作 家
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作 品
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有島武郎 |
【惜みなく愛は奪う】 人間生活の本当の要求は無事ということでもなく、表面だけの進歩ということでもないことを。その本当の要求は、一箇の人間の要求と同じく生長であることを。だからお前は安んじて、確信をもって、お前の道を選べばいいのだ。 |
有島武郎 |
【カインの 末裔(まつえい)】 三年経(た)った後には彼れは農場一の大小作(おおこさく)だった。五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。その時彼れは三十七だった。 |
三遊亭圓朝 鈴木行三校訂・編纂 |
【根岸お行の松 因果塚の由来】 殊に色事の出入(でいり)が夏の始めから秋口にかけて多いのは、矢ッ張り春まいた種が芽をふき葉を出して到頭世間へパッとするのでもござりましょうか。能く気を 注(つ)けて御覧遊ばせ。まア左様(そう)した順に参っております。これは私(わたくし)が 一箇(いっこ)の考えではござりません、統計学をお遣り遊ばした御仁は熟(よく)知ってお出(いで)なさる事で、 |
夏目漱石 |
【現代日本の開化- - 明治四十四年八月和歌山において述 - -】 私の講演を行住坐臥(ぎょうじゅうざが)共に覚えていらっしゃいと言っても、心理作用に反した注文なら誰も承知する者はありません。これと同じようにあなた方と云うやはり一箇の団体の意識の内容を検して見るとたとえ一カ月に亘ろうが一年に亘ろうが一カ月には一カ月を括(くく)るべき 炳乎(へいこ)たる意識があり、また一年には一年を纏(まと)めるに足る意識があって、それからそれへと順次に消長しているものと私は断定するのであります。 |
石川啄木 |
【病院の窓】 渠が先づ入るのは、玄關の直ぐ右の明るい調劑室であつた。此室に居る時は、平生と打つて變つて渠は常に元氣づいて居る。新聞の材料は總て自分が供給する樣な話をする。如何なる事件にしろ、記事になるとならぬは唯自分一箇の手加減である樣な話をする。同僚の噂でも出ると、フフンと云つた調子で取合はぬ。 |
穂積陳重 |
【法窓夜話】 歳月流るるが如く、三十年は既に過ぎ去って、今や一箇の長老となりたるボーイス師は、一日議会を傍聴した。僧侶の身として何故にと怪しむことなかれ。これ彼がかつて培いたる栴檀(せんだん)の二葉が、今や議場の華と咲き出でたる喜びの余りである。 |
島崎藤村 |
【新生】 多くの場合に岸本は女性に冷淡であった。彼が一箇の傍観者として種々(さまざま)な誘惑に対(むか)って来たというのも、それは無理に自分を制(おさ)えようとしたからでもなく、むしろ女性を軽蔑(けいべつ)するような彼の性分から来ていた。 |
田山花袋 |
【蒲団】 時雄の眼に映じた田中秀夫は、想像したような一箇秀麗な丈夫(じょうふ)でもなく天才肌の人とも見えなかった。麹町(こうじまち)三番町通の安(やす)旅人宿(はたご)、三方壁でしきられた暑い室に初めて相対した時、先(ま)ずかれの身に迫ったのは、基督(キリスト)教に養われた、いやに取澄ました、年に似合わぬ老成な、厭な不愉快な態度であった。 |
岡本かの子 |
【小町の芍薬】 孤独の身となつて見ると彼には何事も判るやうな気がした。うるさいと思つた妻も、やはり弱い一箇の女であつたのだ。家のため、子のため老いのために、これはどうしても闘つたのが当然であると思はれて来た。妻が平凡な女だつただけに彼には却つて憐れみが残つた。 |
折口信夫 |
【茂吉への返事】 萬葉に迷執してゐるわたしは、ますらをぶりに愛着を斷つことが出來ませぬ。警察官の心が、荒ましくなつて、「萬葉調の歌をよせ。ますらをぶりを棄てろ」と怯かす世になつても、萬葉調を離れることは出來ないと信じてゐます。が、茲に立ち入つて言ふと、わたしはあまり多くの人の歌を讀み過ぎました。他人の歌に淫し過ぎました。爲に、世間の美學者や、文學史家や、歌人などの漠然と考へてゐる短歌の本質と、大分懸けはなれた本質を握つてゐます。其爲に、りくつとしては、「たをやめぶり」も却けることが出來ませぬ。しかし一箇の情からすれば、斷乎として撥ね反します。けれども其處に、あなた方程の純粹を誇ることの出來ぬ濁りが出て來ました。 |
太宰治 |
【秋風記】 三日まえ、私は、用事があって新橋へ行き、かえりに銀座を歩いてみた。ふと或る店の飾り窓に、銀の十字架の在るのを見つけて、その店へはいり、銀の十字架ではなく、店の棚の青銅の指輪を一箇、買い求めた。その夜、私のふところには、雑誌社からもらったばかりのお金が少しあったのである。その青銅の指輪には、黄色い石で水仙の花がひとつ飾りつけられていた。私は、それをKあてに送った。 Kは、そのおかえしとして、ことし三歳になるKの長女の写真を送って寄こした。私はけさ、その写真を見た。 |
幸田露伴 |
【些細なやうで重大な事】 一丁の墨、一箇のペンもその扱ひやうに依つては、充分に役立つに拘らず、何程の効も為さずして終つて了ふ。 |
中里介山 |
【大菩薩峠白根山の巻】 ああ言えばこう言う、少しも怯(ひる)まぬ少年。 なるほど、少年は手に一箇の吸物椀(すいものわん)を持っていて、それで水の中を掻き廻していたのです。右のお椀で水の中を掻き廻して掬い上げると、鮪も鯨も入ってはいない、ただ川の中の砂がいっぱい。 |
中島敦 |
【光と風と夢】 六時少し前朝食。オレンジ一箇。卵二箇。喰べながらヴェランダの下を見るともなく見ていると、直ぐ下の畑の玉蜀黍(とうもろこし)が二三本、いやに揺れている。 おやと思って見ている中に、一本の茎が倒れたと思うと、葉の茂みの中に、すうっと隠れて了った。直ぐに降りて行って畑に入ると、仔豚が二匹慌てて逃出した。 |
横光利一 |
【厨房(ちゅうぼう)日記】 ある日一人のハンガリア人に梶はマッチを貸してほしいと頼むと、そのハンガリア人はすぐ小さなマッチをポケットから出して、これ一つの値段は一銭であるけれども政府はこれを六銭でわれわれに売っていると云う。梶はこの経済上のからくりに興味を感じたのでハンガリア人を使って種種の方面から験(しら)べてみた。すると、そのマッチ一箇の値段の中から意外にも複雑なヨーロッパの傷痕(しょうこん)が続続と露出して来た。 |
横光利一 |
【新感覚派とコンミニズム文学】 コンミニストは次のように云う。「もしも一個の人間が、現下に於て、最も深き認識に達すれば、コンミニストたらざるを得なくなる。」と。 しかしながら、文学に対して、最も深き認識に達したものは、コンミニストたらざるを得なくなるであろうか。 |
泉鏡花 |
【夜行巡査】 八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々(やつやつ)しき婦人(おんな)なりき。 一個(ひとり)の幼児(おさなご)を抱きたるが、夜深(よふ)けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊(し)め、着たる襤褸(らんる)の綿入れを衾(ふすま)となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。 |
林不忘 |
【元禄十三年】 「身に余る栄誉−−。」 と小さな声だった。が、相模守の眼を受けた岡部美濃守は、口を歪めて、微笑していた。 「お受けいたします。なに吉良殿などに訊(き)くことはありません。私は、私一個の平常の心掛けだけでやりとおす考えです。」 どさり、と、重く、畳に両手をついて、横を向くようなおじぎをした。 |
幸徳秋水 |
【死刑の前】 わたくしは、死刑に処せらるべく、いま東京監獄の一室に拘禁されている。 ああ、死刑! 世にある人びとにとっては、これほどいまわしく、おそろしい言葉はあるまい。いくら新聞では見、ものの本では読んでいても、まさかに自分が、このいまわしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は、一個(ひとり)もあるまい。しかも、わたくしは、ほんとうにこの死刑に処せられんとしているのである。 |
佐左木俊郎 |
【指と指環】 そして彼の巴里(パリ)での三年間の生活は、殆んどその一個の指環のために費されたと言ってよかった。彼は貯蓄に努めた。立派で綺麗な彰子の指を、やがてはピアニストとしての芸術家彰子への指を飾るべき一個の指環のために貯蓄した。そして彼は絶えず、指と指環との調和を考え続けた。ピアノのキイの上を走る白い指には、どんな指環が最もよく調和の美を描き出してくれるだろうか? 彼の巴里での三年間に亘る空想の翼は、常に彰子の美しい指の上に拡げられていた。 |
岡本綺堂 |
【半七捕物帳 湯屋の二階】 熊蔵は無気味そうに第二の箱をあけると、その中からも油紙のようなものに鄭重に包まれた一個の首が転げ出した。併しそれは人間の首でなかった。短い角(つの)と大きい口と牙(きば)とをもっていて、龍とも蛇とも判断が付かないような一種奇怪な動物の頭であった。これも肉は黒く枯れて、木か石のように固くなっていた。 |