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自由奔放
じゆうほんぽう |
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作家
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作品
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太宰治 |
【春の盗賊】
いったい、小説の中に、「私」と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。フィクションを、この国には、いっそうその傾向が強いのではないかと思われるのであるが、どこの国の人でも、昔から、それを作者の醜聞として信じ込み、上品ぶって非難、 |
菊池寛 |
【真珠夫人】
夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろ/\に頭の中に描かれた。異性の間の友情は、恋愛の階段であると、夫人が云つた。もしそれがさうなつたら、何うしたらよいだらう。あの自由奔放な夫人は、
「それが、さうなつたつて、別に差支はないのよ。」 |
木村荘八 |
【東京の風俗】
私は愛古家であつても懐古家とはかぎらないので、万事につけて「昔を今に成すよしもがな」とは思はない。――もつとも現在のわれらはすこぶる貧困である。町を歩いても、うつかり「円タク」を呼ぶぜいに至れないし、飲食店のア・ラ・カルトも、ふところ勘定抜きといふ自由奔放はやれないから、思へば東京生活も、昔は「やりが迎ひに来た」もので、美術館から上野の山下まで下りるにも車を拾つたものだし、頼まずとも町の行きずりにモカのコーヒーが飲めたものだつた
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下村湖人 |
【現代訳論語】
先師がいわれた。「昔の人に憂うべきことが三つあつたが、今はその憂うべきことを通りこして、全く救いがたいものになっているらしい。昔の理想狂の弊は、自由奔放で小事にこだわらない程度であった。然るに今の理想狂は徒らに放縦である。昔、ほこりをもって己を高くした人々の弊は、廉直に過ぎて寄りつきにくい程度であった。然るに今のそうした人々は強情でひねくれている。昔の愚か者は正直であった。然るに今の愚か者はずるくて安心が出来ない。」 |
坂口安吾 |
【街はふるさと】
しかし、絶望的な考え方は、むしろ地道なものであった。彼女は時々空想的なことを考えた。人に使われる身から離れて、独立した職業についてみたい、という考えだ。会社員とか、ダンサーとかいうのではなく、自分がその店の主人公、というような空想であった。そのへんまでは、まだ地道かも知れなかったが、すると記代子はその次にこう考えている。お金持になりたい。そして、誰に気兼もなく、自由奔放に生きたい。
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久坂葉子 |
【灰色の記憶】
規則。法律。そして、未だに封建的な固いからをかぶっている家庭。学校での興味のない生活。数学をといても、商業の形式をならっても私とは凡そかけはなれた無理な勉強であった。私は何も喜びを見出すことが出来なくなった。束縛を嫌い、しかもその束縛からぬけ出る方法を知らなかった。私は、自分の感情だけで自由奔放に生きてゆきたいのだ。それなのに、家庭。学校。社会。すべて自分の感情を抑制し、無視し、自分らしい自分を伸ばすことが出来ないで生活しなければならない。
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柳田国男 |
【雪国の春】 浜に臨み岬の端に立ってまで、ひねくれた松の樹を歌に詠む義理はない。松は海に親しい木ではあるが、ことに風の力に本性を左右せられやすい。野中の神の社などで出逢うような自由奔放なる大木は、海辺にくると見られない。たまには珍しいというのみで、気の毒ながら木の畸形だ。浜の遊びのおもしろかったなごりに、他に記憶しうるまとまった印象もないために、人が単に松だの岩だのによって、連想の目標をきめるだけである。ヤソ教でいうならば十字架見たようなものだ
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宮本百合子 |
【三つの「女大学」】
貝原益軒が、「女大学」と呼ばれて徳川時代ずっと女の道徳の標準となった本をかいたのは宝永七年というから、十八世紀の初頭の頃のことである。八十五歳という長寿を保ったこの漢学者の生涯の時期は、日本では、有名な元禄時代の商人興隆時代、文化の華やかな開花の時代、文学の方面では芭蕉、西鶴、近松門左衛門などがさかんな活動をとげた時代と、流れを一つにしている。経済の中心が町人の階級にうつって、これまでは武家の掟で沈黙させられていた人間の種々さまざまの人情が、自然な流露を求めてあらゆる方面に動いた。西鶴の小説などは、よかれあしかれ、そういう時代の世相を描いてまざまざと今日につたえているのだけれども、その自由奔放な時代の感情の半面で、女というものは、どんな風に考えられていたのだろう。
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豊島与志雄 |
【旅だち ――近代説話――】
秋田洋子は、中山敏子の同郷の友人でありまして、郷里で女学校を了えると、東京に出て専門学校に学び、親戚の家に寄居して、ある出版社に勤めていました。眼玉のよく動く円い眼をしていまして、それが時によって、ひどく無邪気にも見え、自由奔放にも見えました。敏子に結婚問題が持ち上ってる頃、秋田洋子は郷里に帰っていましたが、一度の便りもしなかったあと、出京するとふいに訪れて来ました。 |
吉川英治 |
【折々の記】
したがつて、私には、一生一書生である者には、「疲れ」とか「倦む」とかいつたことはない。およそ、さうした類の言葉には無縁である。又無縁でなければならぬと思つてゐる。そこで、私にはべつにこれといふ「勞れを知らぬ法」などの持ち合せはない。「勞れ」と縁を切ること、すなはち、「勞れ」を知らぬ法ではあるまいか。 一體私は、規則的なといふよりは、どちらかといふと、自由奔放、思ひのままに仕事をつづけて居る方である。 朝でなければ駄目だとか、夜でなければ書けぬとか、この部屋、この机に限るとかいつたこだはりは少しもない。隨時隨處に、精魂を打ち込んで仕事に取りかかることが出來る。 |
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