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傲岸不遜
ごうがんふそん
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作家
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作品
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【路上】
その内に大井は何かの拍子に、ぐるりとこちらへ振返った。顔を見ると、例のごとく
傲岸不遜な表情があった。俊助は当然なるべきこの表情を妙にもの珍しく感じながら、「やあ」と云う挨拶を眼で送った。と、大井も黒木綿の紋附の肩越に、顎でちょいと会釈をしたが、それなりまた向うを向いて、隣にいた制服の学生と、何か話をし始めたらしかった。俊助は急に昨夜の一件を確かめたい気が強くなって来た。が、そのためにわざわざ席を離れるのは、面倒でもあるし、莫迦莫迦
しくもあった。
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【新釈諸国噺】
この時、人足の中に浅田小五郎という三十四、五歳のばくち打がいた。人間、三十四、五の頃は最も自惚れの強いものだそうであるが、それでなくともこの浅田は、氏育ち少しくまされるを鼻にかけ、いまは落ちぶれて人足仲間にはいっていても、
傲岸不遜にして長上をあなどり、仕事をなまけ、いささかの奇智を弄して悪銭を得ては、若年の者どもに酒をふるまい、兄貴は気前がよいと言われて、そうでもないが、と答えてまんざらでもないような大馬鹿
者のひとりであった。
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【二千六百年史抄】
* 剛直漢掃部頭井伊直弼は、安政五年四月、大老職に就くや、矢継早に、反動的な改革を強行して、勤皇の志士の憤激を買つた。
殊に、将軍継嗣問題と通商条約問題とでは、井伊の傲岸不遜は言語に絶した。
当時の輿論たる一橋慶喜を将軍世子に就けることに反対して、紀州慶福を推したことと、勅許を待たずして日米条約に調印したことである。
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【明治人物月旦(抄)】
顧みて山縣侯の系統を見よ、現内閣に於ては、清浦奎吾、曾禰荒助、桂太郎の三氏固より侯の直參たり荒川顯正子の如きは、世人或は伊藤系統に屬するものなりと想像するものあれども、子は夙に山縣侯の推挽によりて漸く顯要の位地を占めたる人なるを以て、若し兩侯兩立せざるの時あらば、子恐らくは、伊藤侯に背くも山縣侯に背く能はず青木周藏子の傲岸不遜は、伊藤侯にも井上伯にも忌まるれど、獨り山縣侯は善く之れを容れ、第一次の内閣にも外務大臣の椅子を與へ、今の第二次内閣にも又子を外務大臣と爲す故に子は深く侯を徳として其腹心なるを甘むず。兒玉臺灣總督は、伊藤内閣の時代に用ゐられたる人なれども、其系統をいへば山縣派に屬し、
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【魔像 新版大岡政談】
それは源助町、無形一刀流道場の剣主、神保造酒の奥座敷である。
「有情無形」と大書した横額の下に、大身の客のまえをも憚らず、厚い褥にドッカリあぐらをかいている、
傲岸不遜、大兵の人物、これが源助町乱暴者の隊長とでもいうべき神保造酒先生で、年の頃は五十あまり、眉と眉の間に、一線、刻んだような深い傷のあるのが、たださえあんまり柔和でない先生の顔を、ことごとく険悪に見せている。
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【八ヶ嶽の魔神】
敷物の上へ端然と坐り、葉之助は部屋の中を見廻した。床に一軸が懸かっていた。それは神農の図であった。丸行灯が灯っていた。火光が鋭く青いのは在来の油灯とは異うらしい。待つ間ほどなく現われたのは、剃り立ての坊主頭の被布を纏った肥大漢で、年は五十を過ぎているらしく、銅色をした大きな顔は膏切ってテカテカ光っている。
「愚老、大槻玄卿でござる」こう云って坐って一礼したが、
傲岸不遜の人間と見え、床の間を背にして坐ったものである。
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Last updated : 2024/06/28