作 家
|
作 品
|
長塚節 |
【才丸行き】 起きて見ると思ひの外で空には一片の雲翳も無い、唯吹き颪が昨日の方向と變りがないのみである、 |
有島武郎 |
【生まれいずる悩み】 海の中から生まれて来たような老漁夫の、皺(しわ)にたたまれた鋭い眼は、雲一片の徴(しるし)をさえ見落とすまいと注意しながら、顔には木彫のような深い落ち付きを見せている。 |
有島武郎 |
【小さき者へ】 その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋(たいよう)の泡(あわ)の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂に貯(たくわ)えられているか、それは知らない。 |
徳冨蘆花 |
【不如帰(ほととぎす) 小説】 優々として足尾の方(かた)へ流れしが、やがて日落ちて黄昏(たそがれ)寒き風の立つままに、二片(ふたつ)の雲今は薔薇色(ばらいろ)に褪(うつろ)いつつ、上下(うえした)に吹き離され、しだいに暮るる夕空を別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りていつしか影も残らず消ゆれば、残れる一片(ひとつ)はさらに灰色に褪(うつろ)いて朦乎(ぼいやり)と空にさまよいしが、 果ては山も空もただ一色(ひといろ)に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕やみに白かりける。 |
石川啄木 |
【二筋の血】 八月一杯の休暇、其中旬頃とも下旬頃とも解らぬが、それは/\暑い日で、空には雲一片なく、腦天を焙(い)りつける太陽が宛然(まるで)火の樣で、習(そよ)との風も吹かぬから、木といふ木が皆死にかかつた樣に其葉を垂れてゐた。 |
石川啄木 |
【赤痢】 空は、仰げば目も眩む程無際限に澄み切つて、塵一片飛ばぬ日和であるが、稀に室外を歩いてるものは、何れも何れも申合せた樣に、心配氣な、浮ばない顏色をして、跫音を偸んでる樣だ。 |
石川啄木 |
【菊池君】 雪は五寸許りしか無かつたが、晴天續きの、塵一片浮ばぬ透明の空から、色なき風がヒユウと吹いて、吸ふ息毎に鼻の穴が塞る。冷たい日光(ひざし)が雪に照返つて、家々の窓硝子を、寒さに慄(おび)えた樣にギラつかせて居た。 |
泉鏡花 |
【妖僧記】 もとより巨額の公債を有し、衣食に事欠かざれば、花車(かしゃ)風流に日を送りて、何の不足もあらざる身なるに、月の如くその顔(かんばせ)は一片の雲に蔽(おお)われて晴るることなし。これ母親の死を悲(かなし)み別離(わかれ)に泣きし涙の今なお双頬(そうきょう)に懸(かか)れるを光陰の手も拭(ぬぐ)い去るあたわざるなりけり。 |
薄田泣菫 |
【艸木虫魚】 柿右衛門の製作には、そのまま残された素地に、ちぎれ雲とか小さな鳥とかを描き込んで、その器の向きを示しているのがよくあるが、頭の上の柿の実に見とれる折にも、慾をいえば、雲の一片か小鳥かが空を飛んでいてくれたら、どんなにかおもしろかろうとも思うが、世のなかのことは、そうそう注文通りにはゆきかねるから仕方がない。 |
佐左木俊郎 |
【都会地図の膨脹】 丁度これは、膨脹しつつある団雲に近付いて行く一片の雲に似ている。 |
尾崎紅葉 |
【金色夜叉】 沈まば諸共(もろとも)と、彼は宮が屍(かばね)を引起して背(うしろ)に負へば、その軽(かろ)きこと一片(ひとひら)の紙に等(ひと)し。 |
寺田寅彦 |
【子規の追憶】 ほとんど腐朽に瀕した肉体を抱えてあれだけの戦闘と事業を遂行した巨人のヴァイタルフォースの竈(かまど)から迸(ほとばし)る火花の一片二片として、こういう些細な事柄もいくらかの意味があるのではないかと思われるのである。 |
横瀬夜雨 |
【花守】 彼が詩は、實に悒然樂しまざるあまりに吐かれたる咳唾なり、尋常人に無意味なる落葉一片も、彼は清唳なくして之を看過する能はず、人生は彼に在りて憂が描ける單圈のみ、 |
有島武郎 |
【かんかん虫】 暑さにもめげずにぴんぴんしたものだ。黒茶にレモン一片入れて飲め無えじゃ、人間って名は附けられ無えかも知れ無えや。 |
太宰治 |
【鴎−−ひそひそ聞える。なんだか聞える。】 私は赤面して、無能者の如く、ぼんやり立ったままである。一片の愛国の詩も書けぬ。なんにも書けぬ。ある日、思いを込めて吐いた言葉は、なんたるぶざま、「死のう! バンザイ。」ただ死んでみせるより他に、忠誠の方法を知らぬ私は、やはり田舎(いなか)くさい馬鹿である。 |
徳田秋声 |
【黴】 「京の舞妓(まいこ)だけは一見しておきたまえ。」友はそれから、新樹の蔭に一片二片(ひとひらふたひら)ずつ残った桜の散るのを眺めながら、言いかけたが、笹村の余裕のない心には、京都というものの匂(にお)いを嗅(か)いでいる隙(ひま)すらなかった。 |
夏目漱石 |
【草枕】 海は足の下に光る。遮ぎる雲の一片(ひとひら)さえ持たぬ春の日影は、普(あま)ねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで浸(し)み渡ったと思わるるほど暖かに見える。 |
夏目漱石 |
【倫敦消息】 それから「ベーコン」が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほかに焼パン二片茶一杯、それでおしまいだ。吾輩が二片の「ベーコン」を五分の四まで食い了(おわ)ったところへ田中君が二階から下りて来た。 |
若山牧水 |
【四邊の山より富士を仰ぐ記】 然し、最初考へたが如く、一絲掩はぬ富士の全山を其處から見ると云ふことは不能であつた。たゞ一片の蒲鉾(かまぼこ)を置いた樣にたゞ單純に東西に亙つて立つてゐるものと想像してゐたこの愛鷹山には、思ひのほかの奧山が連り聳えてゐるのであつた。 |
林不忘 |
【口笛を吹く武士】 「例によって、今までたびたび取り沙汰された、無論、一片の風説に過ぎますまい。」 「何が−−?」 「が、赤穂の浪人めらが、近く御当家を襲撃するらしいといううわさは、依然としてひそかに、巷(ちまた)に行われているというのです。」 |
原民喜 |
【氷花】 煙草に餓ゑて、彼は八幡村から廿日市まで一里半の路を吸殻を探して歩いて行つた。田舎路のことで一片の吸殻も見つからなかつた。廿日市の嫂のところで一本の煙草にありついた時には、さきほどまで滅入りきつてゐた気分が急に胸にこみあげて来た。 |
寺田寅彦 |
【からすうりの花と蛾】 蛾をはたき落とす猫をうらやみ賛嘆する心がベースボールのホームランヒットに喝采(かっさい)を送る。一片の麩(ふ)を争う池の鯉(こい)の跳躍への憧憬(どうけい)がラグビー戦の観客を吸い寄せる原動力となるであろう。 |
穂積陳重 |
【法窓夜話】 昔シラキュース王ディオニシウス(Dionysius)は、桀紂(けっちゅう)にも比すべき暴君であったが、彼は盛んに峻法を設けて人民を苦しめた。一つの法令を発するごとに、これを一片の板に書き付け、数十尺の竿頭(かんとう)高く掲げて、これをもって公布と号した。 |
林芙美子 |
【崩浪亭主人】 駈落のやうな氣持で内地を去るときの、若い糸子との旅立ちも、いまは一片の夢になり果てて、もう苦樂をともにした妻は冥府へ去つてゐないのだと思ふと、何となく、寒々しい淋しさが身内にせまつて來た。をかしい事だけれども、女房と云ふものはいゝものだと思へた。 |
作者不詳 国民文庫 (明治43年) 校訂: 古谷知新 |
【源平盛衰記】 東大寺と申すは、一閻浮提無二無三の梵閣、鳳甍高く聳て半天の空より抽で、八宗の教法、広敷広学の僧庵、鸞台遥に構て一片霞を隔たり。濫觴を尋れば、月氏より日域に及で、大権の芳契多世を経たり。 |
作者不詳 国民文庫 (明治43年) 校訂: 古谷知新 |
【源平盛衰記】 是は暫天上の楽みと思候しに、去養和の秋の初七月末に、木曾義仲に都を被落て、行幸俄に成しかば、九重の内を迷出て、八重立雲の外をさし、故郷を一片の煙と打詠、旅衣万里の浪に片敷て、浦伝島伝して明し暮し、 |