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文明開化
ぶんめいかいか |
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作家
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作品
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幸田露伴 |
【淡島寒月氏】
氏の極若い時は無論予は知らぬ。然し氏から聞いたところでは、氏は極若い時は當時の所謂文明開化の風の崇拜者で、今で云へば大(だい)のハイカラであつたのだ。何でも西洋風の事が好きであつたとの事だつた。氏の父の椿岳氏(ちんがくし)がまだ西洋樂器が碌に舶來せぬ頃、洋樂の曲を彈奏する日本人などの全然無かつた時に於て、ピアノだつたかオルガンだつたか何でも西洋音樂を殆んどイの一番に横濱で買込み、それから又西洋風の覗き眼鏡を買つて、淺草公園で人に觀せたことが有つたといふ事實などに思合せて、如何にも文明黨だつたらうとも思はれる。
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坂口安吾 |
【母を殺した少年】
徳川幕府三百年の鎖国政策が解かれ、文明開化の奔流を導くための五つの貿易港が定められた。神奈川・兵庫・長崎・函館そして新潟の五港だつた。安政年間のことであつた。
文明開化を謳歌するそのかみの一通人も、感情生活の機微に於ては孔孟を遠距(とおざ)かること五十歩の百歩であつた。いちの父は娘の犯した行動の女らしからぬ劇しさを、憐れむよりも憎もうとした。父は勘当を宣告したが、それはいちを殉教者の狂熱へまで駆り立てたにすぎなかつた。悲しさを、神経的なあぶなさで、いちは持ちこたへてゐたのであつた。 |
徳田秋声 |
【縮図】
ここはおそらく明治時代における文明開化の発祥地で、またその中心地帯であったらしく、均平の少年期には、すでに道路に煉瓦(れんが)の鋪装が出来ており、馬車がレールの上を走っていた。
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宮本百合子 |
【文学における今日の日本的なるもの】
自由民権の云われた時代の作物が、今日なお面白く、或る気魄によって読ませるのは、筆者の全生活がかかる社会的現実の上に活きていたからである。当時の文筆家は、実際に新興ブルジョアジーが最も必要とした文明開化の輸入者、供給者、啓蒙者であった。所謂要路の大官の開化思想の方向とその実行の内容を暗示し、指導し得る立場にあった。
ヨーロッパの文明開化は、人間の合理性や社会性の自覚、人格、個性、自我の自覚の刺戟を伴って、ガス燈と共に我々の父たちの精神に入って来た。然し一方には江戸文学の伝統をその多方面な才能とともに一身に集めたような魯文が存在し、昔ながらの戯作者気質を誇示し、開化と文化を茶化しつつあった。このような形で発端を示している新しいものと旧いものとの相剋錯綜は、日本文学の今日迄に流派と流派との間に生じたばかりでなく、一人の作家の内部にも現れているのである。 |
新美南吉 |
【おじいさんのランプ】
巳之助は今までなんども、「文明開化で世の中がひらけた」ということをきいていたが、今はじめて文明開化ということがわかったような気がした。歩いているうちに、巳之助は、様々なランプをたくさん吊(つる)してある店のまえに来た。これはランプを売っている店にちがいない。 巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともっていた。文明開化に遅れた自分の暗い村に、このすばらしい文明の利器を売りこんで、村人たちの生活を明かるくしてやろうという希望のランプが―― 巳之助はお金も儲(もう)かったが、それとは別に、このしょうばいがたのしかった。今まで暗かった家に、だんだん巳之助の売ったランプがともってゆくのである。暗い家に、巳之助は文明開化の明かるい火を一つ一つともしてゆくような気がした。 |
長谷川時雨 |
【旧聞日本橋 最初の外国保険詐欺】
私はまことに呑気(のんき)な、ぽかんとした顔をしているが、私というものが生をこの世にうける前は江戸が甦生(こうせい)し、新たに生れた東京という都(みやこ)が、総(すべ)てに新生の姿をとって漸(ようや)く腰がすわったところであった。いたるところに文明開化という言葉がもちいられた。チョン髷(まげ)がとれて、腰の刀が廃された位の相違ではない。一般庶民が王侯と肩をならべられるようになったのだ。これはなんという急激な改革だかしれない。
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岡本綺堂 |
【月の夜がたり】
昔の旗本屋敷などには往々こんな事があったそうだが、その亡魂が祟りをなして、ともかくも一社の神として祭られているのは少ないようだ。そう判ってみると、職人たちも少し気味が悪くなった。しかし梶井の父というのはいわゆる文明開化の人であったから、ただ一笑に付したばかりで、その書き物も黒髪もそこらに燃えている焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを、細君は女だけにまず遮(さえぎ)った。
梶井が僕をよびに来たのは、それを見せたいためであることが判った。一種の好奇心が手伝って、僕もその黒髪と書きものとを一応見せでもらったが、その当時の僕には唯こんなものかと思ったばかりで、格別になんという考えも浮かばなかった。亡魂が祟りをなすなどは、もちろん信じられなかった。僕は梶井の父以上に文明開化の少年であった。 それからさかのぼって考えると、この事件はよほど遠い昔のことでなければならないと、梶井はいろいろの考証めいたことを言っていたが、僕はあまり多く耳を仮(か)さなかった。こんなことはどうでもいいと思っていた。したがって、その黒髪や書きものが果して寺へ送られたか、あるいは焚火の灰となったか、その後の処分について別に聞いたこともなかった。 |
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