作 家
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作 品
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夏目漱石 |
【思い出す事など】 院長の死が一基の墓標で永く確(たしか)められたとき、辛抱強く骨の上に絡(から)みついていてくれた余の命の根は、辛(かろ)うじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。 |
芥川龍之介 |
【或敵打の話】 寛文(かんぶん)十一年の正月、雲州(うんしゅう)松江(まつえ)祥光院(しょうこういん)の墓所(はかしょ)には、四基(しき)の石塔が建てられた。施主は緊(かた)く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧形(そうぎょう)が紅梅(こうばい)の枝を提(さ)げて、朝早く祥光院の門をくぐった。 その一人は城下に名高い、松木蘭袋(まつきらんたい)に紛(まぎ)れなかった。もう一人の僧形は、見る影もなく病み耄(ほう)けていたが、それでも凛々(りり)しい物ごしに、どこか武士らしい容子(ようす)があった。二人は墓前に紅梅の枝を手向(たむ)けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。…… |
堀辰雄 |
【花を持てる女】 松吉はとうとうそのおようという若い師匠と、向島の片ほとりに家をもった。そして二三年同棲(どうせい)しているうちに、一子を設けたが夭折(ようせつ)させた。請地にある上条氏の墓のかたわらに、一基の小さな墓石がある。それがその薄倖(はっこう)な小児の墓なのであった。 |
高山樗牛 |
【瀧口入道】 言ひ殘せし片言(かたごと)だになければ、誰れも尼になるまでの事の由を知らず、里の人々相集りて涙と共に庵室の側らに心ばかりの埋葬を營みて、卒塔婆(そとば)一基(き)の主(あるじ)とはせしが、誰れ言ふとなく戀塚々々と呼びなしぬ。 |
長谷川時雨 |
【お墓のすげかえ】 私は死んでも、決して自分ひとり所有の、立派なお墓なんていうものを建るものではないと、その時思った。前にもいったが、藤木家一族の墓石は幾十基かならんでいるが、その中に、特によい位置をしめて、四角四面、見上げるほど高く、紋をつけた家根まで一ツ石でとってある、石の質も他のとは違うゆいしょありげな一基は、ずっと前の徳川将軍に昵懇(じっこん)していた女性の墓だということだった。 |
国枝史郎 |
【天主閣の音】 ……ところで屋敷の裏庭にあたって、石灯籠が一基ある。こいつが只の石灯籠じゃあねえ。嘘だと思うなら証拠を見せる。おおお立合い、誰でもいい、鳥渡台笠へ障ってくんな。遠慮はいらねえ障ったり障ったり」 |
泉鏡太郎 |
【人魚の祠】 今(いま)其(そ)の祠(ほこら)は沼(ぬま)に向(むか)つて草(くさ)に憩(いこ)つた背後(うしろ)に、なぞへに道芝(みちしば)の小高(こだか)く成(な)つた小(ちひ)さな森(もり)の前(まへ)にある。鳥居(とりゐ)が一基(いつき)、其(そ)の傍(そば)に大(おほき)な棕櫚(しゆろ)の樹(き)が、五株(かぶ)まで、一列(れつ)に並(なら)んで、蓬々(おどろ/\)とした形(かたち)で居(ゐ)る。 |
海野十三 |
【鍵から抜(ぬ)け出(だ)した女】 土間の内に、四畳半ほどの庵室が二つあり、その奥まった室には、床に弥陀如来(みだにょらい)が安置されてあって油入りの燭台が二基。杏色の灯がチロチロと燃えていた。その微かな光の前に秀蓮尼と僕とは向いあった。 |
佐々木味津三 |
【右門捕物帖開運女人地蔵】 軽く会釈しながら近よってみると、なるほど、橋の中ほどの欄干ぎわに、ずらりと六基の石仏が置いてあるのです。いずれも丈(たけ)は五尺ばかりの地蔵尊でした。 |
佐々木味津三 |
【右門捕物帖へび使い小町】 厚漉(あつず)きの鳥の子紙に、どうしたことか裏にも表にも変な文句が書いてあるのです。しかも、その裏なる文字がひととおりでない奇怪さでした。 「−−寝棺(ねかん)、 三個。 経帷子(きょうかたびら)、 三枚。 水晶数珠(すいしょうじゅず)、三連。 三途笠(さんずがさ)、三基。 六道杖(どうづえ)、 三杖(じょう)。 右まさに受け取り候(そうろう)こと実証なり 久世大和守(やまとのかみ)家中 小納戸頭(おなんどがしら) 茂木甚右衛門(じんえもん)」 それすらが容易ならざるところへ、表の文字はさらに数倍の奇々怪々たるものでした。 |