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本地垂迹
ほんじすいじゃく |
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作家
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作品
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折口信夫 |
【髯籠の話】
盂蘭盆と大祓との関係の如きも亦此で、斉明朝の純然たる仏式模倣から、漸次に大祓思想の復活融合を来たしたやうに、習慣復活の勢力に圧されて、単純なる供燈(クトウ)流燈の目的の外に、更に其上に精霊誘致の任務にも用ゐられた訣である。をこがましい申し分ではあるが、かの本地垂迹説を単に山家(サンケ)・南山(ナンザン)の両大師あたりの政略であつた様に言ふ歴史家の見解は、仮令(たとひ)結果が一に帰するにしても、心理的根拠から、我々の頗る不服とするところであつて、此事蹟の背後には、猶一段と熱烈にして且敬虔な民族的信仰の存するものを認めて貰ひたいのである。
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桑原隲藏 |
【老子化胡經】
『清淨法行經』は北周の道安已に之を引用し、『造天地經』は北周の甄鸞(ケンラン)これを引用し、『須彌經』は唐初の明槩に引用されて居る。されば佛教徒が南北朝時代から、支那の聖賢を菩薩の化身として、佛教側に引き入れたことが明白である。明槩が三皇・五帝・孔・李・周・莊みな菩薩化身と主張して居るのは、化身説を極端まで應用したものである。この手段がやがて平安朝時代にわが國に輸入されて、本地垂迹の説となり、わが國では支那よりも一層の成功を見得たのである。本地垂迹の説は、普通に傳教大師や弘法大師によつて創唱されたものとなつて居る。この二人は何れも入唐した。唐時代は道佛二教の爭の盛な時であるから、この二人も支那の僧侶が老子や孔子を菩薩扱にして、宗勢を擴張した先例を見て、歸朝の日に之を我が國に應用したのであらうと想像される。本地垂迹の説が完全に組織されて、何の神の本地は何の菩薩と一々附會されたのは、固より後世の事であらうが、化身説を利用して、神佛の調和を計らんとする傾向は、傳教・弘法の時からあつたので、これは支那から輸入したものであらうと想像される。十分の調査をして居らぬから、斯には單に想像というて置く。 |
内藤湖南 |
【大阪の町人學者富永仲基】
兩部習合説が先づ起つて、それから後に本迹縁起――本迹縁起と申しますのは、何の神の本地は何佛で、何々神といふのは垂迹である、佛が本體で、神がそれから實際世に現はれて居る者と考へたのであります。それで兩部習合説の次に本地垂迹説が起り、その後になつてアベコベに、神を本地として佛を垂迹とした説も起つて來たのであります。
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