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張三李四
ちょうさんりし
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作家
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作品
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芥川龍之介
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【
わが家の古玩
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わが
吉利支丹の徒の事蹟を記せるを以て、所謂「南蛮もの」を蔵すること多からんと思ふ人々もなきにあらざれども、われは数冊の古書の外に一体のマリア観音を蔵するに過ぎず。若しわれをしも蒐集家と言はば、
張三李四の徒も蒐集家たるべし。然れどもわが友に小穴一游亭あり。若し千古の佳什を得んと欲すれば、必しもかの書画家の如く叩頭百拝するを須ひず。当来の古玩の作家を有するは或は古玩を有するよりも多幸なる所以なり。
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芥川龍之介
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【
骨董羹
―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―
】
君見ずや。本阿弥の折紙古今に変ず。羅曼派起つてシエクスピイアの名、四海に轟く事迅雷の如く、羅曼派亡んでユウゴオの作、八方に廃るる事霜葉に似たり。茫々たる流転の相。目前は泡沫、身後は夢幻。智音得可からず。衆愚度し難し。フラゴナアルの技を以太利に修めんとするや、ブウシエその行を送つて曰、「ミシエル・アンジユが作を見ること勿れ。彼が如きは狂人のみ」と。ブウシエを哂つて俗漢と做す。豈敢て難しとせんや。遮莫千年の後、天下靡然としてブウシエの見に赴く事無しと云ふ可らず。白眼当世に傲り、長嘯後代を待つ、亦是鬼窟裡の生計のみ。何ぞ若かん、俗に混じて、しかも自ら俗ならざるには。籬に菊有り。琴に絃無し。南山見来れば常に悠々。寿陵余子文を陋屋に売る。願くば一生後生を云はず、紛々たる文壇の
張三李四と、トルストイを談じ、西鶴を論じ、或は又甲主義乙傾向の是非曲直を喋々して、遊戯三昧の境に安んぜんかな。(五月二十六日)
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神西清
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【
飜訳遅疑の説
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そこで、単にぶざまさと言っただけでは話が通じないし、かと言って一々その実例を挙げていたのでは際限がないしするので、なかんずく最も愛想の尽きるものとして、抽象表現に芸術的に堪えぬこと、及び音律の貧しさ、この二つを挙げてみる。要するに言語としての包摂力が乏しいということである。もちろん創作家が身辺雑記に沈湎し、或いは概念を伝達すればこと足る底のイズム小説に終始し、或いは張三李四を相手の世相小説に甘んじている間は、彼らにとって現代日本語はまことに必要にして十分かも知れぬ。だが僕のひそかに
惧れるのは、もし日本の小説道がさらに進展して、例えば高度の観念的要素とでもいったものの表現を迫られた時、この日本語は果してその芸術的容器として堪えるであろうか、ということなのである。
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国枝史郎
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【
沙漠の古都
】
ラシイヌはゆるやかに歩みながら、捨て目捨て耳を働かせて、彼らの様子を窺った。そうして心で罵った。
「フン、いくらでも唄うがいい、巨魁来巨魁来巨魁来か! どんな巨魁だかこの俺にはちゃあんと解っておいで遊ばすのだ。どんな野郎が来たところでこの鼻ちゃんは驚かない。どんな野郎でもとっ捕えて見せる。俺達の目的を妨げる奴は張三李四のお構いなく地獄の釜の中へたたき込んで見せる?」
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Last updated : 2024/06/28