『雑節』節分、彼岸、入梅、土用など 今年の土用の丑の日は? 土用の丑の日の鰻= 食べるようになったのはいつ頃? = 大伴家持が詠んだ「鰻」 食べるようになったのはいつ頃? 平賀源内はキャッチコピーを考えたのか? 「かばやき」を説明する歴史的文献 「今日 うしの日」の文字が見られる図絵 『 近世職人尽絵詞 』に見る「蒲焼き屋」 江戸時代の黄表紙などに見る蒲焼き 広重が描いた蒲焼き 明治から昭和初期の文芸作品 《 土用の丑の日に「鰻」を食べるようになったのはいつ頃からなのか 》 土用の丑の日に「鰻」を食べるようになったのはいつ頃からなのか、その答えの一つが、1822年〈文政5年〉 に、青山白峰によって書かれた随筆集『明和誌(めいわし)』にある。 『明和誌』には「丑の日にうなぎを食す。寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる」とあり、これによれば、土用の丑の日に鰻を食べる風習は、安永期〈1772年 〜 1781年〉から天明期〈1781年 〜 1789年〉 頃に始まった ことになる。 安永末年とすれば、ということになる。 さらに、「家毎になす」とされることから盛んな風習であったことがうかがえる。また、「寒暑とも」にともあり、夏冬の土用の丑の日に鰻を食べていたことが分かる。 『 明和誌 』 近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す。寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる。 『明和誌』(国立国会図書館) 『明和誌』では、「寒中」「土用」「丑の日にうなぎ」 と言葉が続くことから、 冬の土用の丑の日に鰻を食べることに重きが置かれており、「寒暑とも」にと、ここでは夏は従として扱われているようにも取れる。 従って、冬は安永・天明期から始まったとしても、夏も同じなのかは記されておらず、夏はもっと前から行われていたと取れないこともない。 「丑の日にべにをはき」は、「丑紅(うしべに)」のこと。 「丑紅」は、寒中の丑の日に買う(売る)女性用の紅のことで、口中の荒れを防ぐといわれる。「寒紅」とも。冬の季語。 『 娘消息 』 『明和誌』より12年程下る、天保5年〈1834年〉~ 天保10年〈1839年〉頃 に、三文舎自楽によって書かれた人情本『娘消息』には「土用鰻」が次のように出て来る。 徳「(略)コウお仲さん。 煮肴(にざかな) はいいにしねへ。おれが南一(なんいち) はづむから鰻を取って食はうしやァねへか」 お仲「ヲヤ何だへおよしな。無駄な 事(こつ) たよ」 徳「ナニむだなもんか。おらァ土用うなぎを 食(くらひ)そくなったから。丁度今日は誂向(あつらへむき) だ」 お仲「さうかねそれじぢやァ私もお相伴をするよ」(略)トうなぎやさして出てゆく。是れより程なく鰻も来り。両人はさしむかひにて。うなぎ飯を 食(くらひ)ながら(略) 太字は、当サイトで付けた。 『娘消息(初編下之巻・第三回)』(国立国会図書館) 『 天保佳話 』 『明和誌』より15年程下る、天保8年〈1837年〉 に、丈我老圃(じょうがろうほ)によって書かれた『天保佳話(てんぽうかわ) 』には、「土用の丑の日に鰻を食べるのは夏やせを治すもの」と次のように記され、大伴家持(おおとものやかもち)(養老2年〈718年〉頃 〜 延暦4年8月28日〈785年10月5日〉) も、鰻は夏やせに良いと言っているとしている。 土用𩻠鱺 土用ノ丑ノ日ニ𩻠鱺ヲ喫フ事ハ𩻠鱺ハ夏痩ヲ療スルモノナレバナリ殊トニ丑ハ土ニ属ス土用中ノ丑ノ日ハ両土相ヒ乗ズルモノナリ万葉ニ憶良等ニ我モノ申ス夏痩ニヨシト、イフナルムナギメシマセト、アレハ古シエヨリ夏痩ニハ𩻠ヲ食フ事ト見エタリウム相ヒ通ス 『天保佳話』(国立国会図書館) *ここでの「鰻」は、旁に「方」の字が入る「𩻠」の字が使われている。 *ここでの「憶良」は「大伴家持」のことで、『万葉集』(巻十六)の歌を引いている。 『石麻呂(いしまろ)に 吾(われ)物申(まを)す 夏痩(なつやせ)に よしといふ物ぞ 鰻(むなぎ)取り食(め)せ』 『石麻呂爾 吾物申 夏痩爾 吉跡云物曽 武奈伎取食』 *万葉集での読みは、国立国会図書館蔵の慶長元和年間とされる版を基にした。 『萬葉集 20巻. [16]』(国立国会図書館) 大伴家持が詠んだ「鰻」 『 東都歳事記 』 『明和誌』より16年程下る、天保9年〈1838年〉 に、斎藤月岑の筆、長谷川雪旦・雪堤の画で刊行された『東都歳事記(とうとさいじき)』には、「寒中丑の日 丑紅と号けて女子紅を求む 諸人𩻠鱺(うなぎ) を食す」と記され、冬の丑の日に鰻を食べていたことが分かる。ただし、「夏之部 六月」の「土用中丑の日」には鰻を食べる習慣があるということは書かれていない。 巻之四 冬之部 十一月 寒中丑の日 ○丑紅と号けて女子紅を求む ○諸人𩻠鱺(ウナギ)を食す 『東都歳事記 巻之四 冬之部 十一月 寒中丑の日』(国立国会図書館) ここでの「鰻」は、旁に「方」の字が入る「𩻠」の字が使われている。 『東都歳事記 夏之部 六月』の「土用中丑の日」には鰻を食べるということは書かれていない。 『東都歳事記 夏之部 六月 土用中丑の日』(国立国会図書館) 『 江戸年中風俗之絵 』 『明和誌』より18年程下る、1840年〈天保11年〉 頃に、橋本養邦(はしもとおさくに) (?~1847年〈弘化4年〉)によって描かれた「江戸年中風俗之絵」には、天保弘化年間頃に、「丑の日」を特別な日として鰻を売っていたことが分かる一齣が残されている。 『今日 うしの日』の文字 1840年〈天保11年〉 頃に、橋本養邦(はしもとおさくに) (?~1847年〈弘化4年〉)によって描かれた「江戸年中風俗之絵」の中の一齣に、『今日 うしの日』の文字が見られる。 『江戸年中風俗之絵』の中の一齣 『 山形経済志料 』 大正12年〈1923年〉 に、山形県の山形商業会議所が編纂した『 山形経済志料 』によれば、夏の土用には種々の風習があり、丑の日には土用丑として鰻の蒲焼を食べるのが習慣で、その事を山形の鰻屋の主人、柴田彦兵衛氏(当時 70歳)に取材したとしてその談話が収録されている。 それによれば、『天保年間(1831年 〜 1845年)以前には丑の日でも鰻を食べるような事はなく、それが天保年間以来売れるようになり、弘化嘉永年間(1845年 〜 1855年)には最も繁盛し、土用の丑の日には何んでも彼でも鰻でなければならぬと言うようになった』とされる。 山形経済志料. 第2集「土用鰻の事 柴田彦兵衛氏談」 『自分の稼業は父の定治が始めたもので私と二代である、父の話に依れば天保年間以前には丑の日になつたとて別に鰻を食べるやうな事はなく、商賈は至て閑散なものであつた。それが天保年間以来弗々賣れるやうになり、天保の末弘化嘉永年間には最も繁盛し、土用の丑の日には何んでも彼でも鰻でなければならぬと言ふやうになつた。その由来は詳かではないが丑の日に食べると其年は決して病没に襲はれぬと傳へられてゐるのだ、(略)』 『山形経済志料. 第2集 土用鰻の事』(国立国会図書館) これによれば、山形においては、「土用丑の日に鰻を食べるようになったのは天保年間(1831年 〜 1845年)になってから」で、「由来は定かではない」が、「鰻を食べると病気にならない」と伝えられていたということが分かる。 大伴家持が詠んだ「鰻」 食べるようになったのはいつ頃? 平賀源内はキャッチコピーを考えたのか? 「かばやき」を説明する歴史的文献 「今日 うしの日」の文字が見られる図絵 『 近世職人尽絵詞 』に見る「蒲焼き屋」 江戸時代の黄表紙などに見る蒲焼き 広重が描いた蒲焼き 明治から昭和初期の文芸作品 『雑節』節分、彼岸、入梅、土用など 今年の土用の丑の日は? おすすめサイト・関連サイト…