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如是我聞
にょぜがもん |
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作家
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作品
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夏目漱石 |
【明治座の所感を虚子君に問れて】
○
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樋口一葉 |
【たけくらべ】
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内藤湖南 |
【大阪の町人學者富永仲基】
これ等の考へ方によつていろ/\の事を推論して居ります。例へば斯ういふ風なことを考へた。佛教によく最初に「如是我聞」と書いてある。佛教の從來の話で「如是我聞」といふのは、それはお釋迦さんの言うたことを、弟子の阿難といふ大變記憶の好い人があつて、それがお釋迦さんに多年侍者として隨從して居りましたから、いろ/\の事を聞いて居つた。お釋迦さんが死んでから、始めてお釋迦さんの言うた事を編纂するといふ――勿論その時編纂すると云つても本に書くのではない、昔の編纂といふのは言葉の上の編纂でありまして、皆んな寄つて、誰もかういふ事を聞いた。某もかういふ事を聞いたと、皆んな聞いたことを話合つて見て、さうして皆んなの話を持ち寄りして、それを皆んなが確かに記憶して置く、昔の人の學問は記憶が主なることであります、その會合で話合をして、それを記憶したのが編纂であります。これを佛教の方では結集と申します。最初の結集の時に、阿難が一番記憶がよいので、その聞いて居つたことを話して見ろといふので寄つたところが、阿難が一番最初に如是我聞と言つた。外の弟子達が、つい昨日までお釋迦さんから直接に聞いたが、今日は阿難の口を藉りて、さうして如是我聞と聞かなければならないと悲しんだといふ、大變面白く小説的に傳へられてあります。それでお釋迦さんの言ふことを直接聞いた人が如是我聞だといふことにこれまで言うてあつた。ところが富永はそんなことはない、如是我聞といふのは、お釋迦さんが死んでから何百年かたつて、お釋迦さんが昔かういふことを言うたげな、昔こんな話があつたさうな、それで如是我聞といふので、直接聞いたものを如是我聞といふ筈はないと言つて居ります。中々皮肉な見方です。
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