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四面楚歌
しめんそか
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作家
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作品
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【自傳】
僕が之れまで、自分の目的に趺蹉に趺蹉を來し、幾度びか斷然吾が志を抛たんと欲して、抛ち得ざるものは、親父の決心を思ふと、僕は飽くまで此の目的を貫徹せなければ生きてはゐられないと、奮然として勇猛心を起すが常だ。これ全く親父の賜である。
親父は死ぬるし、親族には文學なぞの分る連中はない。皆口を揃へて醫者になれ/\と口やかましく勸める、其四面楚歌の聲の中に立つて、一年ばかりぶら/″\して居る中に、親父の建てた家も、殘した金も滅茶々々になつて、僕は市井の間に埋つて了つた。
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【劇場と作者】
最近に制作劇場主ルュニェ・ポオを相手取り、元同劇場専属俳優にして劇作家なるジャン・サルマンが、自作の上演権取戻しに関する争議を捲き起し、一時劇壇の注目を惹いた。時節柄、ポオは四面楚歌の声を受けて、たうとう譲歩したやうだが、これも、劇作家協会に加入してゐなかつたサルマンが、ポオの搾取に遇つてゐたわけである。
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【尼たちへの消息 ――よく生きよとの――】
文永八年五月七日(今から六百六十四年前)に、四條金吾頼基の夫人の出産前に書かれた消息などは、女人のことといへば、表向きは濟ましかへるがならひの僧侶など、恥死んでもよいほど濶達な、ありのままに出産の悦びを表してゐるものだ。
四條金吾は鎌倉幕府の江馬入道につかへた武士で、當時四面楚歌の日蓮に師事し、法華經信者の隨一ともいへる
若人だ。金吾は日蓮龍の口法難のをりは、自分も腹を切らうとした無垢純粹の歸依者だ。その妻は日眼女といひ、夫におとらぬ志を持した人で、この女房が年廿八の出産のをりに、
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【明治劇談 ランプの下にて】
あくまでも彼の小猿七之助をやってみたいような意向があるので、座方も遂に我を折って彼の希望を容れたのであるという。いずれにしても、殺伐な事件や陰惨な空気がこの狂言の生命であるから、原作そのままでは到底警視庁の許可を得られそうなはずもないので、数カ所の削除を施して、ともかくも開演の運びに至ったのであるが、諸新聞の攻撃があまりに激しいので、劇場側でも頗る面食らった。
さりとて今さら中止するわけにも行かないので、四面楚歌
のうちに一週間ほども興行をつづけていると、警視庁でも輿論の沸騰にかんがみて、さらに劇場に対して上演中止を命令した。今度の興行はこれが一日の通し狂言で、中幕に八百蔵の宗清、福助の常磐御前で、常磐津の「宗清」を出しているだけであったから、この狂言が中止となっては殆んど全部を搗き換えなければならないことになった。暑中の折柄、この不評のあとをうけて更に新狂言を上演したところで所詮成功はおぼつかないと観念して、歌舞伎座では全然その興行を中止することにした。
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【私本太平記 筑紫帖】
そのときの探題襲撃は、見事、菊池方のやぶれに帰し、寂阿武時以下、一族郎党三百余人は、犬射ノ馬場で斬り死をとげ、じつに凄惨な全滅をみてしまったが、原因は一に、味方とたのんでいた者が、俄に、裏切りに出たことにあった。
それを、たれかといえば、
少弐ノ入道妙恵(貞経)
大友ノ入道具簡貞宗
の二人である。
以来、菊池党として、これこそ深い恨みでないはずはない。
ところが、時勢は急転した。
鎌倉幕府、執権高時、すべて昨日の覇府は地上から消えた。
余波はすぐ九州へもおよび、博多の地に過去十年余の業績と人柄を称えられていた九州探題の北条英時も、たちまち、四面楚歌の包囲中におかれ、鎌倉滅亡の日からいくばくもない、当年の五月二十五日、館に火をかけ、自害して果てた。
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Last updated : 2024/06/28