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■ Wikipediaによる解説 ■
今治城(いまばりじょう)は、伊予国越智郡今治(四国・愛媛県今治市通町)にあった城。昭和28年(1953年)10月9日に愛媛県史跡に指定された。
慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。
二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。
寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令により建築物は破却された。
今治城
(愛媛県) |
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別名 | 吹上城、吹揚城 |
城郭構造 | 輪郭式平城(海城) |
天守構造 | 5重不詳諸説あり(非現存・慶長13年(1608年)) 望楼型5重6階模擬(RC造・昭和55年(1980年)築) |
築城主 | 藤堂高虎 |
築城年 | 慶長7年(1602年) |
主な城主 | 藤堂氏、松平(久松)氏 |
廃城年 | 明治6年(1873年) |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | 愛媛県史跡 |
再建造物 | 模擬天守、鉄御門、多聞櫓5棟、石垣 |
位置 | 北緯34度3分48.01秒/東経133度0分24.5秒 |
二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。
寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令により建築物は破却された。
[今治城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2013年12月7日 (土) 14:35 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔今治城〕日本・愛媛県
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