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墨痕淋漓
ぼっこんりんり
作家
作品

島崎藤村

【夜明け前  第二部下】

 観斎とは、静の屋あるいは観山楼にちなんだ彼が晩年の号である。お粂の目には、父が筆のはこびにすこしの狂いも見いだされなかった。墨痕淋漓ぼっこんりんりとしたその真剣さはかえって彼女の胸に迫った。
  お粂も実はそう長く馬籠にとどまれないで、二、三日の予定で父を見舞いに来た人であった。めったにひとりで家を離れたためしのない彼女はその方のことも心にかかり、それに馬籠と木曾福島との間は途中一晩は泊まらねばならなかったから、この往復だけでも女の足には四日かかった。

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高山樗牛

【瀧口入道】

月の光に立寄り見れば、南無三寶。『祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公法名淨蓮、三位中將維盛年二十七歳、壽永三年三月十八日和歌の浦に入水じゆすゐす、徒者足助二郎重景二十五歳殉死す』。墨痕淋漓として乾かざれども、波靜かにして水に哀れの痕も殘らず。瀧口は、あはやと計り松の根元ねもと伏轉ふしまろび、『許し給へ』と言ふもせつなる涙聲、哀れを返す何處の花ぞ、行衞も知らず二片三片ふたひらみひら、誘ふ春風は情か無情か。

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佐藤紅緑

【ああ玉杯に花うけて】

 覚平かくへいはこういって家をでていった、光一ははじめて例のさしいれものは父であることをさとった。その翌日から町々を顛倒てんとうさせるような滑稽こっけいなものがあらわれた。懲役人ちょうえきにんの着る衣服と同じものを着た覚平は大きな旗をまっすぐにたてて町々を歩きまわるのである。旗には墨痕淋漓ぼっこんりんりとこう書いてある。
「同志会の幹事かんじ強盗ごうとうの親分である」
  かれは辻々に立ち、それから町役場の前に立ち、つぎに阪井の家の前に立ってどなった。

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国枝史郎

【柳営秘録かつえ蔵】

 鬼小僧は正直にこう云った。
「ところで俺を何者と思う?」
「さあそいつだ、見当が付かねえ」
「あれを見ろ」と云いながら老人は壁へ指を指した。洋風の壁へかかっているのは、純日本風の扁額へんがくであった。墨痕淋漓匂うばかりに「紙鳶堂しえんどう」と三字書かれてあった。
形学けいがくを学んだお前のことだ、紙鳶堂の号ぐらい知っているだろう」
「知っている段じゃアございません。だが紙鳶堂先生なら、安永八年五十七歳で、牢死されたはずでございますが?」

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Last updated : 2024/06/28