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出処進退
しゅっしょしんたい |
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作家
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作品
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夏目漱石 |
【坑夫】
「おい。まだ下りられるか」と聞く。実はよほど前から下りられない。しかし中途で |
中島敦 |
【弟子】
「「では」と大分長い間考えた |
下村湖人 |
【現代訳論語】
先師が顔渕に向っていわれた。「用いられれば、その地位において堂々と道を行うし、用いられなければ、天命に安んじ、退いて静かに独り道を楽む。こういった出処進退が出来るのは、まず私とお前ぐらいなものであろう。」 すると子路がはたからいった。―― 「もし一国の軍隊をひきいて、いざ出陣という場合がありましたら、先生は誰をおつれになりましょうか。」 先師はこたえられた。―― |
坂口安吾 |
【家康】
信長が天下統一らしき形態をととのへ得たころから諸侯の気持はだいたい権謀術数の荒ッポイ生活に疲れて、秩序にしばられ君臣の分をハッキリさせて偉くもならぬ代りに落ぶれも殺されもしない方がいいと思ふやうになつてきた。秀吉の朝鮮征伐に至つて諸侯の戦争を厭ふ気持はもうハッキリした。そこでそれまでは松永弾正だの明智光秀のやうな生き方がまだ通用してゐたのだが、その頃からはかういふ陰謀政治家やクーデタ派は一向に尊重せられない気風となり、諸侯は別に相談したわけでもなく家康を副将軍と祭り上げ、それにつづく人物は前田利家だときまつてしまつた。これが三十年前、信長青年頃の世相であつたら家康だの利家が人物などと言はれる筈はない。黒田如水とか島左近などといふのがむしろ人物と言はれたであらう。家康の出処進退といふものは戦国時代には異例であつた。彼は信長と同盟二十年間、ついぞ同盟を破らなかつた。同盟を破らないのは当り前ぢやないか、と今日は誰しも思ふであらうが、当時は凡そ同盟をまもるといふことが行はれてをらぬので、利害得失のために同盟を破るのが普通であり、損を承知で同盟をまもり義をまもるなどとは愚かであり、笑ふべきことであり、決して美談だとは考へられてをらなかつた。 |
太宰治 |
【パンドラの匣】
僕は出処進退に窮した。口をとがらして洗面所をぶらぶら歩いているうちに、何だか、僕も一緒に泣きたくなって来た。「マア坊。」と呼ぶ僕の声は、ふるえていた。「そんなに、つくしを好きなのか。僕だって、つくしを好きだよ。あれは、やさしい、いい人だったからな。マア坊が、つくしを好きになるのも無理がないと思うんだ。泣け、泣け、うんと泣け。僕も一緒に泣くぜ。」 |
宮本百合子 |
【プロ文学の中間報告】
プロレタリア文学がまとまった運動としてあった頃は、その仕事にしたがう人々の出処進退というのは、文学の本質が必要としている方向の上から、全般的にとりあげて吟味されたし、読者もそういう点ではプロレタリア作家の現実社会での身の処しかたと作品の評価とを一致させるべきものとして観ていたし評価した。今日ではこの点もゆるんでいる。一人一人のプロレタリア作家がブルジョア作家と同じような切りはなされ方で観られ、あの人はああ行動し、この人はこう生きている、という現象だけ漫然眺められている。プロレタリア文学者として云々という我にもひとにも通じる目安が、ぼけている。
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中里介山 |
【大菩薩峠 京の夢おう坂の夢の巻】
「本来、新撰組というのが、幕府の「それはそうありそうなことだ、で、右のように彼等が役附いたとなると、当然それに帰服せざるやからの出処進退というものが見ものだな」 「そこで、一部のものに不平が勃発し、その不平組の牛耳が、今いう伊東甲子太郎なのだ」 「また新撰組が二分したか」 |
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