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草廬三顧
そうろさんこ |
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作家
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作品
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桑原隲藏 |
【 支那史上の偉人(孔子と孔明) 】 さて諸葛亮は字は孔明といふ。瑯邪陽都人といふから、今の山東省沂水縣附近に生れたのである。彼の兄の諸葛瑾は、後に呉に仕へて大臣となり、徳行の高き人で、呉主の孫權に信任せられたこと、殆ど劉備と孔明の如き有樣であつた。諸葛亮は東漢の靈帝の光和四年(西暦一八一)に生れた。早く父を喪ひ、從父の諸葛玄の保護を受けた。その從父が荊州牧劉表の許に世話になつたから、自然諸葛亮も亦荊州に住むこととなつた。やがて從父の死後、彼は襄陽附近の田舍に退隱した。丁度その頃劉備が曹操の爲に逐はれて、荊州の劉表の許に身を託したから、茲に兩人接近の機會が出來た。かの有名なる草廬三顧は、獻帝の建安十二年(西暦二〇七)即ち孔明の二十七歳の時の出來事である。この時孔明は早く已に天下三分の計畫を定めた。曹操は最早天下の十の七を手に入れ、兵士も多く物資も豐で、到底正面から之に抵抗し難い。孫權は東南の地に據り、父兄三代の基礎堅ければ、之を味方に利用して、巴蜀の方面に新に立脚地を求めねばならぬといふのである。 |
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