土用の丑の日の鰻
= 平賀源内はキャッチコピーを考えたのか? =

《 平賀源内はキャッチコピーを考えたのか? 》
平賀源内がキャッチコピーを考え、鰻を食べる習慣ができたという説について…

 結論から言えば、平賀源内が『本日土用丑の日』というキャッチコピーを考え、土用に鰻を食べる習慣ができたという説については、全く否定はできないが、それを裏付ける根拠も現時点では見つけられない。 


 幕末の 蘭学者らんがくしゃ平賀源内ひらがげんない (享保13年〈1728年〉- 安永8年12月18日〈1780年1月24日〉)が鰻屋からの相談を受けて、『本日土用丑の日』との今で言うキャッチコピーを考え店先に張り出したところ大繁盛で、以来、鰻屋がそれを広め「土用の丑の日」に鰻を食べる習慣ができたという説があり、前出の「明和誌  」(1822年〈文政5年〉)にそれが載っているとする文献も見られる。しかし、明和誌には「丑の日にうなぎを食す。(略)安永天明の頃よりはじまる」などとする記述があるのみで、源内説を裏付けるような根拠は見当たらない。(安永天明期は、1772年 - 1789年)

「今日 うしの日」と書かれた「江戸年中風俗之絵」(部分)
「今日 うしの日」と書かれた
「江戸年中風俗之絵」(部分)

 ただし、ここまで見てきた「土用の丑の日の鰻」が登場する文献が、全て源内の没(1780年)後に出版されたものであり、また、後述の「江戸年中風俗之絵」の中の 「今日 うしの日 と書かれた絵も源内没後のものであることから、源内説がどこから出て来たかは今のところ定かではないが、源内との関わりを全く否定できないかも知れない。

 源内は、1774年〈安永3年〉 に書いた「里のをだまき評」(吉原細見里のをだまき評)の中で鰻について触れ、「江戸前鰻が旅鰻よりはるかにうまい」と表現している。また、深川について触れた部分で「鰻は黒江町が名高い」としている。ただし、「土用丑の日」という言葉は出て来ない。

「里のをだまき評」

吉原へ行き、岡場所へ行くにも皆夫々の因縁づく、よいも有り、悪いもあり。江戸前うなぎと旅うなぎ程旨味も違はず。(略)深川の地は湯気にしてかたよららず、船の通路自由にて、牡蠣かき店の牡蠣かき文蛤町はまぐりちょうの文蛤、 鰻鱺うなぎ は黒江丁に名高く、雁金焼かりがねやき万年丁まんねんちょうにかくれなし。

里のをだまき評(国立国会図書館)  
里のをだまき評(国立国会図書館)  

[注]黒江町:江戸深川にあった地名。現在の東京都江東区門前仲町一丁目・永代二丁目付近にあたる。うなぎ屋で知られた。(日本国語大辞典 | 小学館)

本日土用丑の日』の源内説は、今後の研究に待ちたい。

 なお、『土用の丑の日に鰻を食べると滋養になる』との記述が源内の「里のをだまき評」にあるとの情報も散見されるが、「里のをだまき評」にはそのような記述は見られない。
 『里のをだまき評(国立国会図書館)  

平賀源内 ひらがげんない
 享保13年〈1728年〉- 安永8年12月18日〈1780年1月24日〉。
 江戸時代中頃の、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。
 源内は通称で、元内とも書いた。諱は 国倫くにとも、字は子彝しい。数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号の鳩渓きゅうけい、俳号の李山りざんをはじめ、戯作者としては風来山人ふうらいさんじん、浄瑠璃作者としては福内鬼外ふくうちきがいの筆名を用い、殖産事業家としては 天竺浪人てんじくろうにん、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内ひんかぜにないなどといった別名でも知られていた。(Wikipedia)
『雑節』節分、彼岸、入梅、土用など  
 今年の土用の丑の日は?  

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Last updated : 2024/06/28