市川團十郎
明治16年・1883年刊『歌舞伎十八番 市川団十郞お家狂言 下』久保田彦作編より
拙者親方と申はお
立合の
内に
先達て
御存知のおかた/″\もござりませうお江戸を
立て二十
里上がた
相州小田原いつしき町をおすぎ被成靑物町を左りへお出でなさればらんかんばし
虎屋藤右衛門只今はていはつ致しゑんさいと名のります
元朝より大つごもり
迄お
手にいれまする此くすりは
昔ちんの
国の
唐人ういらうと申もの
我朝へ
來り
帝へさんだいのをりから此
藥を
深くひめおき
用ゆる
時には一
粒づゝかむりのすきまよりとりいだすよつて
其名をみかどよりとう
珍香と賜はる
即文字にはゐたゞきにすく
匂ひと
書てとうちんかうと申す
只今此藥ことの
外世上にひろまり
方/″\に
似せかんばんを
出しイヤ小田わらのはいだわらのさんだわらの
炭だわらのといろ/\申せ供
平がなをもつてういらうとしるせしは
親方ゑんさいばかりもしやお
立合の
内にあたみかたうの
澤へとうじにお
出なさるゝか
又は
伊勢へ御
參宮の
折からは
必ず御
立寄おもとめくださりませふお
登なれば
右りがはお
下りならば
左のかたはつほうが八ッむねおもてが三ッむねぎよくとうづくりはふには
菊桐の御
紋御しやめんあつてけいづたゞしい
藥でござるイヤさいぜんより
家名のじさんばかり申ても御ぞんじのない
方にはしやうじんのこせうのまるのみしら
川夜船さらば
一粒たべかけてそのきみやいをお
目にかけませう
先此藥をかよふに
一粒したの
上にのせましてふくないへおさめまするとイヤどふもいへぬはいかんはいかんがすこやかになつてくうふうのんどよりきたり
口ちうびりやうをせうずるがごとし
魚鳥木のこめんるいのくいあわせ其
外万病そくこうあること
神のごとし
扨此
藥第一の
奇妙にはしたのまわる事がぜにごまがはだしでにげるひよつとしたがまはり
出すとやもたてもたまらぬじやそりや/\/\/\/\まはつて來たはまわつてくるは
あはやのどさたらなしたにかげさしおんはまの二ッはくちびるのきやうじうかいごうさはやかにあかさたなはまやらわおこそとのほもよろおいつへきへぎにへぎほしはしがみぼんまめぼんごめぼんごぼうつみたてつみまめつみざんしよしよしやさんのしやそうぜうこゞめのなまがみ/\こんこゞめのこなまがみしゆすひじゆすひちしゆちん
親も
嘉兵衛子も
嘉兵衛おやかへ子かへ子かへ
親かへおやかへ子かへふるくりの木のふるきり口あまがつぱかばん
合羽かきさまのきやはんもかわきやはんわれらかきやはんもかわきやはんしつかはばかまのしつほころびを三
升はりながにちやとぬてぬてちやとぶんだせかわらなてしこのぜきちくのらによらい/\みのらによらいにむのらによ
一寸のおこぼとけにおけつまづきやるなほそみぞにどぢよによろり
京の
生鱈なら
生なま
鰹ちよと
四五萬貫めお
茶たちよちやたちよちやつとたちよちやたちよ
靑竹ちやせんでお茶ちやとたちやくるは/\何がくる
高野の
山のおこけらこぞう
狸百疋箸百膳天目百
杯棒八百
本武具馬具/\三ぶぐばぐ
合せてぶぐばぐ六ぶくばぐきくきり/\三
菊きりあわせてきくきりむきくきりむきごみ/\みむきごみ合てむきごみ六むきごみあのなげしの
長なぎ
刀はたがなが
長刀ぞ向ふのごまがらはゑごまがらかまごまからかあれこそほんのまごまがら/\ひい/\
風車おきやがりこぼし/\ゆんべもこぼして又こぼしたたゝたゝたぷぽゝちりから/\つッたつぽたぽ/\ひだこおちたらにてくをにてもやいてもくはれぬものはごとくてつきうかなへまどうじにいしくまいしもちとらくまとらぎす
中にも
東寺のらせう
門にはいばらきどうじがうでくりこんごうつかんておむしやるかの
頼光のひざもとさらずふなきんかんしいたけさだめてごだんなそば切そうめんうどんかぐどんなこゝな子しぼちこだなのこしたのこをけにこみそがこあらずこじやくしこもつてこすくてこよこせおつとがてんじやこゝろへたんぼの
川さきかな川程がや
戸塚ははしつて
行ばやいとをすりむくさんりばかりか
藤澤ひらつか
大いそがしや小いその
宿を七ッ
起して
早天そう
朝相しう小田わらとうちん
香かくれござらぬ
貴賤群衆の花のお江戸の花ういらうあれあの花を見てお心がお
和らぎやつといふうぶこほう子に至る迄此ういらうの
御評判御
存ないとは申されまい/\つぶり
角だせ
棒だせぼう/\まいに
薄ぎぬすりばちばち/\/\くわら/\/\とはめをはづしてゑひとう/\
今日お
出の
何も
様へ上ねばならぬ
賣らねばならぬと
息せいひつぱりとうぼうせかいの藥のもとじめやくし
如來もせうらんあれとホヽうやまつて申