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純一無雑
じゅんいつむざつ
作家
作品

夏目漱石

【それから】

「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を 見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうしてすべてがブリスであった。だから凡てが美しかった。

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芥川龍之介

【文芸的な、余りに文芸的な】

 しかも僕はルノアルに恋々れんれんの情を持つてゐるやうに文芸上の作品にも優美なものを愛してゐる。「エピキユウルの園」を歩いたものは容易にその魅力を忘れることは出来ない。殊に僕等都会人はその点では誰よりも弱いのである。プロレタリア文芸の呼び声も勿論僕を動かさないのではない。が、それよりもこの問題は根本的に僕を動かすのである。純一無雑になることは誰にも恐らくは困難であらう。しかし兎に角外見上でも僕の知つてゐる作家たちの中にはこの境涯にゐる人もない訣ではない。僕はいつもかう云ふ人々に多少の 羨望せんばうを感じてゐる。……

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泉鏡花

【幼い頃の記憶】

 人から受けた印象と云うことにいてず思い出すのは、幼い時分の軟らかな目に刻み付けられた様々な人々である。
 年を取ってからはそれが少い。あってもそれは少年時代のあこがれ易い目に、ちょっと見た何の関係もない姿が永久その記憶から離れないと云うような、単純なものではなく、忘れ得ない人々となるまでに、いろいろ複雑した動機なり、原因なりがある。
 この点から見ると、私は少年時代の目を、純一無雑な、 く軟らかなものであると思う。どんなちょっとした物を見ても、その印象が長く記憶に止まっている。大人となった人の目は、もうからびて、殻が出来ている。余程よほど強い刺撃しげきを持ったものでないと、記憶に止まらない。

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下村湖人

【青年の思索のために】

 いったい人間は、生れおちるとすぐから、誰に教わらずとも、人に勝ち、人の上に立ちたいという気持は自然にもっているものであります。そのくせ、真に人に勝ち、人の上に立つだけの資格をそなえるようになった人は、きわめてまれであります。それはなぜかというと、人にゆずり、人の下に立つことを学ぼうとしないからであります。人の上に立つものは、かならず先ず人の下に立つことを学ばなければなりません。それも、将来人の上に立つことを目あてにして、その手段として人の下に立つことを学んだのでは何の役にも立ちません。それでは決して人の下に立つ道は会得されないのであります。純一無雑になって喜んで人の指図をうけ、心をむなしうして人に教えを乞い、一生をそれで終っても悔いないだけのつつましさがあって、はじめてそれは会得されるのであります。そして、それでこそ自然に人に推され、人の上に立つだけの資格が出来るのであります。よく下るものはよく学び、よく学ぶものはよく進む。これが学問の法則でもあり、また処世の法則でもあります。そしてこれも、社会公共のために生きる心に出発してはじめて出来ることなのであります。

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倉田百三

【愛と認識との出発】

 氏はここにおいてわれらの認識能力に思惟のほかに知的直観(intellektuelle Anschauung)をあげている。氏のいわゆる知的直観は事実を離れたる抽象的一般性の真覚をいうのではない。純一無雑なる意識統一の根底において、最も事実に直接なる、具体的なる認識作用である。知らるるものと知るものと合一せるものの最も内面的なる 会得えとくをいうのである。

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有島武郎

【惜みなく愛は奪う】

社会生活にあっては、智的生活をもって本能的生活の指導者たらしめ、若しくは習性的生活をもって智的生活の是正者たらしめねばならぬとでもいうのか。若し果してそうならば、社会生活と個人生活とはたしかに軒輊けんちするであろう。私にはそうは思われない。社会の欲求もまたその終極はその生活内部の全体的飽満にあらねばならぬ。縦令たとい現在、その生活の基調は智的生活におかれてあるとも、その欲求としては本能的生活が目指されていねばならぬ。社会がその社会的本能によって動く時こそ、その生活は純一無雑な境地に達するだろう。

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蒲原有明

【夢は呼び交す ――黙子覚書――】

 かつて人を疑うことを知らなかった姫が今その選に入るのである。
 因習から人を救解するには、その人自らが先だって純一無雑な信念を持たねばならない。信の外に何があろう。信は智慧を はらんで、犠牲者の悲痛を反逆者の魂の執著の一念のうちに示して見せると共に、その悲痛の自覚をただちに歓喜の生に代えるのである。

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岡本かの子

【仏教人生読本】

 大乗というのは何かと申しますと、一口に言いますれば、治生産業ことごとく仏法にあらざるなしという大見解に立つ主張でありまして、消極的に隠遁して、独り清く澄し込む小乗仏教とは反対であります。そして法華経はその哲理と実行の勧めを説いた経巻であり、維摩経は維摩居士という俗間の老練な一男性をして、その大乗主義の体験を物語らしめたもの、また勝鬘経は勝鬘夫人という若い美しい女性をしてその教義を述べさしたもの、いずれも、経の目的は現実生活の理想化にあります。人間、無私な態度を以て、慈悲の心を湛えつつ、日常生活に励むところに仏教の全体がある。仏教はそれ以外の何物でもない。国家のため、社会のため、当面の職務に誠意を尽して行く、これ仏教の全修業である。この純一無雑の生活、すなわち仏法を説いたのが法華経はじめ他の二経の精神であります。かかることぐらいは仏教でなくとも判っていると言う人があれば、それはまだ仏教というものを知らない人であります。無私とか、慈悲とか、誠意とか、勇猛心とかいうことは、限りもなく、上に上があるもので、これで行き止まりというところはありません。

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Last updated : 2024/06/28