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無念無想
むねんむそう
作家
作品

國木田独歩

【空知川の岸辺】

 汽車の乗客はかぞふるばかり。余の入つた室は余一人であつた。人独り居るは好ましきことに非ず、余は他の室に乗換へんかとも思つたが、思い止まつて雨と霧との為めに薄暗くなつて居る室の片隅に身を寄せて、暮近くなつた空の雲の去来ゆきゝや輪をなして回転し去る林の立木を茫然と眺めて居た。かゝる時、人は往々無念無想うちに入るものである。利害の念もなければ越方こしかた行末のおもひもなく、恩愛の情もなく憎悪の悩もなく、失望もなく希望もなく、たゞ空然として眼を開き耳を開いて居る。

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国枝史郎

【八ヶ嶽の魔神】

 松崎清左衛門は何が不足で葉之助の入門を拒絶ことわったのであろう? それは誰にも解らない。しかし当の葉之助にとっては無念千万の限りであった。
「そういう訳なら師を取らずにおのれ一人工夫を凝らし、東軍流にて秘すところの微塵みじんの構えを打ち破り清左衛門めを打ち据えてくれよう」
 間もなく葉之助は心の中でこういう大望を抱くようになった。彼はご殿から下がって来るや郊外の森へ出かけて行き、八幡宮の社前に坐って無念無想に入ることがあり、またある時は木刀を ふるって立ち木の股を裂いたりした。

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長谷川時雨

【水】

 ――海面うみに浮いて、空を、じつと眺めてゐると、無念無想蒼空おほぞらの大きく無限なることをしみ/″\とおもふ――

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寺田寅彦

【文学の中の科学的要素】

 吾人が事象に対した時に、吾人の感官が刺戟されても、無念無想渾沌こんとんたる状態においては自分もなければ世界もない。そのような状態が分裂して、能知者と所知者が出来る事によって、始めて認識が成立し始める。そこから色々な観念が生れ、観念は更に分裂してより多く共通な要素に分析されてそこに秩序が出来、「言葉」が出来、「方則」が出来る。

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中原中也

【詩に関する話】

 然し此の錯雑した時勢にあつても、いつかな愚鈍で、有難からぬ幸福のお方もあつて、その手合では、情けとは迎合性や動物的嗜好などを意味するだけで、つまりまあ気分屋なのである。
 近所が火事であるための驚きと、心の感動と、言換れば偶然と必然とを、混同しない程度に比例して芸術非芸術があるとはシモンズの謂ふ所だ。芸術は扨措いて、生活の中ででもそのやうな手合は困るのであつて、それらの人が朝目覚めた時の無念無想、即ち瞑想状態が、精神にも物質にも有益であつて、其処にこそ現実があり欣怡のあることに想到されるやう、私一介の馬鹿は希つてゐる。

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大島亮吉

【涸沢の岩小屋のある夜のこと】

とかげっていうのは仲間のひとりが二、三年前にここに来て言いだしてから自分たちの間で通用する専用の術語だ。それは天気のいいとき、このうえの岩のうえで蜥蜴とかげみたいにぺったりとおなかを日にあっためられた岩にくっつけて、眼をつぶり、無念無想でねころんだり、 居睡いねむりしたりするたのしみのことをいうんだ。

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坂口安吾

【桂馬の幻想】

自分では一撃必殺のきびしい桂のつもりであるが、あべこべに自分の命とりになりかねない懸念もあった。しばしの息ぬきに無念無想の道をあるいていたつもりでも、その桂ハネが頭の底にからみついていたのだ。そのせいか、娘の顔が桂に見えた。

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吉行エイスケ

【女百貨店】

 太田ミサコは売あびせのために底値を入れた××新株の反撥を予想して買いあつめると、雑株安をねらって、引たたぬ××百貨店株を後場引値ごばひけねで、これを指名人に買わすとさっさと場内を引あげた。強弱の火華を消して無念無想の境地をもとめて人々が四散した。

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中里介山

【大菩薩峠 弁信の巻】

 夜具の前にちょこんと落着いて、そうしてお祈りをしました。
 それは、お祈りというべきものか、念仏というべきものか、或いは、かりそめに無念無想の境を作ろうとしているのか、とにもかくにも暫くの間、黙坐をしていた弁信は、やがて帯を解き、 緇衣しいを解いて衣桁いこうにかけ、それからさぐりさぐりに、夜具に向って合掌した後に、軽やかに、その中にくるまって、左の脇を下にして横になり、その法然頭をくくり枕の上に落しました。

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種田山頭火

【行乞記 (一)】

 九月廿三日 雨、曇、同前。

八時から二時まで都城の中心地を行乞、こゝは市街地としてはなか/\よく報謝して下さるところである。
今日の行乞相はよかつた、近来にない朗らかさである、この調子で向上してゆきたい。
一杯二杯三杯飲んだ(断つておくが藷焼酎だ)、いゝ気持になつて一切合切無念無想

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Last updated : 2024/06/28