずぬるに、
世尊成道のあかつき、
玉歩を
鹿苑に
運ばして、
五比丘のために
親しく
四諦の
法門を
説きたもう。
三宝この
時始めて
世に
出ず。これを
現前三宝と
称したてまつる。
世尊ひとたび
涅槃の
雲にかくれたまえば、
大衆悲泣哀恋止み
難く、
或は
石に
刻み、
紙に
写して、
巍々たる
光陽を
末代に
偲び、
或は
貝葉に
記し、
黄巻に
録して、
一代の
説法悉く
万世に
伝う。
又円頂方袍の
比丘衆はたけく
四弘の
願輪に
鞭うって、
上座の
真威儀を、
五濁の
末世に
宛然したもう。みなこれ
正法護持の
悲願にしてこれを
住持の
三宝と
名づく。
しかも
三宝の
実体は、
元来人々自性の
中に
本具したれば、
自ら
自の
覚性に
帰依して、
念々痴闇の
心なき、これを
帰依仏無上尊といい、
自ら
自の
心法に
帰依して
煩悩邪見の
心なき、これを
帰依法離欲尊という。
自ら
自の
柔軟心に
帰依して、
自なく
他なく
一切衆生と
和敬随順するを
帰依僧和合尊という。もとより
一体にして
自性の
霊妙を
離れず、
故にこれを
一体三宝と
名づく。
上来三宝に
三種の
別ありと
雖も、
仔細に
点検すればすなわち
別異にあらず。
偏にわが
大恩教主釈迦牟尼仏の
成等正覚に
由来し、
三世一切の
諸仏諸尊も、
南無釈迦牟尼仏の
一念唱名の
中には
含ませたもう。されば
朝夕随所に
南無釈迦牟尼仏と、
一心に
唱え
至心に
帰命したてまつるべし。
至心に
帰命したてまつるが
故に、
今よりのち、
尽未来際、
誓って
一切の
邪魔外道には
帰依せざるべし。されば
諸仏諸菩薩無辺の
願海に
摂取せられて、
殊勝を
求めんと
要せざれども、
殊勝自ら
至って、
光明不尽の
生涯を
恵まるること
決定して
疑いあるべからず。
第二 自覚安心
悲しいかな、われら
一念に
悟れば
直にこれ
仏となるを
知らずして、
却って
一念迷うが
故に、
自ら
凡夫となりさがる。かくも
尊き
仏法を
耳にしつつも
一向に、
信心帰依の
心なく、
生死の
海に
浮沈して、
三毒五欲の
妄念と
憎愛取捨の
迷執に、
日夜造業造作して、
永劫出離の
際もなし。
たまたま
信心おこせども、
自心仏と
知らざれば、ただ
徒らに
狂奔し、
傍家波々地に、
仏を
求め、
法を
求めて
止むときなし。
憐れというも
愚かなり。
いずれの
人も
速やかに、
善知識には
遇いまつり、
無明長夜の
夢を
捨て、
常楽涅槃に
入相の、
鐘に
心をすましつつ、
菩提心をぞおこすべし。
そもそも
諸仏出世の
一大事因縁は、
衆生をして、
仏知見を
開かしめ、
衆生に
仏知見を
示し、
衆生に
仏知見を
悟らしめ、
衆生をして
仏知見の
道に
入らしめんがためなりと、
大聖世尊は
示されぬ。
しかも
霊山会上にて、
梵天王が
献じたる、
金波羅華をば
拈じつつ、
破顔微笑を
賞でたまい、
正法眼蔵、
涅槃妙心、
実相微妙の
法門を、
摩訶迦葉にぞ
伝えらる。
それより
的々相承し、
二十八代菩提達磨大師をば、わが
宗鼻祖と
仰ぐなり。
得々として
南海に
浮かび、
三千里外遠く
大法を
震土に
伝え、
黙々として、
嵩山に
九年面壁なしたもう。
祖師西来意、もとより
梁王も
識らざるところ
畢竟無功徳。
廓然として
聖諦なく、
隻履西に
去ってより
杳として
消息なし。
然りと
雖も、
祖師もとこの
土に
来る、
法を
伝えて
迷情を
救わんがためなり。
不立文字、
教外別伝、
直に
人心を
指ざして、
見性成仏せしめらる。
大悲恩徳極みなし。
されば
你ら
言下に
自ら
回光返照して、
更らに
別処に
求めざれ。
身心と
祖仏と
別ならざることを
知って、
当下に
無事なるべし。
山僧が
見処に
約すれば、
釈迦と
別ならず。
眼に
在っては
見るといい、
耳に
在っては
聞くといい、
鼻に
在っては
香を
嗅ぎ、
口に
在っては
談論し、
手に
在っては
執捉し、
足に
在っては
運奔す。この
何をか
欠少すと、
宗祖臨済禅師は
呵せられたり。
病何れの
所ぞや。
病不自信の
所にあり。
即今聴法底を
識得すれば、
自性すなわち
無性にて、
已に
戯論を
離れたり。
不安の
心を
求むるに、
不可得なりと
徹してぞ
二祖安心は
得たまえる。
寒暑にたがいに
移れども、
慧玄が
這裡に
生死は
無しと
示されぬ。
日日これ
好日、
人人これ
真人。
行かんと
要すれば
即ち
行き、
坐せんと
要すれば
即ち
坐す。
餓え
来れば
飯を
喫し、
困じ
来れば
即ち
眠る。ただ
平常にして
無事なれば、
無事これ
貴人と
悟るべし。
第三 行事仏道
正法の
道多途なれど、
要約すれば、
戒定慧の
三学を
出でず。
三学は
自の
一心に
帰し、
定慧もと
不二にして
禅戒一如の
妙道なり。
戒とは
止悪修善の
義、
人人心地の
様相なり。
故に
衆生仏戒を
受くれば、すなわち
諸仏の
位に
入る。
位大覚に
同じうし
了る。まさに
仏戒を
受けんには、
無始劫来の
罪障悉くみな
懺悔すべし。
懺悔せんと
欲せば、
端坐して
実相を
観ぜよ。
衆罪は
霜露の
如し、
慧日よくこれを
消せん。
已に
懺悔し
了れば、
身口意三業清浄にして、
方に
菩薩の
大戒を
受くべし。
第一 殺生するなかれ。もろもろの
生命あるもの、ことさらに
殺すなかれ。
自ら
殺し、
他をして
殺さしむることなかれ。
衆生仏性具しぬれば、すなわちいずれも
仏子なり。いかでか
殺すに
忍びんや。
第二 偸盗するなかれ。
吾等もとより
空手にして、この
世に
来り、
空手にして
又帰る。
一紙半銭たりと
雖も、
元来吾等に
所有なし。わずかに
可得の
見あらば、すなわち
盗むと
示されぬ。
一切の
財宝おしみなく、あまねく
衆生に
布施すべし。いかでか
盗むに
忍びんや。
第三 邪淫するなかれ。
自性元来清浄なれば、
行事も
自ら
清浄なるを、
梵行とては
尊べり。たとい
夫婦の
中とても、
淫らの
所行あるなかれ。
家庭はこれ
敬愛の
場にして、
子女養育の
道場なり。これを
乱すに
忍びんや。
第四 妄語するなかれ。
得ざるを
得たりと
誇り、
到らざるを
到れりと
説くことなかれ。
直心はこれ
道場なり。
行住坐臥に
脚下を
照顧し、
愚の
如く
魯の
如く、
須らく
潜行密用すべし。
自ら
独りを
慎しむべく、
他を
欺むくに
忍びんや。
第五 飲酒するなかれ。
愚痴の
酒を
飲むことなかれ、
無明の
酒に
酔うなかれ。
自性霊妙、
主人公惺々として
覚めたれば、
随所に
主となって、
立処皆真なり。
自ら
自性を
晦まして、
他をして
迷惑せしめんや。
かくの
如きの
菩薩の
大戒、
当に
尊重し
珍敬すべし。
闇に
明に
遇い、
貧人の
宝を
得たるが
如し。これはこれわれらが
大師なり。
今身より
仏身に
至るまで、
忝くも
行持して、
懈怠の
心なかるべし。
定とは
坐禅三昧なり。
外一切善悪の
境界に
向って
心念起らざる、これを
名づけて
坐となし、
内自性を
見て
動ぜざる、これを
名づけて
禅となす。
三昧とは
正念相続なり。
行も
亦禅、
坐も
亦禅、
語黙動静安然として、
専一に
己事を
究明するは、
坐禅の
要諦にして、
宗門第一の
行事なり。
慧とは
智慧なり。
仏智なり。
自我の
迷妄を
脱却して、
不二に
妙道に
徹するなり。
尽十方世界は
沙門の
眼、
縦には
三世を
貫き、
横には
十方に
瀰淪して、
刹土としてわが
土に
非ざるなく、
瞬時としてわが
時光に
非ざるなし。
今この
三界は
悉くこれわが
有にして、その
中の
衆生は
皆これわが
子なり。
衆生病むが
故にわれ
又病む。
慈悲愛憐せざらんや。
劫石たとい
消するの
日ありとも、わが
願力は
尽きざらん。
尽未来際、
報恩謝徳の
思い、
興隆仏法の
志、
寤寐にも
忘るべからず。
宗門安心章
第一 信心帰依
万劫にも 受け 難きは 人身、 億劫にも 遇い 難きは 仏法なり。われら 今さいわいに 受け 難き 人身を 受け、 遇い 難き 仏法に 遇う、 宿善のいたすところと 雖も、 仏祖広大の 恩徳に 依らざるなし。いかでか 歓喜し 踊躍せざらんや。 偏に 信心帰依の 心を 発し、 如説に 修行をはげむべし。 空しく 一生を 過ごして、 永劫に 悔を 遺すことなかれ。
信は 道源功徳の 母にして、 行善の 本はすなわち 帰依にあり。 至心に 合掌し、 篤く 三宝を 敬うべし。 三宝とは 仏法僧なり。 四生の 終帰、 万国の 極宗、 何れの 世、 何れの 人か、この 法を 尊ばざらん。 人尤だ 悪しきは 鮮し。よく 教うればこれに 従う。それ 三宝に 帰せずんば、 何を 以てか 枉れるを 直うせん。
恭しく 大法の 渕源をたずぬるに、 世尊成道のあかつき、 玉歩を 鹿苑に 運ばして、 五比丘のために 親しく 四諦の 法門を 説きたもう。 三宝この 時始めて 世に 出ず。これを 現前三宝と 称したてまつる。
世尊ひとたび 涅槃の 雲にかくれたまえば、 大衆悲泣哀恋止み 難く、 或は 石に 刻み、 紙に 写して、 巍々たる 光陽を 末代に 偲び、 或は 貝葉に 記し、 黄巻に 録して、 一代の 説法悉く 万世に 伝う。 又円頂方袍の 比丘衆はたけく 四弘の 願輪に 鞭うって、 上座の 真威儀を、 五濁の 末世に 宛然したもう。みなこれ 正法護持の 悲願にしてこれを 住持の 三宝と 名づく。
しかも 三宝の 実体は、 元来人々自性の 中に 本具したれば、 自ら 自の 覚性に 帰依して、 念々痴闇の 心なき、これを 帰依仏無上尊といい、 自ら 自の 心法に 帰依して 煩悩邪見の 心なき、これを 帰依法離欲尊という。 自ら 自の 柔軟心に 帰依して、 自なく 他なく 一切衆生と 和敬随順するを 帰依僧和合尊という。もとより 一体にして 自性の 霊妙を 離れず、 故にこれを 一体三宝と 名づく。
上来三宝に 三種の 別ありと 雖も、 仔細に 点検すればすなわち 別異にあらず。 偏にわが 大恩教主釈迦牟尼仏の 成等正覚に 由来し、 三世一切の 諸仏諸尊も、 南無釈迦牟尼仏の 一念唱名の 中には 含ませたもう。されば 朝夕随所に 南無釈迦牟尼仏と、 一心に 唱え 至心に 帰命したてまつるべし。
至心に 帰命したてまつるが 故に、 今よりのち、 尽未来際、 誓って 一切の 邪魔外道には 帰依せざるべし。されば 諸仏諸菩薩無辺の 願海に 摂取せられて、 殊勝を 求めんと 要せざれども、 殊勝自ら 至って、 光明不尽の 生涯を 恵まるること 決定して 疑いあるべからず。
第二 自覚安心
悲しいかな、われら 一念に 悟れば 直にこれ 仏となるを 知らずして、 却って 一念迷うが 故に、 自ら 凡夫となりさがる。かくも 尊き 仏法を 耳にしつつも 一向に、 信心帰依の 心なく、 生死の 海に 浮沈して、 三毒五欲の 妄念と 憎愛取捨の 迷執に、 日夜造業造作して、 永劫出離の 際もなし。
たまたま 信心おこせども、 自心仏と 知らざれば、ただ 徒らに 狂奔し、 傍家波々地に、 仏を 求め、 法を 求めて 止むときなし。 憐れというも 愚かなり。
いずれの 人も 速やかに、 善知識には 遇いまつり、 無明長夜の 夢を 捨て、 常楽涅槃に 入相の、 鐘に 心をすましつつ、 菩提心をぞおこすべし。
そもそも 諸仏出世の 一大事因縁は、 衆生をして、 仏知見を 開かしめ、 衆生に 仏知見を 示し、 衆生に 仏知見を 悟らしめ、 衆生をして 仏知見の 道に 入らしめんがためなりと、 大聖世尊は 示されぬ。
しかも 霊山会上にて、 梵天王が 献じたる、 金波羅華をば 拈じつつ、 破顔微笑を 賞でたまい、 正法眼蔵、 涅槃妙心、 実相微妙の 法門を、 摩訶迦葉にぞ 伝えらる。
それより 的々相承し、 二十八代菩提達磨大師をば、わが 宗鼻祖と 仰ぐなり。 得々として 南海に 浮かび、 三千里外遠く 大法を 震土に 伝え、 黙々として、 嵩山に 九年面壁なしたもう。 祖師西来意、もとより 梁王も 識らざるところ 畢竟無功徳。 廓然として 聖諦なく、 隻履西に 去ってより 杳として 消息なし。 然りと 雖も、 祖師もとこの 土に 来る、 法を 伝えて 迷情を 救わんがためなり。 不立文字、 教外別伝、 直に 人心を 指ざして、 見性成仏せしめらる。 大悲恩徳極みなし。
されば 你ら 言下に 自ら 回光返照して、 更らに 別処に 求めざれ。 身心と 祖仏と 別ならざることを 知って、 当下に 無事なるべし。 山僧が 見処に 約すれば、 釈迦と 別ならず。 眼に 在っては 見るといい、 耳に 在っては 聞くといい、 鼻に 在っては 香を 嗅ぎ、 口に 在っては 談論し、 手に 在っては 執捉し、 足に 在っては 運奔す。この 何をか 欠少すと、 宗祖臨済禅師は 呵せられたり。
病何れの 所ぞや。 病不自信の 所にあり。 即今聴法底を 識得すれば、 自性すなわち 無性にて、 已に 戯論を 離れたり。 不安の 心を 求むるに、 不可得なりと 徹してぞ 二祖安心は 得たまえる。
寒暑にたがいに 移れども、 慧玄が 這裡に 生死は 無しと 示されぬ。 日日これ 好日、 人人これ 真人。 行かんと 要すれば 即ち 行き、 坐せんと 要すれば 即ち 坐す。 餓え 来れば 飯を 喫し、 困じ 来れば 即ち 眠る。ただ 平常にして 無事なれば、 無事これ 貴人と 悟るべし。
第三 行事仏道
正法の 道多途なれど、 要約すれば、 戒定慧の 三学を 出でず。 三学は 自の 一心に 帰し、 定慧もと 不二にして 禅戒一如の 妙道なり。
戒とは 止悪修善の 義、 人人心地の 様相なり。 故に 衆生仏戒を 受くれば、すなわち 諸仏の 位に 入る。 位大覚に 同じうし 了る。まさに 仏戒を 受けんには、 無始劫来の 罪障悉くみな 懺悔すべし。 懺悔せんと 欲せば、 端坐して 実相を 観ぜよ。 衆罪は 霜露の 如し、 慧日よくこれを 消せん。 已に 懺悔し 了れば、 身口意三業清浄にして、 方に 菩薩の 大戒を 受くべし。
第一 殺生するなかれ。もろもろの 生命あるもの、ことさらに 殺すなかれ。 自ら 殺し、 他をして 殺さしむることなかれ。 衆生仏性具しぬれば、すなわちいずれも 仏子なり。いかでか 殺すに 忍びんや。
第二 偸盗するなかれ。 吾等もとより 空手にして、この 世に 来り、 空手にして 又帰る。 一紙半銭たりと 雖も、 元来吾等に 所有なし。わずかに 可得の 見あらば、すなわち 盗むと 示されぬ。 一切の 財宝おしみなく、あまねく 衆生に 布施すべし。いかでか 盗むに 忍びんや。
第三 邪淫するなかれ。 自性元来清浄なれば、 行事も 自ら 清浄なるを、 梵行とては 尊べり。たとい 夫婦の 中とても、 淫らの 所行あるなかれ。 家庭はこれ 敬愛の 場にして、 子女養育の 道場なり。これを 乱すに 忍びんや。
第四 妄語するなかれ。 得ざるを 得たりと 誇り、 到らざるを 到れりと 説くことなかれ。 直心はこれ 道場なり。 行住坐臥に 脚下を 照顧し、 愚の 如く 魯の 如く、 須らく 潜行密用すべし。 自ら 独りを 慎しむべく、 他を 欺むくに 忍びんや。
第五 飲酒するなかれ。 愚痴の 酒を 飲むことなかれ、 無明の 酒に 酔うなかれ。 自性霊妙、 主人公惺々として 覚めたれば、 随所に 主となって、 立処皆真なり。 自ら 自性を 晦まして、 他をして 迷惑せしめんや。
かくの 如きの 菩薩の 大戒、 当に 尊重し 珍敬すべし。 闇に 明に 遇い、 貧人の 宝を 得たるが 如し。これはこれわれらが 大師なり。 今身より 仏身に 至るまで、 忝くも 行持して、 懈怠の 心なかるべし。
定とは 坐禅三昧なり。 外一切善悪の 境界に 向って 心念起らざる、これを 名づけて 坐となし、 内自性を 見て 動ぜざる、これを 名づけて 禅となす。 三昧とは 正念相続なり。 行も 亦禅、 坐も 亦禅、 語黙動静安然として、 専一に 己事を 究明するは、 坐禅の 要諦にして、 宗門第一の 行事なり。
慧とは 智慧なり。 仏智なり。 自我の 迷妄を 脱却して、 不二に 妙道に 徹するなり。 尽十方世界は 沙門の 眼、 縦には 三世を 貫き、 横には 十方に 瀰淪して、 刹土としてわが 土に 非ざるなく、 瞬時としてわが 時光に 非ざるなし。 今この 三界は 悉くこれわが 有にして、その 中の 衆生は 皆これわが 子なり。
衆生病むが 故にわれ 又病む。 慈悲愛憐せざらんや。 劫石たとい 消するの 日ありとも、わが 願力は 尽きざらん。 尽未来際、 報恩謝徳の 思い、 興隆仏法の 志、 寤寐にも 忘るべからず。
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漢字・唱え方など参考:『お経 禅宗』(講談社)