作 家
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作 品
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岡本綺堂 |
【中国怪奇小説集 剪燈新話】 むこうの山の頂きに何かの建物があるのを見つけて、ともかくもそこまで辿(たど)り着くと、そこらは人跡(じんせき)の絶えたところで、いつの代に建てたか判らないような、頽(くず)れかかった一宇(いちう)の古い廟がありました。 「なんだか物凄い所だ」 |
與謝野寛 |
【蓬生】 其れから御坊(ごばう)は昔願泉寺と云ふ真言宗(しんごんしう)の御寺(おてら)の廃地であつたのを、此の岡崎は祖師 親鸞上人(しんらんしやうにん)が越後へ流罪(るざい)と定(きま)つた時、少時(しばらく)此地(こヽ)に草庵(さうあん)を構へ、此の岡崎から発足(はつそく)せられた旧蹟だと云ふ縁故(ゆかり)から、西本願寺が買取つて一宇を建立(こんりふ)したのだ。 |
泉鏡花 |
【凱旋祭】 ひとり、唯、単に、一宇(いちう)の門のみ、生首に灯(ひとも)さで、淋(さび)しく暗かりしを、怪しといふ者候ひしが、さる人は皆人の心も、ことのやうをも知らざるにて候。 |
芥川龍之介 |
【或阿呆の一生】 すると黄ばんだ麦の向うに 羅馬(ロオマ)カトリツク教の伽藍(がらん)が一宇(いちう)、いつの間にか円屋根(まるやね)を現し出した。…… |
釋迢空 折口信夫 |
【死者の書】 數年前の春の初め、野燒きの火が燃えのぼつて來て、唯一宇あつた 萱堂 (かやどう )が、 忽(たちまち )痕(あと )もなくなった。そんな小な事件が起って、注意を促してすら、そこに、 曾(かつ )て美(うるわ )しい福田と、寺の 創(はじ )められた 代(よ)を、思い出す者もなかった程、それはそれは、微かな遠い昔であった。 |
国枝史郎 |
【天主閣の音】 もうこの辺は春日井の郡で、如何にも風景が田舎びていた。 一宇の屋敷が立っていた。 |
島崎藤村 |
【夜明け前 第一部上】 木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦(そうしゅうみうら)の方から移って来た青山監物(けんもつ)の第二子であった。ここに一宇を建立(こんりゅう)して、万福寺(まんぷくじ)と名づけたのも、これまた同じ人であった。 |
作者不詳 国民文庫 (明治44年) |
【義経記】 寺中の下部向ひて見れば、一宇も残らず焼けければ、全く時を移さず、参りて陳じ申さんとて、馳せ上り、院の御所に参じて陳じ申しければ、「さらば罪科の者を申せ」と仰せ下さる。 |
作者不詳 国民文庫 (明治43年) 校訂: 古谷知新 |
【源平盛衰記】 聖断遅々の間、衆徒多矢にあたり、神人殺害に及上は、神輿の残四社を奉振下、七社の神殿、三塔の仏閣一宇も不残焼払、山野に交るべし、悲哉西光一人が姦邪に依て、忽に園融十乗の教法を亡さん事をと、三千の衆徒僉議すと聞えければ、当山の上綱を召て、可有御成敗之旨依被仰下、十五日勅定を披露の為に、僧綱等登山しけるを、衆徒嗔を成て、水飲に下向て追臨す。 |
作者不詳 国民文庫 (明治43年) 校訂: 古谷知新 |
【源平盛衰記】 巳時ばかりに礪並山の北の麓に著て、日宮林に旗三十流打たてたり。倶梨伽羅山と云は加賀と越中との境也。嶺に一宇の伽藍あり。昔越大徳諸国修行し給ひしに、倶梨伽羅明王の行給ひたりしかば、其よりして此山を倶梨伽羅岳共申とか。 |