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尊王攘夷 そんのうじょうい |
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作家
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作品
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森鴎外 |
【津下四郎左衛門】 四郎左衛門は勇戦隊にいるうちに、義戦隊長藤島政之進の下に参謀のような職務を取っていた |
島崎藤村 |
【夜明け前 第一部上】 もともと水戸の御隠居はそう |
服部之総 |
【尊攘戦略史】 スローガン「尊王攘夷」はなにも最初から討幕を内容としたものではなかった。反対に、本来のそれは、幕権のためにする名実ともに「天下副将軍」的なスローガンとして生れたものである。
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宮本百合子 |
【婦人作家】 徳川の三百年を通じて文化・文学の上で婦人の発言は全くしめ出されていた状態だった。江戸文学は数人の女流俳人、歌人を有し、歴史文学の荒木田麗女の「池の藻屑」「月の行方」などが、源氏物語を模した文体でかかれた歴史物語としてつたえられているだけである。いわゆる維新の女傑たちの文学的表現は、「尊王」の短歌の範囲であった。これらの姉たちは、尊王攘夷というスローガンの実体が、王政復古といいながら実は天皇を絶対権力者とする半封建的資本主義社会体制への移行であることを知っていなかった。
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横瀬夜雨 |
【天狗塚】 血盟団、五・一五事件の公判の初められようとする頃、筑波天狗党の遺族は山上に集まって七十年祭を挙行した。警察がやかましかったので、来会者は四十人に過ぎず、天狗塚はいくつあるだろうという話が出た。当時囚えられた天狗は、例外なしに各部落の馬捨場で首を刎ねられている。正五位飯田軍造、天狗軍中強豪を以て聞えた木戸の軍造も、 押借と放火と殺傷とで遠近を脅かしてから、尊王攘夷は名ばかりに取られ、逃ぐる者は出ても、加わる者は無く、若年寄田沼玄蕃頭を目代として、十二諸侯(松平下総守鳥居丹波守、水野日向守、松平右京亮、土屋采女正、細川玄蕃頭、松平播磨守、堀内蔵頭、井上伊予守、松平周防守、丹羽左京太夫、板倉内膳正)の兵およそ一万三千人がひし/\と筑波をとり巻いた。 |
佐々木味津三 |
【老中の眼鏡】 「不平の声は耳にせざったか」「致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人気の沈んだことはない。まるで生殺しに会うているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立直るものならそのように、早うどちらかへ片がつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりまして厶ります」 ――まさにそれは地の声だった。尊王攘夷と開港佐幕と、昨是今非の紛々たる声に交って、黒船来の恐怖心が加わった、地に |
塚原蓼洲 |
【兵馬倥偬の人】
その翌年、すなわち慶應の三年、僕の廿
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中里介山 |
【大菩薩峠 白骨の巻】 まず玄関には非常に大きな帳簿が備えてあります。それの巻頭には誰の筆とも知らず、達筆に
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桑原隲藏 |
【秦始皇帝】
天下統一後に実行した始皇帝の事業は、中々多端であるが、要するに内政と外交とに区別することが出来る。内政では君権の拡張、外交では漢族の発展が主眼となって居る。従って彼一代の政策は、尊王攘夷の実現に在るとも解釈し得るのである。先ず内政の主要なるものを列挙すると下の如くである。
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三好十郎 |
【斬られの仙太】 昇平打続くこと二百六十有余年四民鼓腹して太平を唱う折、馬関と浦賀に黒船が来てさ、さあ事だ。てんであわて出した、開港通商、尊王攘夷、ケンケンゴーゴー、へん尊王攘夷が笑わせやがらあ! とはいうもののこう世間がせちがらくなって民百姓が食えなくなりゃ、何とか世直しせざあなるめい、てんで、それ、表看板が尊王攘夷、と来りゃ、天狗もまんざらでもねえという訳。只の天狗と天狗が違うと筑波で
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