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十万億土
じゅうまんおくど
作家
作品

正岡子規

【墓】

静かだッて淋しいッてまるで娑婆しゃばでいう寂莫せきばくだの蕭森しょうしんだのとは違ってるよ。地獄の空気はたしかに死んでるに違いない。ヤ音がするゴーというのは汽車のようだがこれが十万億土を横貫したという汽車かも知れない。それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしするもおつだが、しかし方角が分らないテ。めったに闇の中を 歩行あるいて血の池なんかに落ちようものなら百年目だ、こんな事なら円遊にくわしく聞いて来るのだッた。

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夏目漱石

【草枕】

 いつまで人と馬の相中あいなかに寝ていたかわれは知らぬ。耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた。見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下はすみから隅まで明るい。うららかな春日はるびが丸窓の竹格子たけごうしを黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うもののひそむ余地はなさそうだ。神秘は十万億土 じゅうまんおくどへ帰って、三途さんずかわ向側むこうがわへ渡ったのだろう。

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芥川龍之介

【偸盗】

 彼は、やみから生まれて、やみへ消えてゆく恐ろしい幻に脅かされて、身をもだえながら、こううなった。すると、かたわらから額の傷を汗衫かざみそでで包んだ、交野かたのの平六が顔を出して、
「おばばか。おばばはもう十万億土へ行ってしもうた。おおかた はちすの上でな、おぬしの来るのを、待ち焦がれている事じゃろう。」

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紫式部

【與謝野晶子訳 源氏物語 須磨】

今の悲しみの量を過去の幾つの事に比べてみることができたりする年配の人であっても、こんなことは堪えられないに違いないのを、だれよりもむつまじく暮らして、ある時は父にも母にもなって愛撫あいぶされた保護者で良人おっとだった人ににわかに引き離されて女王が源氏を恋しく思うのはもっともである。死んだ人であれば悲しい中にも、時間があきらめを教えるのであるが、これは遠い十万億土ではないが、いつ帰るとも定めて思えない別れをしているのであるのを夫人はつらく思うのである。

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幸田露伴

【雪たたき】

「コレ」
と、小さい声ではあったが叱るように云った。
「…………」
「…………」
「…………」
であって、短い時間では有ったが、非常に長い時間のように思われて、女は其の無言無物の寂寞せきばくの苦に、十万億土を通るというのは斯様いうものででもあるかと苦んでいたので、今、「コレ」と云われると、それが厳しい叱咤であろうと何であろうと、活路を死中に示され、暗夜に灯火を得たが如く、急に涙の顔を挙げて、
「ハイ」
と答えたが、

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草野天平

【ひとつの道】


白紗のたびに脚絆をつけて
それにすげの笠を持ち
本当によく似合ふ
葬儀屋さんのいふ通り
十万億土の旅へ出るやうだ

音もしない
遥かな遥かなきれいな途
枯れた萱のやうな杖をついて
ほそぼそと一と足一と足のぼつてゆく
著物や持物は汚くて重たいから
この儘そつとしてやりませう

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相馬泰三

【野の哄笑】

三途さんづかはあたりだらうかなう?」
「なんぼ足が早いつたつて、十万億土つていふから、さうは行かれめえてば。」
「なあに、さうでねえと。まばたきしるかしねえうちに向ふへ行きつくもんだつてこんだ。」

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夢野久作

【ドグラ・マグラ】

 ▼あ――ア。高いとこから和尚のお談義。なれどコイツは当てにはならない。死なにゃ行かれぬ地獄の噂じゃ。生きた坊主の賽銭さいせん集めじゃ。釈迦しゃかも知らない嘘八百だよ。わしが見て来た地獄というのは。ソンナ地獄と品事しなことかわって。かねを叩かず、念仏唱えず。十万億土の汽車賃使わず。そんじょそこらに幾らもあります。生きたながらのこの世の地獄じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……

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林不忘

【丹下左膳 日光の巻】

 道場いっぱいに、騒然とどよめきわたったのは、ほんの一、二秒。さながら何か大きな手で制したように、シンとしずまりかえったなかで、左膳、からっぽの右の袖をダラリと振った。枯れ木に白い着物をかぶせたようなからだが、ゆらゆらとゆらいだ。笑ったのだ、声なき笑いを。
「出口入口の締りをしろ! 今夜てエ今夜こそは、一人残らず、不知火燃ゆる西の海へ……イヤ、十万億土へ送りこんでくれるからナ」
 ケタケタと響くような、一種異様な笑い声をたてた左膳は、細いすねに女物の長襦袢をからませて、鎧櫃をまたいで出た。

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吉川英治

【宮本武蔵 空の巻】

「ウウム、ではこの大工町だいくちょうとは、まるで目と鼻の先ではないか」
「そう近くもねえが」
「いや近い近い。きょうまでは、諸国をたずね、幾山河を隔てている心地がしていたのが、同じ土地にいるのじゃもののう」
「そういやあ、ばくろ町も日本橋のうち、大工町も日本橋の内、十万億土ほど遠くはねえ」
 ばばは、すっくと立って、袋戸棚の中をのぞきこみ、かねて秘蔵の伝家の短い一こしをると、
「お菰どの、案内してたも」

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山本周五郎

【ゆうれい貸屋】

 平作老は眼をこすった、「いいか弥六、こんだあぐれるなよ、お兼さんを大事にするんだぞ、いいか、ああ読んでやる、読んでやるとも、おれの一世一代だ、十万億土へ響きわたるくれえ立派に読んでやる」

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Last updated : 2024/06/28