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隅田川の渡し は、隅田川にかつて存在した渡し船・渡船場の総称。(隅田川は、東京都北区の岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5キロメートルの一級河川)- 隅田川には、長らく奥州や総州への街道筋に合わせていくつかの渡しが存在した。
- 戦国時代以降に徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
- 江戸時代を通じて渡しは増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できる。
- 関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、1966年(昭和41年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、公道の一部としての隅田川の渡しは姿を消した。
- 明治10年〈1878年〉と、明治17年〈1884年〉に出版された、東京の様々な場所などを紹介する印刷物に書かれた「渡し場」。(隅田川とは限らない)
- 明治後期の印刷とされる、枕橋の渡し(山の宿の渡し)の絵葉書。ボストン美術館の説明によれば、この渡しは1907年〈明治40年〉に廃止されたとされる。奥に浅草寺が写る。
- ここでは、明治から昭和初期に書かれた小説や随筆の中の隅田川と渡しを見てみる。
『水の東京』は、1901年〈明治34年〉に発表された。
水の東京
幸田露伴
上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の
東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは、
○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは
○豊島の渡は荒川の川口の方より幾屈折して流れ来りて豊島村と宮城村との間を過ぐる処にあり。豊島村の方より渡りて行く事
○
○
○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より川上は小蒸気船の往来なくして、たゞ川船、伝馬、
○塩入村の
○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、
○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて会する一渠の名なり。幅は濶からねども船を通ずべく、眺めもこれといふところはなけれどもまた棄てがたき節なきにあらず。その上流は小菅より浮塚に至りて、なほ遠く荒川より出で、こゝにて
○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに
○鐘が淵は紡績会社の
○関屋の里は定めてこれと指すべきところなし。鐘が淵附近の地一帯をいふにや、近き人の著しゝ『隅田川叢誌』には隅田川辺なる村里の総称なりといへり。鐘が淵の下にまた大川より東に入る渠あり、奥行いと浅けれど紡績会社のために漕運の便を与ふること少なからず。それよりまた下に
○水神の森あり。水神の社地を浮島といひて、洪水にも浸さるゝことなき由をもて名あり。このあたり皆川の東の方は深くして西の方は浅し。水神の森の
○隅田川貨物停車場のための渠ありて西に入る。こは上野停車場より各地に至る汽車のために水運陸運を連絡すといふまでにはあらねど、石炭その他を供給するためいと大なる効をなせり。これより下流は川の深処東より移りて漸く西の岸に沿ひ、有名なる
○真先稲荷前を過ぐる頃は、東は甚だ浅く西は大に深きに至る。石浜神社は小社なれどもその古きをもて知られ、真先稲荷は社前に隅田川を
○思川といふ潮入りの小溝あれど、船を通ずるに至らねば取り出でゝいふべくもあらぬものなり。思川の南数十歩して
○橋場の渡あり。橋場といふ地名は
○寺島の渡は寺島村なる
○長命寺の下、牛の御前祠の地先あたりは水
○墨田の長堤もまた
○竹屋の渡場は牛の御前祠の下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の
○
○待乳山は聖天の祠あるをもて墨堤より望みたる景いとよし。あはれとは夕越えて行く人も見よの
○
○鯉釣場にして、いはゆる浅草川の紫鯉を産するところなれば、漁獲の数甚だ多からざるにかゝはらず釣客の
○枕橋、
○曳船川に出で、田圃の間を北して遠く亀有に達し、なほ遠くは琵琶溜より中川に至る。但し源森川と曳船川との間には水門あり。また源森川の流れを追ふて右に行けば、いはゆる
○横川に出づ。横川は業平橋報恩寺橋長崎橋の下を経、総武鉄道汽車の発著所たる本所停車場の傍を過ぎ、北辻橋南にてかの隅田川と中川との連絡するところの竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の下を過ぎて小名木川に会し、扇橋その他の下を過ぎて十間川に会し、なほ南して木場に至る。されば源森川の一路はその関するところ甚だ少からざる重要の一路たり。他日市区改正の成らん暁には、この源森川と押上の六間川(あるいは十間川ともいふ)との間二町ほどの地は
○花川戸への渡場を過ぎ
○吾妻橋の下を経、左に中の郷、右に材木町を見て下れば、水漸く西岸に沿ふて深く東岸の方浅し。遊女の句に名高き
○駒形の駒形堂を右に見、駒形の渡船場を過ぎ、左には長屋
○
○須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。その北に入るものはいはゆる
○
○
○富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天
○百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの
○神田川なり。幅は
○柳橋の下を潜り、また浅草橋左衛門橋美倉橋等の下を経、豊島町にて一水の左より来るに会す。この一水は
○神田堀の余流にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
○柳原橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋、
○今川橋下を流るゝ神田堀にして、
○外濠は神田堀より入りて、右すれば神田橋一ツ橋
○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場に至つて尽く。外濠はこれに尽くるにはあらねども漕運の便は実に揚場に極まりて、これより以上は神田川の称もまた止む。
○江戸川は水道の余水にして流れ清く、水量もまた河身の小なるに比して潤沢なれども、小舟のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水
○稲荷河岸は小船への乗り場揚り場として古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん。橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、
○竪川といふ。竪川は一之橋二之橋竪川橋三之橋新辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木村亀戸村深川出村本所出村等の間を千葉街道に沿ひ、終に中川逆井橋下流に出づる一水路にして、甚だ重要なる一渠なり。
○天神川と十字をなして会するを以て、その交通往来し得る区域甚だ広く、従つて漕運の功をなすこと甚だ大なり。天神川は亀戸天神祠前に流るゝを以て名づけられたる一水にして、南は砂村より北は
○千歳の渡といふ。このあたり川は南東に向つて流れ、水は西岸の方深く、
○安宅の渡は、洲の下流、浜町と安宅との間にあり。渡船場の下数町にして
○新大橋あり。川はこゝに至つて
○
○小名木川とす。芭蕉の居を卜せしは即ちこの川の北岸にして、満潮の潮がしらに川角へさし来る水の勢に乗つて照り渡れる月に句を按じ、あるいは五本松あたり、一川の上下に同じ観月の友を思へるなど、皆こゝに居たるよりの風雅のすさびなりけんと想はる。
○万年橋はこの川の口に架れる橋にして、
○
○仙台堀といふはこれにして、あるいは十間川とも呼び、いよ/\東しては二十間川ともいふ。
○砂村川と称するものにして、砂村を過ぎて中川に至る。隅田川より中川に至るには小名木川あり竪川あれば、この小渠の如きは無用に似たれども、風潮の都合によりて時に舟夫の便とするところとなることあり。仙台堀と油堀とを連ぬる小渠は一条のみならず、また木場附近の大和橋及び鶴歩橋の架れる一渠その他の小渠は、一記するに
○中洲の渡船場あり。渡船場の下一町余にして
○油堀はこれにして、これもまた仙台堀と同じく木場に達するの渠なれば、二水共に材木船及び筏の多きは知るべきなり。深川側は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に達するの一水西北に入るあり、(既説)中洲の背後より箱崎と蠣殻町との間に存する一水あり、油堀と大川との会するところより下流に豊海橋の下を潜りて西北に入る一水あり。流に由りて溯れば、先づ
○豊海橋湊橋の下を経て
○鎧橋下に至る。鎧橋下の上流、思案橋親父橋下を過ぎて堀留に至る一支、
○日本橋下に至り、終に
○永代橋は隅田川の最下流に架れる橋にして、これより以下には橋あることなし。(後、相生橋成る。)橋下水深く流れ濶くして、遠く海上を望む風景おのづから浩大にして、大河の河口たるに
○三ッ叉の名はこれより起り、一は築地に沿ひて西南に流れ、一は越中島に沿ひて東南に流る。西南に流るゝは即ち本流にして
○本澪と呼ばる。本澪は水深くして大船海舶の来り泊するもの甚だ多し。永代橋より下流は川幅甚だ濶く、かつ上に説けるが如く分岐して二となるを以て、便宜上先づ西流東流の二つに分ちて記すべし。先づ西岸の方より記せば、永代橋より下流幾許ならずして西に入るの一小渠あり、三の橋二の橋一の橋の三ツの橋の下を過ぎて亀島橋下を流るゝ一水に会す。
○大川口の渡はこの小渠の下に当りて、深川と越前堀との間を連結す。渡船場より下、町余にして二水の北西より来るを見る。その右なるは高橋下の流れにして即ち亀島橋下より来るもの、その左なるは即ち
○京橋下の流れなり。京橋下の一流は御濠の鍛冶橋南より比丘尼橋紺屋橋を経て来り、京橋の東炭谷橋白魚橋の下に出で、こゝにて南は真福寺橋下より来る一水と会し、北は兜橋より弾正橋下を経来れる一水と会し、桜橋東にてまた南より来る小渠と会し、遂に中の橋稲荷橋下を過ぎてこゝに来れるなり。この流れより下流、本湊町船松町の間に一水あり。明石町居留地の間を南して新栄橋下の一水に通ず。船松町佃島の間には渡船場あり。明石町の南
○明石橋下の一流は、築地一丁目二丁目三丁目を
○南小田原町の南、海軍省用地の北、安芸橋の架れる一水は三の橋の下流にして、三の橋上流より南の方海軍省用地に沿ひて尾張橋下を過ぎ、浜離宮脇より澪に入るの水と通ず。
○浜離宮の北、離宮と海軍省用地との間の一水は前に説きたる如し。別に離宮の西、汐留町との間を流れて
○新橋蓬莱橋汐先橋の下を流るゝ水の末ともいふべし。
○三十間堀即ち真福寺橋の流れの続きにして、豊倉橋紀ノ国橋豊玉橋朝日橋三原橋木挽橋出雲橋等の下を流るゝ一水は、前の一水と新橋の下、蓬莱橋の上にて丁字形をなして相会す。新橋の渠は御濠に通ずるを以て土橋以西に至るべからざるにはあらねど、地勢高低懸隔するを以て土橋以西には船を通ぜず。汐留堀以南は品川に至るまでの間たゞ一の
○赤羽川あるのみ。赤羽川は渋谷橋の下流にして、遠く
○内川といひしはこれか。
佃島と月島との間、及び月島六丁目と七丁目との間に各小渠ありて、本澪の方と上総澪の方との間の往来の便とす。
東京諸溝渠の大概は上記の如し。たゞ
○下田川と称する名称のことを未だ説かざりしが、明治以前の雑書に時に下田川の名を記すものは、別に一水の流れをなすありて下田川と呼ぶところあるにはあらず、実に永代橋下流即ち隅田川本流の佃島近きところを指していへるのみ。
川渠の大概は既に記したれば、これより
○汐干狩の楽地として、春末夏初の風
底本:「一国の首都 他一篇」岩波文庫、岩波書店
1993(平成5)年5月17日第1刷発行
1999(平成11)年11月8日第2刷発行
底本の親本:「露伴全集 第二十九巻」岩波書店
1954(昭和29)年12月
入力:八巻美恵
校正:染川隆俊
2001年8月1日公開
2005年12月7日修正
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
『残されたる江戸』は、1911年〈明治44年〉5月に発表された。
東京生れの柴田が、明治に残る江戸情緒や江戸っ子気質について書き記したのもので、江戸川朝歌(竹久夢二の変名)による挿画が添えらる。国立国会図書館蔵版
ここでは、記された 59 の項目の中から「渡し船」を見てみる。
「残されたる江戸」
柴田流星
渡し船
「おッこちが出来てわたしが嫌になり」さて霊岸島から深川への永代橋が架って以来名物の渡し一つ隅田川にその数を減じたが、代りに新しく月島の渡し、かちどきの渡しなぞふえて、佃にも同じ渡しの行きかうを見るようになった。
しかし、隅田の渡しで古いのは浜町三丁目から向河岸への安宅の渡し、矢の倉と一ノ橋際間の千歳の渡し、須賀町から横網への御蔵の渡し、
この渡し、元は待乳の渡しといったものなのを、いつの頃からか竹屋という船宿の屋号がその通り名となり、百五十年来の名所に二つの呼び名を冠するに至ったのだ。
花の向島に人の出盛る頃は更にも言わず、春夏秋冬四時客の絶えぬのはこの竹屋の渡しで、花の眺めもここからが
されど趣あるは白髭の渡しもこれに譲らず、河鹿など聞こうとには汐入りの渡し最もよかろうと思う。
千住から荒川に入っては豊島のわたしを彼方へ王子に赴くもまた趣あり。船遊山とはことかわるが、趣味の江戸ッ児にはこの渡し船の乗りあいにも興がりて、永代から千住までの六大橋に近い所でも、態々まわり路して渡し船に志すが尠くない。
然ればこそ隅田川上下の流れを横切って十四の箇所を徂徠している数々の渡し船も、それぞれに乗る人の絶えないので船夫の
底本:「残されたる江戸」中公文庫、中央公論社
1990(平成2)年6月10日発行
底本の親本:「残されたる江戸」洛陽堂
1911(明治44)年5月
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2005年5月19日作成
2005年12月11日修正
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『大川の水』は、1914年〈大正3年〉4月に発表された短編小説。
芥川は、現在の東京都墨田区両国の大川(現在の隅田川)の近くで育ち、この小説の中で『自分はどうして、こうもあの川を愛するのか』と大川への愛を記す。
『自分の記憶に誤りがないならば、
大川の水
芥川龍之介
自分は、
自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、
銀灰色の
この三年間、自分は山の手の郊外に、
自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落すのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月の
大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、
この大川の水に
ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう。自分の記憶に誤りがないならば、
けれども、自分を
海の水は、たとえば
ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、
「すべての
底本:「羅生門・鼻・芋粥」角川文庫、角川書店
1950(昭和25)年10月20日初版発行
1985(昭和60)年11月10日改版38版発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月11日公開
2004年3月10日修正
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『
ここでは、「日和下駄」より「第六 水 附渡船」後段部分の、『都会の水に関して最後に
日和下駄
一名 東京散策記
永井荷風
第六 水 附渡船
都会の水に関して最後に
しかし渡場はいまだ
鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く
橋を渡る時
木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2009年12月3日作成
2012年4月5日修正
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『水のながれ』の初出は、昭和22年〈1947年〉頃と思われる。ここでの底本とした岩波文庫「荷風随筆集(上)」(1986年〈昭和61年〉刊)を編纂した野口冨士男によれば、作品は『発表順年に配列した』とあり、『水のながれ』の執筆年は記されないものの、その前に配列された作品が昭和22年12月とされることや、書き出しが『戦争後』と太平洋戦争の終戦後と思われることから推測した。
水のながれ
永井荷風
戦争後、市川の町はずれに
隅田川両岸の眺めがむかしとは全然変ってしまったのは、大正十二年九月震災の火で東京の市街が焼払われてから
わたくしはこれらの渡船の中で今戸の渡しを
今戸橋をわたると広い道路は二筋に分れ、一ツは吉野橋をわたって
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風隨筆 五」岩波書店
1982(昭和57)年3月17日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月8日作成
2019年12月12日修正
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『明治世相百話』は、1936年〈昭和11年〉に発表された。
ここでは、「明治世相百話」の中から「古風なりし渡し場風景」の項を見てみる。
竹屋の渡し、橋場の渡し、白鬚の渡し、山の宿、駒形の渡し、富士見の渡し、お蔵の渡し、中洲の渡し、清住の渡し、安宅の渡しなどが見られる。
山本笑月の本名は山本松之助で、明治-大正時代の新聞記者。退職後は江戸・明治文化を研究。長谷川如是閑(にょぜかん)の兄。
明治世相百話
山本笑月
古風なりし渡し場風景
上流には橋場の渡し、
これらの渡し賃が明治の中頃で大人八厘、小児五厘、人力車は一台一銭五厘、荷車八厘が通り相場、もっとも支流筋の小さい渡し、深川油堀の和倉の渡しなどは、五厘均一で不動さんの賽日などは船頭も大汗の繁昌。
川岸に粗末な番小屋、前の台板には二厘、文久などのバラ銭を竹にさして立て並べ、番人のおっさん、
さりながら雨降り風間は少々閉口、南や西が吹くと大川も波立って船は横揺れ、しぶきを浴びて時々はひやり、向う岸へ着いて「当るよウ」と船頭の一声。まず助かったとほっと息、こんな渡し場風景も、時代の波は乗っ切れず三十年代を限りとして追い追い昔の語り草、その中で築地から月島への
底本:「明治世相百話」中公文庫、中央公論新社
1983(昭和58)年7月10日初版発行
2005(平成17)年8月25日改版発行
底本の親本:「明治世相百話」第一書房
1936(昭和11)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「茶」と「筌」、「坪内逍遥」と「坪内逍遙」、「出版」と「出板」、「丸ノ内」と「丸の内」、「貫禄」と「貫録」、「常盤座」と「常磐座」、「田圃」と「田甫」、「独特」と「独得」、「注文」と「註文」、「大巾」と「大幅」、「葉巻型」と「葉巻形」、「群衆」と「群集」、「山の手」と「山ノ手」の混在は底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。親本も同じ場合はママ注記としました。
入力:小原田ひとみ
校正:みきた
2020年4月28日作成
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