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首尾一貫
しゅびいっかん |
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作家
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作品
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夏目漱石 |
【コンラッドの描きたる自然について】 現にタイフーンのごときまた、舟火事(名前を忘れたり)のごときは単にタイフーンを写し、単に舟火事を写したものとして立派な雄篇である。首尾一貫前後相待って
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倉田百三 |
【光り合ういのち】
私は胸を |
坂口安吾 |
【明日は天気になれ】
いかにもキメのこまかい行き届いた神経のようであるが、ここがまた案外ゲリラ神経というのかも知れない。ゲリラや野武士が一番心配するのは酒席の喧嘩やそこから発した果し合いなぞかも知れず、紳士のタシナミにしてはいささか神経の行き届きすぎたウラミがあって、こういうところがいま考えると愛嬌あふれ、おかしくて仕様がない。それで事もなく宴会が終れば、それはむしろ甚だ人をバカにし人を軽く見たようなものであるが、幸いにも誰もバカにされずに、首尾一貫してゲリラの精神に添うことができた。めでたい話で、いかにも時代風俗であったと云えよう。 |
戸坂潤 |
【認識論としての文芸学】
マルクス主義的認識論と雖も、今日まで、ブルジョア認識論と同じく、殆んど凡て科学乃至理論に就いての認識論に限定されていた。之はブルジョア認識論にとっては当然なことだったのである。なぜならブルジョア認識論は科学に関しても実践的な模写説は取らず、又ブルジョア文芸理論は模写説としてのリアリズムを取るための必然的な論拠を有っていなかった。従って文芸理論と所謂認識論との間にはブルジョア的理論にして見れば、何等、思いつき以外の共通の地盤は見当らなかったわけだ。処がこの点、現代唯物論は全く条件を異にしている。現代唯物論による認識論は、首尾一貫して模写反映の理論に立脚する。処が現代唯物論による文芸理論も亦同じく首尾一貫して模写反映の理論だ。それが文芸学の哲学的カテゴリーとしての(前にも云ったようにスタイルとしてではない)リアリズムというものだ(ミールスキー『リアリズム』――熊沢復六訳――を見よ)。文芸は世界の・時代の・自然の・社会の反映だ。文学は鏡である(レーニン「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」を見よ)。だからして唯物論によって初めて、科学の認識論が文芸の「認識論」にまで拡大延長され得る条件が発生したのである。文学なる概念もこの認識論に於て初めて、科学的カテゴリーとなることが出来る。
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朝永三十郎 |
【懷疑思潮に付て】
是に至て懷疑論は發展の極に達したと云はねばならぬ。でありますから、其後中世に入り、近世に入りて、懷疑論者と稱せられて居る學者や學派が隨分出て居りますけれども、これ程徹底したる懷疑説は出でゝ居らぬ。若し苟くも何等かの主義といふ樣なことを標榜して出でる以上は、例へば懷疑主義であらうとも、其れは純粹の中性的態度では無い、從つてピュローン流の論法で行けば首尾一貫したる懷疑論では無いのである。ピュローン流の論法で行けば、懷疑論者は何事もハツキリした事は言へぬ譯である。
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甲賀三郎 |
【支倉事件】
支倉の上願書は原稿紙四百字詰に直して、約四十四、五枚、之を半紙へ筆で書いたのだから、その手数さえ一通りではない。それが首尾一貫して字体から行の配りまでキチンとしている。前に述べた通り誤字脱字は殆どない。未決監に閉じ籠められて、暇に飽かして書いたと云い条、その根気には驚かざるを得ない。加うるに神楽坂署に於ける取調の模様を逐一暗記しているのは驚く外はない。
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