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- 正岡子規は、没年の明治35年〈1902年〉(今から163年前) の8月1日から20日までの間に、「草花帖」として画帖に草花17図を描いた。
題簽 、序文は子規の自筆。箱書は弟子の寒川鼠骨 (1875-1954)による。- 子規は、この「草花帖」での朝顔の花を描いた1か月後の9月19日に、34歳11ヶ月の人生を閉じた。子規は、序文で次のように記している。
- 泣いて言う
写生はすべて枕に頭つけたままやるものと思え
写生は多くモルヒネを飲みてのちやるものと思え - この画帖は、友人の画家
中村不折 (1866-1943)から贈られたもの。そのことについて序文で述べている。 - この帖は不折子よりあずかりたりと思う しかしこの頃の病苦にては人の書画帖などへ物書くべき勇気さらになし よってこの帖をもらい受くるものなり(略)不折子欧州より帰り来るとも余の病牀よりこの唯一の楽み(すなわちこの写生帖)を奪い去ることなからんを望む
- 花を描いた時のことは、子規の随筆『
病牀六尺 』にも記されている。(青空文庫「病牀六尺」 ) - 「病牀六尺」(八月四日記)『このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る。けふは相変らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで
蝦夷菊 を写生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に画いた花はやや成功してうれしかつた。』 - 「病牀六尺」(八月二十三日)『○今日は水曜日である。朝から空は
霽 れたと見えて病床に寝て居つても暑さを感ずる。例に依つて草花の写生をしたいと思ふのであるが、今一つで草花帖を完結する処であるから何か力のあるものを画きたい、それには朝顔の花がよからうと思ふたが、生憎 今年は朝顔を庭に植ゑなかつたといふので仕方がないから隣の朝顔の盆栽を借りに遣 つた。ところが何と間違へたか朝顔の花を二輪ばかりちぎつて貰ふて来た。それでは何の役にも立たぬので独り腹立てて居ると隣の主人が来られて暫 くぶりの面会であるので、余は麻痺剤を服してから色々の話をした。正午頃に主人は帰られたが、その命令と見えて幼き娘たちは朝顔の鉢を持つて来てくれられた。』 - 子規は、この「草花帖」のほかに「
菓物帖 」を6月27日から8月6日までの間に描いている。 正岡子規 :1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)。日本の俳人、歌人、国語学研究家。(Wikipedia )- 画像:国立国会図書館所蔵
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