作 家
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作 品
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森鴎外 |
【牛鍋】 鍋(なべ)はぐつぐつ煮える。 牛肉の紅(くれない)は男のすばしこい箸(はし)で反(かえ)される。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱(ねぎ)は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏(しるしばんてん)を着ている。傍(そば)に折鞄(おりかばん)が置いてある。 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。 酒を注いで遣(や)る女がある。 男と同年位であろう。黒繻子(くろじゅす)の半衿(はんえり)の掛かった、縞(しま)の綿入に、余所行(よそゆき)の前掛をしている。 女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。 目の渇(かわき)は口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まないのである。 箸のすばしこい男は、二三度反した肉の一切れを口に入れた。 丈夫な白い歯で旨(うま)そうに噬(か)んだ。 |
夏目漱石 |
【吾輩は猫である】 寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行(ある)いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就(つ)いたのは九時頃であった。例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮(ぞうに)を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも六切(むきれ)か七切(ななきれ)食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸(はし)を置いた。他人がそんな我儘(わがまま)をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦(こ)げ爛(ただ)れた餅の死骸を見て平気ですましている。妻君が袋戸(ふくろど)の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利(き)かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質(でんぷんしつ)のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。 |
菊池寛 |
【義民甚兵衛】 甚吉 じゃ、ぼつぼつ行こうか。 おきん 飯食うてからにせい。評定が、長びくかも知れんけに。 甚吉 ああ、ど不具めと、取り組み合うて、えらいことお腹を空かせたぞ。 おきん (台所へ入り、鍋の蓋を開けて見て)あの阿呆め! 三切れも、食いやがった。われらに、一切れずつやろう思っていたら、当らんようになったぞ。 (兄弟三人、台所に腰をかけ、粟飯を茶碗に盛りながら、大根を鍋よりはさみ出しながら食う) |
相馬泰三 |
【六月】 原稿の書きそこないを丸るめたのや、煙草の灰、新聞のきれ屑(くず)、辞書類の開らきっぱなしになっているのや、糊壺(のりつぼ)、インキのしみ、弁当をたべた跡、−−割箸(わりばし)を折って捨てたのや、時によると香の物の一切れぐらいおちたままになっていることも珍らしくない。−−お茶の土瓶(どびん)、湯呑(ゆのみ)のひっくりかえったのや、…… |
宮本百合子 |
【マクシム・ゴーリキイの人及び芸術】 背の高い、ゴーリキイの息子が出てきた。普通の長椅子やテーブルの置いてある室へ案内した。朝日が、二つならんだ大きい窓から大理石のテーブルの上にさしている。そこへ食べのこしたのか、まだ食べないのか一切れのトーストがぽつんと皿にのって置かれている。 |
宮本百合子 |
【一九三二年の春】 ともかく顔を洗い、監房に戻って坐ると、寒さが身にこたえはじめた。七時すぎになると、小使が飯と味噌汁を運んで来た。塗りが剥(は)げ得るだけ剥げきった弁当箱に、飯とタクアンが四切れ入っている。味噌汁は椀についでよこすが、これがまた欠け椀で、箸はつかい古しの色のかわった割箸をかき集めたものである。こういう食いものを、監房の戸の下に切ってある高さ四寸に長さ七八寸の穴から入れてよこす。 |
大杉栄 |
【日本脱出記】 僕はもう五、六年前から、ほんの少しでもいいから酒を飲むようにと、始終医者からすすめられていた。 が、飲めないものはどうしても飲めない。日本酒なら、小さな盃の五分の一も甜めると、爪の先まで真っ赤になって、胸は早鐘のように動悸うつ。奈良漬けを五切れ六切れ食べてもやはりおなじようになる。サイダーですらも、コップに二杯も飲むと、ちょっとポオとする。 ただウィスキーが一番うまいようなので、毎日茶匙に一杯ずつ紅茶の中に入れて飲んでいたが、それだけでもやはりちょっと苦しいくらいの気持になる。 |
ニコライ・ゴーゴリ平井 肇訳 |
【外套】 彼は家へ帰ると早速、食卓につき、大急ぎでおきまりのシチューをすすり、たまねぎを添えた一切れの牛肉をたいらげるが、味加減などには一切無頓着で、蠅であろうが何であろうが、その際食物に付着している物は一緒に食ってしまうのである。胃袋がくちくなりはじめたなと気がつくと、彼は食卓を離れて、墨汁の入った壺を取り出して、家へ持ち帰った書類を書き写しにかかるのである。 |
寺田寅彦 |
【写生紀行】 畑に栽培されている植物の色が一切れごとにそれぞれ一つも同じものはない。打ち返されて露出している土でも乾燥の程度や遠近の差でみんなそれぞれに違った色のニュアンスがある。それらのかなりに不規則な平面的分布が、透視法(パースペクチーヴ)という原理に統一されて、そこに美しい幾何学的の整合を示している。これらの色を一つ取りかえても、線を一つ引き違えても、もうだめだという気がする。 |
宮沢賢治 |
【ガドルフの百合】 それに俄《にわ》かに雲が重《おも》くなったのです。 (卑《いや》しいニッケルの粉《こな》だ。淫《みだ》らな光だ。) その雲のどこからか、雷《かみなり》の一切れらしいものが、がたっと引きちぎったような音をたてました。 (街道《かいどう》のはずれが変《へん》に白くなる。あそこを人がやって来る。いややって来ない。あすこを犬がよこぎった。いやよこぎらない。畜生《ちくしょう》。) |