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花鳥風月
かちょうふうげつ |
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作家
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作品
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上村松園 |
【軽女】
数多い忠臣義士物語の中に出てくる女性のうちで、お軽ほど美しい哀れな運命をになった女性は他にないであろう。お軽は二階でのべ鏡という、――通り言葉に想像される軽女には、わたくしは親しみは持てないが、(京都二条寺町附近)の二文字屋次郎左衛門の娘として深窓にそだち、淑やかな立居の中に京娘のゆかしさを匂わせている、あのお軽には、わたくしは限りない好ましさを感じるのである。 山科に隠栖し、花鳥風月をともにして、吉良方の見張りの眼を紛らわしていた大石内蔵助は、しかし、それだけでは、まだまだ吉良方の警戒をゆるめさせることの出来ないのを悟って、元禄十五年の春ころから、酒に親しみ出し、祇園に遊んで放縦の日々を送るようになり、果ては最愛の、貞淑のほまれ高い内室までも離別して、豊岡の石束家へ返してしまった。 |
山路愛山 |
【詩人論】
詩人は多く鳥獣草木の名を知る。詩人は自然の韻府なり。然れども彼れは科学者の如くに自然を分析する者に非ず。彼れは自然の意味を知る。花鳥風月、 |
寺田寅彦 |
【俳諧瑣談】
短歌には作者自身が自分の感情に陶酔して夢中になって詠んだように見えるのがかなり多い。しかし俳句ではたとえ形式の上からは自分の感情を直写しているようでも、そこではやはり、その自分の感情が花鳥風月と同様な一つの対象となっていて、それを別の観察者としての別の自分が観察し記録し描写しているように感ぜられるものが多い。こういう意味で、歌は宗教のようであり、俳句は哲学のようであると言ったような気もする。
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夢野久作 |
【父杉山茂丸を語る】
その |
坂口安吾 |
【教祖の文学 ――小林秀雄論――】
小林にはもう人生をこしらへる情熱などといふものはない。万事たのむべからず、そこで彼はよく見える目で物を人間をながめ、もつぱら死相を見つめてそこから必然といふものを探す。彼は骨董の鑑定人だ。花鳥風月を友とし、骨董をなでまはして充ち足りる人には、人間の |
萩原朔太郎 |
【散文詩・詩的散文】
藝術上の遊戲とは必然性なき創作を言ふ、生活を畫くもの必ずしも眞實にあらず花鳥風月を唄ふもの必ずしも遊べるにあらず。 |
風巻景次郎 |
【中世の文学伝統】
西行ははじめから行いすました世捨て人ではない。実人生への |
倉田百三 |
【出家とその弟子】
親鸞 わしのように年が寄るとね、そのような気持ちがしみじみしてくるものだよ。九十年のながい間にわしのして来たさまざまのことがほんに夢のような気がする。花鳥風月の遊びも、雪の野路の巡礼も、恋のなやみやうれしさも、みんな遠くにうたかたのように消えてしまった。ほんとに「うきもつらきもむなしく」という気がするね。何もかもすぎてゆく。(独白のごとく)そうだ、すぎてしまったのだ。わしの人生は。さびしい墓場がわしを待っている。(勝信何か言いかけてやめる)さきを読んでおくれ。
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横光利一 |
【旅愁】
「ノートル・ダムの精神はもう云っただろ。俳句精神というのも、それと似たりよったりさ。つまり、この建築の対象は空だ。しかし、俳句の対象は季節だ。季節といっても、春夏秋冬ということじゃない。それを運行させているある自然の摂理をいうので、つまり、まアこれは物と心の一致した理念であるから、神を探し求める精神の秩序ともいうべきでしょう。ここに知性の抽象性のない筈はないので、それがあればこそ、伝統を代表しているのだから、俳句は花鳥風月というような自然の具体物に心を向けるといっても、その精神は具体物を見詰めた末にそこから放れるという、客観的な分析力と綜合力がある。そんならここに初めて科学を超越した詠歎の美という抒情が生じるわけだ。
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