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絵本江戸土産えほんえどみやげ・くずし字を読む
= 目黒 元不二 下道/同所 新富士 山上眺望/其二 爺々が茶屋 =

絵本江戸土産とは  
  • 絵本江戸土産えほんえどみやげ は、全 10 編、およそ 250 図からなる江戸の名所、名店、名物などを案内する絵本で、嘉永かえい 3年〈1850年〉(今から175年前)から、慶応けいおう 3年〈1867年〉(今から158年前)にかけて出版された。
  • 歌川広重うたがわひろしげ 初代と二代目が絵を描き、江戸後期の戯作者げさくしゃ松亭金水しょうていきんすい が説明を書いている。
    • 歌川広重初代:寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
    • 歌川広重二代:文政9年〈1826年〉- 明治2年9月17日〈1869年10月21日〉
    • 松亭金水:寛政9年〈1797年〉- 文久2年12月12日〈1863年1月31日〉
  • 初編から7編は初代広重が、初代広重没後に8~10編を二代広重が手がけたとされる。
  • ここでは、各図に書かれた説明を翻刻ほんこくし、さらに現代表記として新字体や現代仮名遣いなどにするなどした。翻刻では振り仮名を省いた。原文には句読点はないが適宜スペースを補った。
  • 現代表記では、適宜、漢字混じりとし、送り仮名の付加、句読点の追加などを行った。現代表記での振り仮名の表記はできる限り原文に従った。
  • 原図は国立国会図書館蔵。画像を明るくするために当サイト独自の色調補正を行った。
《絵本江戸土産・第七編目次》 
 全編目次
目次/奥山花屋舖百草の園 
浅草金龍山境内桜/奥山花屋舖 
首尾の松大川端椎の木屋舖 
請地秋葉権現境内 
堀切の里花菖蒲 
小村井梅園 
小梅の堤 
四ツ木通曳舟道 
新宿の渡し場 
千駄木団子坂花屋鋪/紫泉亭より東南眺望 
関口上水端芭蕉庵椿山 
麻布古川相模殿橋広尾之原 
目黒元不二下道/新富士山上眺望/爺々が茶屋 
目黒千代ケ池/同太鼓橋夕日の岡 
大井の原 
再出御殿山当時のさま 
品川洲崎弁天の祠芝浦眺望 
芝増上寺/芙蓉洲弁天社 
芝神明の社 
《目黒 元不二 下道》
《翻刻》
目黒 元不二 下道  江都に冨士と称するもの往々に造り築きて その数多くなりぬれど わきてこの所は自然の風景他に倍りたる勝地にて その道は三保ケ崎の容を模して 並松のむら立ちもまた物舊たり

《現代表記》
目黒めぐろ 元不二もとふじ 下道したみち   江都こうと冨士ふじしょうするもの往々おうおうつくきづきて、そのかずおおくなりぬれど、わきてこのところ自然しぜん風景ふうけい他にまさりたる勝地しょうちにて、そのみち三保ケ崎みほがさきさまうつして、並松なみまつのむらちもまた物旧ものふりたり。

*広重は、名所江戸百景     でも「目黒元不二」として同じ場所を描く。
*説明は、などの意。
*万治は、1658年から1661年。(万治元年は、今から367年前)。
漢字かな
*この地図の初期設定での中心点は目黒元富士付近。初期設定の左の地図は関東平野迅速測図と呼ばれる地図で、明治前期の、明治13年〈1880年〉から明治19年〈1886年〉にかけての関東平野。
《同所 新富士 山上眺望》
《翻刻》
同所 新富士 山上眺望  前図の少し傍に 新富士と称うれども何時築立しものやらん その年月も詳にせず 俚俗に新という名は負すれど 樹木のありさま 芝生の貌宛近きものにはあらず 四時の差別はなきものながら この山上より眺望すれば 秋は殊さら眼下の諸木々 或いは紅 あるいは黃に染なしたる霜葉の機ばり広き錦のごとし

《現代表記》
同所 新富士しんふじ 山上眺望さんじょうちょうぼう   前図ぜんずすこかたわらに、新富士しんふじとなうれども何時いつつきたてしものやらん、その年月としつきつまびらかにせず。俚俗りぞくしんという名はおわすれど、樹木じゅもくのありさま、芝生しばふかたちさながら近きものにはあらず。四時しいじ差別けじめはなきものながら、この山上より眺望ちょうぼうすれば、秋はことさら眼下がんか諸木々もろきぎあるいはくれない、あるいはそめなしたる霜葉そうようはたばりひろにしきのごとし。

*四時(しじ・しいじ)は、四季のこと。
はた ばりは、機織用の伸子しんし 。転じて、はば。幅員のこと。端張りとも。(広辞苑)
*広重は、名所江戸百景     でも「目黒新富士」として同じ場所を描く。
*説明は、などの意。
*万治は、1658年から1661年。(万治元年は、今から367年前)。
漢字かな
*この地図の初期設定での中心点は目黒新富士付近。初期設定の左の地図は関東平野迅速測図と呼ばれる地図で、明治前期の、明治13年〈1880年〉から明治19年〈1886年〉にかけての関東平野。
《其二 爺々が茶屋》
《翻刻》
同其二 爺々が茶屋  むかし、寛永の頃かとよ 大樹 この野辺に放鷹ありて ここに立よらせ給うといふ その頃 老人夫婦あり これを歓待し奉る 因て 爺々が茶屋とよぶ されば今 老夫ならぬも爺ゝという名を負したる いとも殊勝の舊跡なり

《現代表記》
同其二 爺々が茶屋じじがちゃや   むかし、寛永かんえいの頃かとよ。大樹たいじゅ、この野辺のべ放鷹ほうようありて、ここにたちよらせ給うという。その頃、老人夫婦ろうじんふうふあり。これを歓待もてなたてまつる。って、爺々が茶屋とよぶ。さればいま老夫ろうふならぬも爺ゝじじという名をおわしたる。いとも殊勝しゅしょう旧跡きゅうせきなり。

*ここでの大樹たいじゅ は将軍のこと。中国故事の大樹将軍から将軍の異称。
放鷹ほうようは、鷹狩たかが りをすること。
寛永かんえいは、1624年から1645年。(寛永元年は、今から401年前)。
*説明は、などの意。
*万治は、1658年から1661年。(万治元年は、今から367年前)。
漢字かな
*広重は、名所江戸百景     でも「目黒爺々が茶屋」として同じ場所を描く。
*この地図の初期設定での中心点は目黒爺々が茶屋付近。初期設定の左の地図は関東平野迅速測図と呼ばれる地図で、明治前期の、明治13年〈1880年〉から明治19年〈1886年〉にかけての関東平野。
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Last updated : 2024/06/29