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暗黒時代
あんこくじだい 戦乱や疫病、政情不安定などの原因で、社会がひどく乱れていて希望の持てない時代。
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作家
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作品
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石川啄木 |
【初めて見たる小樽】
見よ、ヨーロッパが
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下村湖人 |
【次郎物語 第四部】
彼は、五・一五事件が起きて二三日もたたないある晩、ひとりで先生をたずねたことがあったが、その時、先生が、いつもにない沈痛な顔をして、 |
幸田露伴 |
【平将門】
伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二 |
芥川龍之介 |
【文部省の仮名遣改定案について】
この文章の興廃に関する仮名遣改定案の如き、軽々にこれを行はむとするは紅葉、露伴、一葉、美妙、蘇峯、樗牛、子規、漱石、鴎外、逍遥等の先達を侮辱するも甚しと言ふべし。否、彼等の足跡を踏める僕等天下の売文の徒を侮辱するも甚しと言ふべし。僕等は句読点の原則すら確立せざる言語上の暗黒時代に生まれたるものなり。この混沌たる暗黒時代に一縷の光明を与ふるものは僕等の先達並びに民間の学者の |
太宰治 |
【おしゃれ童子】
中学校へはいってからは、校規のきびしい学校でしたので、おしゃれも少年は上京して大学へはいり、けれども学校の講義には、一度も出席せず、雨の日も、お天気の日も、色のさめたレインコオト着て、ゴム長靴はいて、何やら街頭をうろうろしていました。お洒落の暗黒時代が、それから永いことつづきました。そうして、間もなく少年は、左翼思想をさえ裏切りました。卑劣漢の焼印を、自分で自分の |
岸田國士 |
【戯曲時代去る】
僕は、必ずしも、所謂「戯曲時代」の去ることを悲しまない。寧ろ、それは当然なことだと思ふ。たゞ悲しむのは、あの華々しい「戯曲時代」の後に来るものは、恐らく、更に大なる新劇の暗黒時代であるに違ひないといふ一事である、だが、その結果、現在の所謂、新劇が滅び去るとすれば、それはそれでもいゝ。畸形児の夭折は、或る意味に於て「双方のため」に望ましきことである。
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伊丹万作 |
【政治に関する随想】
彼らは口では一人残らず民主主義を唱えているが、その大部分はにせものであつて、本質は、先ごろの暗黒時代の政治家といささかの差異もない。反動的無能内閣として定評ある現在の幣原内閣の閣僚たちに比較してさえ、古くさく、教養に乏しく、より反動的なものどもが多いのである。
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内藤湖南 |
【日本文化の獨立】
併しすべて平和で來た時代のみが文化の盛んになる時ではありませぬ。引續き足利時代となり、其中頃から戰國となつて、文化の上においても殆ど暗黒時代を現はしたが、其間に自然に獨立思想がだん/\行亙つて、さうして日本は神國であつて日本は特別な國體だといふことが、この暗黒時代において一般に浸みわたるやうになつて來たのであります。
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海野十三 |
【予報省告示】
混乱を生ずる因子は、何といっても内憂外患の激化にある。すなわち地球外の他の惑星からの侵入者は四千万に達し、これを防衛する地球植物と地球人類とは実力に於て常に不利なる立場にあり、而も地球植物、殊に可動植物は地球人類を服従 |
坂口安吾 |
【安吾巷談 東京ジャングル探検】
人間が何千年の時間をかけて社会秩序というものを組みたてても、ひとたび我々の直面した敗戦焼跡の如きものがあって、無政府状態が訪れた際には、歴史は逆転して同じフリダシへ戻ってしもう。曰く、暗黒時代である。
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宮本百合子 |
【獄中への手紙 一九四四年(昭和十九年)】
文学には、ボッカチオの或作品のように諷刺としてのあけすけがあり、それが後世の偽善的紳士淑女を恐れさせ、中世のドイツ詩なんか随分古語のよめない人には知られない傑作があるそうです。暗黒時代と云われ、宗教があれ丈残酷な威力をふるった半面に、そういう豪快なところがあったのは面白いと思われます。
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石原莞爾 |
【最終戦争論・戦争史大観】
前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。それが中世であります。中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、騎士の個人的戦闘になってしまいました。一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、軍事的にも同じことであります。
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南部修太郎 |
【修道院の秋】
「さうですね。それでも五十を越しておいででせう。」と、S氏は云つた。第三紀層、白堊紀、石炭紀、Silurea 紀と地球創成の跡を究めて、遂に太古の暗黒時代に這入つた時、若き研究家であつた彼が、人生の大きな不安に捉はれて、深い懷疑に沈んだ時を私は想像した。少くとも考古學者からトラピストの生活に進むまでの彼の生涯には、何等かの思想上の Struggle があつたではないかと思はれた。 |
三島霜川 |
【自傳】
それで、其時は最う生活費の方は盡きて、桐生君の所を出てから、七月ごろ七軒町へ家を持つて、翌年の四月まで、約十ヶ月其所に居つた。其時一家四人、露骨に云ふと殆んど三度の食事も食ひ兼ねた。それは、僕の最も暗黒時代で、未だ一家を支へるだけの腕はなし、頭は固らず、讀んで修養すべき書物はなし、不安恐懼に滿ちた生活をして居た。
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