作 家
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作 品
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夏目漱石 |
【こころ】 私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間(あいだ)に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋(かけぢゃや)が二軒あった。私はふとした機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣(な)れていた。長谷辺(はせへん)に大きな別荘を構えている人と違って、各自(めいめい)に専有の着換場(きがえば)を拵(こしら)えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風(ふう)なものが必要なのであった。 |
淡島寒月 |
【亡び行く江戸趣味】 そんな具合でランプを使用する家とては、ほんの油町に一軒、人形町に一軒、日本橋に一軒という稀(まれ)なものであったが、それが瓦斯燈(ガスとう)に変り、電燈に移って今日では五十燭光(しょっこう)でもまだ暗いというような時代になって、ランプさえもよほどの山間僻地(さんかんへきち)でも全く見られない、時世の飛躍的な推移は驚愕(きょうがく)の外はない。 |
薄田泣菫 |
【小壺狩】 彦山村から槻(つき)の木(き)へ抜ける薬師峠の山路に沿うて、古ぼけた一軒茶屋が立つてゐます。その店さきに腰を下ろして休んでゐるのは、松井佐渡守の仲間(ちゆうげん)喜平でした。松井佐渡守といふのは、当国小倉の城主細川忠興(ただおき)の老臣として聞えた人でした。 |
岡本かの子 |
【異国食餌抄】 巴里のレストラントを一軒一軒食べ歩くなら、半生かかっても全部廻(まわ)れないと人は云っている。いくらか誇張(こちょう)的な言葉かとも聞(きこ)えるが、或(あるい)は本当かも知(し)れない。日本では震災後、東京に飲食店が夥(おびただ)しく殖(ふ)えたが、それは飲食店開業が一番手早くて、どうにかやって行けるからだと聞いた。然(しか)し巴里のレストラントの数は東京の比ではない。 |
橋本五郎 |
【地図にない街】 老人が引っ返したのは余程(よほど)たってからだった。行こうというからには湯銭はできたに違いない。氏はそのことを訊(たず)ねてみようとためらいながら、ついそのままに老人にしたがって、町の名も知らぬ一軒の湯屋へ、遅いそののれんをくぐって入った。老人が五銭白銅一枚と、一銭銅貨五枚とを番台へ置くのが見えた。 |
田中貢太郎 |
【一緒に歩く亡霊】 このうえは霊験のあらたかな神にすがるより他に途(みち)が無いと思った甚六は、その翌日柳津と云う処へ往って其処の鎮守に祈願を籠め、岩坂と云う処まで帰って来た時には、もう夕方になっていたので、甚六は其処で夕飯をすまして帰るつもりで一軒の旅籠屋を見つけて入って往った。 |
太宰治 |
【ダス・ゲマイネ】 馬場は躊躇せず、その報いられなかった世界的な名手がことさらに平気を装うて薄笑いしながらビイルを舐(な)めているテエブルのすぐ隣りのテエブルに、つかつか歩み寄っていって坐った。その夜、馬場とシゲティとは共鳴をはじめて、銀座一丁目から八丁目までのめぼしいカフエを一軒一軒、たんねんに呑んでまわった。勘定はヨオゼフ・シゲティが払った。シゲティは、酒を呑んでも行儀がよかった。黒の蝶ネクタイを固くきちんと結んだままで、女給たちにはついに一指も触れなかった。 |
太宰治 |
【リイズ(ラジオ放送用として。)】 「ちょうどいいところだった。きょうからモデルを使うのです。」 私は驚いた。杉野君は極度の恥ずかしがりやなので、いま迄いちども、モデルを自分のアトリエに呼びいれた事は無かったのである。人物といえば、お母さんの顔をかいたり、また自画像をかいたりするくらいで、あとは、たいてい風景や、静物ばかりをかいていたのである。上野に一軒、モデルを周旋(しゅうせん)してくれる家があるようであるが、杉野君はいつも、その家の前まで行ってはむなしく引返して来るらしいのである。なんとも恥ずかしくて、仕様が無いらしいのである。 |
與謝野寛 |
【蓬生】 貢(みつぐ)さんは門徒寺(もんとでら)の四男(よなん)だ。 門徒寺(もんとでら)と云(い)つても檀家(だんか)が一軒(けん)あるで無(な)い、西本願寺派(にしほんぐわんじは)の別院並(べつゐんなみ)で、京都の岡崎にあるから普通には岡崎御坊で通つて居る。格式は一等本座(いつとうほんざ)と云ふので法類仲間(はふるゐなかま)で幅(はヾ)の利(き)く方だが、交際(つきあひ)や何かに入費(いりめ)の掛る割に寺の収入(しうにふ)と云ふのは錏一文(びたいちもん)無かつた。 |
織田作之助 |
【夫婦善哉(めおとぜんざい)】 新世界に二軒(けん)、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴(やつ)や、ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月(かげつ)」へ春団治(はるだんじ)の落語を聴(き)きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握(にぎ)り合ってる手が汗をかいたりした。 |