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無常迅速
むじょうじんそく
作家
作品

夏目漱石

【吾輩は猫である】

ちょうどその晩は少し曇って、から風が御濠おほりむこうから吹き付ける、非常に寒い。神楽坂かぐらざかの方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変さみしい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる めぐる。よく人が首をくくると云うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつのにか例の松の真下ましたに来ているのさ

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芥川龍之介

【偸盗】

 そのうちに、盗人が二人三人、猪熊いのくまおじ死骸しがいを、門の外へ運び出した。外も、まだ暗い。有明ありあけの月のうすい光に、蕭条しょうじょうとしたやぶが、かすかにこずえをそよめかせて、凌霄花のうぜんかずらのにおいが、いよいよ濃く、甘く漂っている。時々かすかな音のするのは、竹の葉をすべる露であろう。
生死事大しょうじじだい。」
無常迅速。」
「生き顔より、死に顔のほうがよいようじゃな。」
「どうやら、前よりも真人間らしい顔になった。」
 猪熊の爺の死骸は、斑々はんぱんたる血痕けっこんに染まりながら、こういうことばのうちに、竹と凌霄花との茂みを、次第に奥深くかれて行った。

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幸田露伴

【二日物語】

是や見し往時むかし住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、色即空しきそくくう道理ことわりを示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が朋友ともどちはいづち行きけむ無常迅速為体ていたらくは、水漂草の譬喩たとへに異ならず、いよ/\心を励まして、遼遠はるかなる巌のはざまに独り居て人め思はず物おもはゞやと、数旬しばらく北山の庵に行ひすませし後、飄然と身を起し、加茂明神に御暇おいとままをして仁安三年秋の初め、

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蒲原有明

【夢は呼び交す ――黙子覚書――】

 夢から醒めた鶴見には、生死事大しょうじじだい無常迅速という言葉のみが、夢のあとに残されている。まだどこやら醒めきらぬ心のなかで、平凡な思想だとおもう。そんな平凡な思想が、言葉がどうしてあのような不可思議な影像を生み出したかと 追尋ついじんしてみる。奥が知れぬほど深い。今更のように、せつないものが胸に迫ってくるのである。

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高村光太郎

【美の日本的源泉】

 背後に蔚然うつぜんたる五山文学の学芸あり、世は南北朝の暗澹あんたんたる底流の上に立って興廃常なき中に足利義満等の夢幻の如き栄華は一時に噴火山上の享楽を世上に流通せしめた。この前後の芸術一般が持つ美には、それゆえつね無常迅速の哀感を内に はらみ、外はむしろ威儀の卓然たるものがあった。猿楽は寺坊の間から起ってこれらの将軍と公卿との寵児ちょうじとなり、更に慰楽に飢えた民衆一般の支持をうけ、遠く辺陬へんすうの地にまで其の余光を分った。

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島崎藤村

【芭蕉】

 幻住庵は菅沼曲水の伯父にあたる幻住老人といふ僧の住んだ草庵で、そこに芭蕉はしばらく住んだといふことが、あの記文の中に書いてある。さういふ歴史は兎に角、私はあの幻住庵を芭蕉の生活の奧の方に光つて見える一つの象徴として想像したい。あの草庵を芭蕉の『生命の宮殿』とも想像したい。無常迅速の境地に身を置きながら永遠といふものに對して居るやうな詩人をあの草庵の中に置いて想像したい。

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寺田寅彦

【連句雑俎】

しかし大陸と大洋との気象活動中心の境界線にまたがる日本では、どうかすると一日の中に夏と冬とがひっくり返るようなことさえある。その上に大地震があり大火事がある。無常迅速は実にわが国の風土の特徴であるように私には思われる。
 日本人の宗教や哲学の奥底には必ずこの自然的制約が深い根を張っている。そうして俳諧の華実もまた実にここから生まれて来るような気がする。無常迅速、流転してやまざる環境に支配された人生の不定感は一方では外来の仏教思想に豊かな 沃土よくどを供給し、また一方では俳諧のさびしおりを発育させたのであろう。

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幸徳秋水

【死刑の前】

 無常迅速・生死事大、と仏家はしきりにおどしている。生は、ときとしては大いなる幸福ともなり、またときとしては大なる苦痛ともなるので、いかにも事大にちがいない。しかし、死がなんの事大であろう。人間の血肉の新陳代謝がまったくやすんで、形体・組織が分解しさるのみではないか。死の事大ということは、太古より知恵ある人がたてた一種のカカシである。地獄・極楽の蓑笠つけて、愛着・妄執の弓矢をはなさぬ姿は、はなはだものものしげである。漫然と遠くからこれをのぞめば、まことに意味ありげであるが、近づいて仔細にこれを見れば、なんでもないのである。

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横光利一

【夜の靴 ――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)】

「そう、宿直手当もあるんだよ。月給だけだと三十五円だけど。」
 私は自分がある大学の教師をしていたとき、月給四十二円を貰った最初の日の貴重な瞬間のことを思い出した。あのときは、月給というものは金銭ではないと思ったが、長男の月給はなおさらだ。
「一回月給を貰って、忽ち馘とは、これはまた無常迅速なものだね。しかし、おれのときよりお前の方が多いから、豪いもんだ。」
 私は嬉しくなったので妻に参右衛門の仏壇へ状袋を上げてくれと頼んだ。

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Last updated : 2024/06/28