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群集心理
ぐんしゅうしんり |
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作家
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作品
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森鴎外 |
【津下四郎左衛門】
私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。是(これ)は群集心理の上から云ふのである。歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧(ちゑ)のある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃を食(くら)はせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするに若(し)くはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹(しんてつ)してゐなかつたのである。 |
下村湖人 |
【次郎物語 第五部】
「しかも、時局とか、国家の要請とかいったような意識が、しっかりした理性に導かれたものであれば、まだいいのですが、たいていは、マンネリズムといいますか、群集心理といいますか、まあそういった程度のものでしかありませんし、そんなうすっぺらな意識で、深く生命の自然に根をおろした恋愛を否定したり、軽視したりするのは許しがたいことだと思うのです。」
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有島武郎 |
【二つの道】
すべての迷信は信仰以上に執着性を有するものであるとおり、この迷信も群集心理の機微に触れている。すべての時代を通じて、人はこの迷信によってわずかに二つの道というディレンマを忘れることができた。そして人の世は無事泰平で今日までも続き来たった。
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宮本百合子 |
【「推理小説」】
七月十二日(きょう)の新聞をみると国鉄は十三日から第二次整理六万五千人を行おうとしており、労組は五度交渉申し入れをしている。十六万人の馘首は、下山氏の事件によってさわがしく、ものみだかく不安にさせられている社会の空気のなかで、「順調」に行われるのである。馘首と生活不安に直面している国鉄数十万の従業員そのものの関心の半ばが、きょうもあすもと推理の種をひろげる下山事件の謎にひっぱりこまれている。これは実にたくみな群集心理の階級的な誘導である。下山氏の死が、自殺か他殺か、明らかにされない条件は、あらゆる暗示をこめて反民主的、反労働者的な疑惑に人々をひきこむために活用されている。
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寺田寅彦 |
【静岡地震被害見学記】
三島から青年団員が大勢乗込んだ。ショベルや鍬(くわ)を提(さ)げた人も交じっている。静岡の復旧工事の応援に出かけるらしい。三等が満員になったので団員の一部は二等客車へどやどや雪崩(なだ)れ込んだ。この直接行動のおかげで非常時気分がはじめて少しばかり感ぜられた。こうした場合の群集心理の色々の相が観察されて面白かった。例えば大勢の中にきっと一人くらいは「豪傑」がいて、わざと傍若無人に振舞って仲間や傍観者を笑わせたりはらはらさせるものである。
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豊島与志雄 |
【或る素描】
「銭湯って変なところだね。ああ大勢客が込んでると、何というか……一種の群集心理みたいなものが働くと見えて、湯壺の中に一人か二人しか残らないで、みんな流し場に出てしまう時と、一度に湯壺へ飛び込んでくる時とがある。不思議だねえ。そして、大勢湯壺にはいり込んでくると、僕はそれを測ったんだが、湯の高さが、大丈夫一尺五寸は違ってくる。君、あの大きな湯壺の湯が、一尺五寸も高まるほど、人の身体がぶちこまれるんだぜ。女湯の方もそうだろう。両方で、男と女とが芋の子のように湯壺の中にこみ合って、ごった返してる。まるでめちゃだね。」
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折口信夫 |
【女房文学から隠者文学へ 後期王朝文学史】
文学上、後鳥羽院と互ひに知己の感の一等深かつたらしい良経すら、家集と新古今では、此位違ふ。上辺(ウハベ)は、難渋な作物ばかり作つたらうと思はれる定家・家隆なども、家集の拾遺愚草其他や、壬二集を見ると、生れ替つた様な――悪い意味ながら――自由さが見られる。だから、新古今集の主題と考へられて来た、あの歌風の中心になるものは、歌人連衆の雰囲気が作り出した傾向であつたのだ。歌合せの醸した群集心理であると謂へよう。
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林不忘 |
【煩悩秘文書】
「そうだ、そうだ。今度は侍がはいって見せろ! 白覆面が駕籠へはいれっ!」とんでもないことを言うやつだと、出羽守があたりを睨み廻している間に、群集心理というのか、人々はみな今の由公の言葉に雷同(らいどう)して、 「そうだ、今度は侍がはいれ、白覆面が駕籠へはいれ!」 境内を圧するほどの怒号叫喚となってしまった。 |
島田清次郎 |
【地上 地に潜むもの】
そして彼は階段を上がって行った。二階では彼を迎える一同の、酒に酔いしれた、群集心理に濁っただみ声と拍手が起こった。お幸は暫く一人首をかしげて茶の間に坐っていた。川村が頼みいった事柄がどういうことであるかを彼女は洞察していた。
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中里介山 |
【大菩薩峠 不破の関の巻】
ただ、かくて見物しながらも、寄ってたかって米友を袋叩きにしてしまわないことは、米友の働きが俊敏であって、怖るべきものがある上に、その態度にドコやら真摯(しんし)なるものがあって、左右(そう)なくは手出しのできない気勢に打たれて、そのまま見ているだけのものですから、群集心理の如何(いかん)によっては、どう形勢が変化しないとも限らず、いずれにしても米友のためには百の不利あって、一の同情が作り出されないというだけのものです。
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