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『歌川広重 初代/富士見百図初編』「目次」
- これは、歌川広重 初代(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日))が富士の姿をリアルに描いた「冨士見百圖初編/富士見百図初編」です。
- 安政6年・1859年の、広重没後の刊行です。「百図」となっていますが、実際に描かれたのは20景のみと言われ、広重の死により初編のみの刊行で未完に終わりました。
- 序文によれば、葛飾北斎の富嶽百景を意識しながら、『(北斎は)絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』と、北斎の富士は脇役であることが多いと評し、これに対して自分は『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』と、北斎と違ってより写実的な富士を描いたとしています。
- 原画は、スミソニアン協会図書館が所蔵し公開しているものです。
- このページでは、画像を明るくするために当サイト独自の色彩補正を行っており、スミソニアン協会図書館が公開している原画とは色調が若干違います。また、左右のページをつなぎ合わせるなどしています。なお、原画も合わせて掲載しました。
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『富士見百図初編』
= 歌川広重 初代 =
《 序文 》 |
立斎の序文
(立斎は広重の別号)
葛飾の卍翁、先に富嶽百景と題して一本を顕す。こは翁が例の筆才にて、草木鳥獣器材のたぐひ、或は人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し。此図は、夫と異にして、予がまのあたりに眺望せしを其儘にうつし置たる草稿を清書せしのみ。小冊の中もせばければ、極密には写しがたく、略せし処も亦多けれど、図取は全く写真の風景にして、遠足障なき人たち、一時の興に備ふるのみ。筆の拙きはゆるし給へ。
- 「富士見百図」の刊行は広重が没した翌年で、一部にはこの序文を広重の自作と信じない向きもあるとされる。
Last updated : 2024/06/29