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吉凶禍福
きっきょうかふく
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作家
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作品
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【元日】
家では餅もまだ搗かない。町内で松飾りを立てたものは一軒もない。机の前に坐りながら何を書こうかと考えると、書く事の困難以外に何だか自分一人御先走ってる様な気がする。それにも拘らず、書いてる事が何処となく屠蘇の香を帯びているのは、正月を迎える想像力が豊富なためではない。何でも接ぎ合わせて物にしなければならない義務を心得た文学者だからである。もし世間が元日に対する僻見を撤回して、
吉凶禍福共にこもごも起り得べき、平凡且乱雑なる一日と見做して呉れる様になったら、余も亦余所行の色気を抜いて平常の心に立ち返る事が出来るから、たとい書く事に酔払いの調子が失せないにしても、もっと楽に片付けられるだろうと思う。
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【狐狗狸の話】
コクリの遊戯をするには、まず女竹を見つけて来て、節を揃えて一尺二寸に切った物を三本作り、それを交叉して中心を麻糸で括って、上に飯櫃の蓋又は盆を伏せ、三人以上の人数で手をその上へ軽く載せて、指と指を接触さし、コクリの来るのを待っていると、暫くして感じがあるので、そこで吉凶禍福などを問うと、竹の脚をあげてその意を示すものである。又コクリの上に卵を載せると良く踊り、三
絃を弾くと大いにうかれる。
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【妖怪学一斑】
これらは、ほぼその理由を推考することができまするが、少しく普通人の考えをもって解し難いと思うのは、人の吉凶禍福を
卜することである。これは、一つには夢によってその運命いかんを知ると申します。しかしてこの法は、ひとり人事に関する吉凶禍福のみならず、また、よくすべて未来に起こる事柄を、夢によって卜し得るということである。けだし、その理由に至りては一朝一夕に解し得べきことにてはありませんが、よく世間で、夢に見たとおりのことが千里も二千里も隔たった遠方に起こったとか、あるいは、かつて夢みたことが今日現れたるとかいうことを申し伝えております。
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【英雄論 明治廿三年十一月十日静岡劇塲若竹座に於て演説草稿】
是唯我人民が小児然たる摸倣時代より進んで批評的の時代に到着したるの吉兆として見るべきものにして、余は之れが為めに我が文明の歩を止むべしとは思はざるなり。論じて此に到れば、吾人は今文明の急流中に棹して、両岸の江山、須臾に面目を改むるが如きを覚ふ、過去の事は歴史となりて、巻を捲かれたり、往事は之れを追論するも益なし、未来の吉凶禍福こそ
半は大勢に在り、半は吾人の手に存するなれ、我文明を如何にすべき、是吾人の今日に於て解釈すべき問題に非ずや、
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【運命】
一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、聖祚疆無からんと奏したりしかば、心得がたきことを白すよとおぼされしが、安禄山の乱起りて、天宝十五年蜀に入りたもうに及び、万里橋にさしかゝりて瞿然として悟り玉えりとなり。此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて
飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。
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【世間師】
同宿の者はいずれも名前を呼ばない。万年筆を売るから万年屋、布哇行を口にするから布哇、といったように皆渾名を呼合っている。私は誰が呼ぶともなく書生さんと呼び慣らされた。それから、私を貢いでくれるその男は銭占屋というのだ。銭占判断といって、六文銭で吉凶禍福を占うその
次第書を、駿河半紙二切り六枚綴の小本に刷って、それを町の盛場で一冊三銭に売るのだ。人寄せの口上さえうまければ相応に売れるものだそうで、毎晩夕方から例の塗柄の馬乗提灯を点けて出かけて、十時ごろには少なくとも五六十銭、多い時には一円近くも握って帰ってくる。
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【明治開化 安吾捕物 その七 石の下】
千代の弟の地伯がここに住んでいるのは、まだ話が分るが、地伯の細君比良の一族、父の和具志呂足、比良の弟の須曾麻呂、妹、宇礼の父と子三人がそっくり住みついているのである。志呂足は山の神の行者で、病気を治し、悪魔疫病をはらい、吉凶禍福を占う。バカに人の出入りが多いな、と思ったのは
理りで、日中は山の神の信者が相当数訪れるのである。津右衛門の先妻の子で、肺病の玉乃、今はもう三十九のウバ桜であるが、どうやら行者志呂足の愛人とも妾ともつかないような関係ができているらしい
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【其中日記 (七)】
□捨てて捨てて、捨てても捨てても捨てきらないものが、それが物の本質であらう(さういふ核心はほんたうには存在してゐないのだらうが)。
□雲丹を味はひつつ物のヱツセンスについて考へた。
□大蘇鉄の話(旦浦時代の父の追憶)古鉄、考へやう一つ、吉凶禍福は物のうらおもて。
□農夫のうちかへす一鍬一鍬は私の書く一字一字でなければならない、彼にありては粒々辛苦、私にありては句々血肉である。
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【時と永遠】
尤もこの客觀的出來事はわが身にも振りかかつて來る故、死後の存在は生者の關心を呼ぶであらう。死後の國の王であるよりは貧しき人の地を耕す賤の男でありたい(三)、と叫んだアキレスの如く、死後の存在に、たとひ消極的意義においてにせよ、思ひを向けることは常に行はれる事であらう。しかしながら、自己の運命よりも、むしろ專ら他の人々との關係、言ひ換へれば、殘つた人々の吉凶禍福に及ぼす影響の觀點よりして死後の存在は考察される。生者にとつては自己の死後の運命よりも、死者即ち他の者の魂ひに對して自己の取るべき態度が問題なのである。
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【粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)】 何処から何処へ参ったことか、讐を探して歩く身の上ゆえ、頓と其の行先が分りませんので、梨売重助も心配して、お手紙一本お寄越しなさらない訳はないのだが、旅で煩って在っしゃるのではないかと案じられるから、売卜者に占て貰ったり、お伺を立てたりして居ります。其の頃向島の白髭に蟠竜軒という尼寺がございまして、それに美惠比丘尼という人が有りまして、能く人の未来の吉凶禍福を示しますので、これに
帰依する信者も多分にございます。この比丘尼は坐禅をいたして大悟徹底し、事を未然に悟る妙智力を備えて居りまする。
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Last updated : 2024/06/28