『浮世絵・錦絵』 などを見る「目次」
- 正岡子規は、没年の明治35年〈1902年〉
の6月27日から8月6日までの間に、縦12cm、横9cmの小型の折帖に、野菜、果物18図を描いた。画帖には、元々あったという
下村為山の描く2図もある。
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題簽
、序文、裏見返しの俳句とも子規自筆。箱書は弟子の
寒川鼠骨
(1875-1954)による。
- この画帖に揮毫を依頼したのは蘇山人(1881-1902)で、本名羅朝斌
。父は清国公使館員、母は日本人。俳句の弟子であったが、子規没年の明治35年〈1902年〉3月24日没。享年二十二。
- 下村為山(1865-1949)は、同郷の画家。子規に俳句を学び俳画で知られた。
- 子規は、この「菓物帖」のほかに「草花帖」を8月1日から20日までの間に描き、「草花帖」での最後の絵となる朝顔の花を描いた1か月後の9月19日に、34歳11か月の人生を閉じた。
- 果物を描いた時のことは、子規の随筆『
病牀六尺
』にも記され、8月6日に「菓物帖」を書き終えたことを記している。(青空文庫「病牀六尺」 )
「病牀六尺 八十八」
○八月六日。朝、例によりて苦悶す。七時半麻痺剤を服し、新聞を読んでもらふて聞く。牛乳一合。午餐。頭苦しく新聞も読めず画もかけず。されど
鳳梨を求め置きしが気にかかりてならぬ故休み休み写生す。これにて菓物帖完結す。始めて鳴門蜜柑を食ふ。液多くして夏橙よりも甘し。今日の番にて左千夫来る。午後四時半また服剤。夕刻は昨日よりやや心地よし。夕刻寒暖計八十三度。(八月八日)
- 正岡子規
:1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)。日本の俳人、歌人、国語学研究家。(Wikipedia )
- 画像:国立国会図書館所蔵
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Last updated : 2024/06/29