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外剛内柔
がいごうないじゅう |
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作家
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作品
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北大路魯山人 |
【良寛様の書】
元来、良寛様は相当圭角のある人であるようである。とても聞かん気に充ちた人であるかと思われる筋の見えるものがある。それが修養によりにわかに円熟に進まれたものであろうと思うのである。そのことはその墨跡の数点が物語るところである。なかにはずいぶん権柄ずくな調子のものもあって、私はそれをひしひし感じる。時と対手によっての感情の動きが眼に見えるようである。しかし概して晩年作は、円満にこなれきっている。それは世間欲がだんだんに清掃されていった証拠であると見てよいのではないか。畢竟は外柔内剛の完成である。すべてよき芸術は、外柔内剛と決っているからである。これに反しよからぬ芸術は大抵外剛内柔である。前者は雅美に富み、後者は俗雅に走っている。いずれにしてもこの世の欲を捨てきった不思議な人格と、専門家にも見難き技能を兼ね、しかも持って生れた雅と美の要素をその書に盛りつけてつつましく見参した良寛様の書のごときは、少なくとも徳川時代における驚異であって、他に一人たりとも書道行道において相似たものはなかったはずである。 |
阿部次郎 |
【三太郎の日記 第一】
自覺することと自覺を發表することとは本來別物である、内容を有することと内容を發表することとも亦本來別物である。併し單に自覺の自信のみを發表して自覺の内容を發表せぬ者が、世間の眼から見て僞豫言者とせらるゝはやむを得ない。發表に價するものは自信に非ずして内容であるからである。今の世にも亦自覺せりと稱する者が尠くない。併し少數の謙遜なる自覺者を除けば、彼等の自覺の内容は、余の如き懷疑者の眼から見てさへ氣の毒な程新鮮さを缺き緻密を缺き眞實を缺いてゐる。余は無内容なる自覺者の外剛内柔なる態度を見る時、先づ微笑し苦笑する。彼等が猶自ら恥づることを知らずして、野蠻に他人を壓迫する時、余は聲を揚げて嘲笑をさへしてやらうと思ふ。自分にも身邊方寸の霧を照す微光がある。 内容を示せ。内容を示せ。 |
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