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 原民喜「夏の花」  
 永井隆「長崎の鐘  
 原民喜「長崎の鐘」  

長崎の鐘
= 永井ながい たかし =

 永井ながい たかし (1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を残して』などの著書がある。
 この『長崎の鐘』は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井隆が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。  
原 民喜「長崎の鐘」を読む  
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長崎の鐘


永井隆


その直前


 昭和二十年八月九日の太陽が、いつものとおり平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。川沿いの平地を埋める各種兵器工場の煙突は白煙を吐き、街道をはさむ商店街のいらかは紫の浪とつらなり、丘の住宅地は家族のまどいを知らす朝餉あさげの煙を上げ、山腹の段々畑はよく茂った藷の上に露をかがやかせている。東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔ざんげしていた。
 長崎医科大学は今日も八時からきちんと講義を始めた。国民義勇軍の命令の、かつ戦いかつ学ぶという方針のもとに、どの学級も研究室も病舎も、それぞれ専門の任務をもった医療救護隊に改編され、防空服に身を固め、救護材料を腰につけた職員、学徒が、講義に、研究に、治療に従事しているのだった。いざという時にはすぐさま配置について空襲傷者の収容に当たることになっており、事実これまで何回もそうした経験がある。ことに、つい一週間まえ大学が被爆した時など、学生には三名の即死、十数名の負傷者を出したけれども、学生、看護婦の勇敢な活動によって、入院・外来患者には一人の犠牲者も出さなかったほどである。この大学はもういくさになれていた。
 警戒警報が鳴りわたった。病院の大廊下へ講堂から学生の群が流れだし、幾組かのかたまりになってそれぞれの持ち場へ散っていった。本部伝令がいちはやくメガホンで情報を叫びながら廊下を走り去った。相変わらず今日も南九州に大規模な空襲があるらしい。引きつづいて空襲警報が鳴りだした。空を仰ぐと澄みきった朝空にちかちか目を射る高層雲が光り、どうやら敵機の来そうな気配がする。目に見えぬ音波がうす気味わるく、あとからあとからあちこちのサイレンがうなり出す。もうわかってるよ、そんな不吉な音はもう真っ平だと耳を押さえたくなるまで、うなっては休み、うなっては休む。これは少なくとも勇気を振るいおこす音ではない。
 さるすべりの花が真っ赤だ。夾竹桃の花も真っ赤だ。カンナはまったく血の色だ。病院の玄関を待機所にさだめられている担架隊の医専一年生たちが、この赤い花の陰の防空壕にひそんで、いざという時を待ちかまえている。
「一体全体、戦況はどうなんだろう」鹿児島中学から来たのがいう。
「俺が同級生もずいぶんたくさん予科練でいっとるばって」
「友軍機はどないしとるんやろ」大阪弁が壕のなかから聞こえる。「つまらへんな。こんなこっちゃ、なんぼう頑張ってもあかんで」
 誰も返事をしない。この大阪の考えていることにうすうす気づいていないでもないのだが、しかし祖国日本は今生死の関頭に立っているのではないか。戦争は勝つために始めたにちがいない。まさか負けるつもりで、政府がこんな悲劇の幕を開けたのではなかろう。しかし、サイパン失陥いらい大本営発表の用語に、なにか臭い陰影を帯びていることが、敏感な学生にいつとはなく、ある不安を起こさせていたのは事実である。
「おい、級長、どう思う。この戦争はどうなる」大阪弁の男が壕のせまい口から赤い顔をだした。ロイド眼鏡をかけている。なるほどこれは蛸壷だ。
 級長藤本はさっきから青桐の下に腕組みをしたまま突っ立って、じいっと空をにらみつづけていた。小柄ながら肝のすわった男で、鉄兜から黒巻脚絆のきりりとしまった脚の先まで隙もない厳重な身固め、これまで何回となく血の中から負傷者を担ぎだした体験は、よく級友の輿望をあつめて、この小男が先頭きって飛びこむ煙の中へ、級友は一つの玉になって突っ込んだものだった。おやじの望遠鏡を持ちだして腰につけている。敵機が頭上に来るとそれをおもむろに取りだし、首をぐるぐる回しながら、敵機の行動を報告するのが、この男の趣味である。
「級長、どうなるんやろ、戦争は」大阪がしつこく繰り返した。
「戦争をどうするか――だ」藤本が押さえつけるようにいった。「戦争によって僕たちの運命が決められるんじゃない。僕たちによって戦争の運命が決められるんだ。僕たち相戦う若い者、アメリカの学生と日本の学生との力比べによって、勝利がどちらへ転ぶかが、決まるんだ」
「でもなあ、あんまりやないか、近ごろのざまは。物量の差がひどすぎるさかい、僕らのちっぽけな努力なんざあ、屁にもならん」
「そりゃそうかもしれんたい。しかしだ。とにかく今この下の町へ爆弾が落ちたら、理屈も議論もなか。すぐ飛びだしていって、血止めをせにゃならん。僕は最後まで僕の本分を尽くすばい」藤本が決然といい放った。大阪は納得しなかった。そこへ大きな角材をかついで副級長がやって来た。副級長は小倉中学出身で黙々と仕事をする男、今も監視壕の補強工事のため独りで汗を流しているのだった。
「敵がほんまにここへ上陸して来よったら、どないするん、おい、副級長」
「死生命あり」小倉の男は腰から扇子をとって汗をあおぐ。「生きるも死するも、人に笑われんごと」
 ひっそりとなった。さるすべりも夾竹桃もカンナもよどんだ血のように動かない。その中を脈打つような蝉の声が向こうの山王神社の大楠から流れてくる。
 この日は防空当番教官にあたっていた私が、病院の玄関から入って大廊下を裏門まで見回る。どの病室の入口にも甲斐甲斐しく服装をととのえた看護婦、学生が身構えしている。
 バケツは水でいっぱいだ。水道ホースも延びている。火叩き、鳶口とびぐち、スコップ、くわ、いざといえば焼夷弾ぐらいはとばかり揃っている。入院患者は防空壕の中へ静かに運ばれてゆく。ラジウム室の前で医専三年の上野君にあう。この男はなかなか勇敢だ。この間の空襲で、婦人科から発火した時は隣の皮膚科の屋上に独りいて、監視の重任を果たしたのだった。私らが婦人科の炎にバケツをもって駆けつけた時、まだ敵機は続いて急降下爆撃をしていたが、上野はその弾の落ちてくる中で「おーい、敵機頭上通過、大丈夫、出て来い、燃えよっぞ」とか、「また来たぞ、落としたぞ、退避、危ないぞ」とか、いちいち叫んで、指導した。
「がんばれよ」と、私は礼を返しながらいった。上野は、はにかんで頭をかいた。
「このあいだは、お袋から叱られましたたい。人様の目につくことをしてよか気になるもんじゃなか。もう子供じゃなかけん……、と」
 裏門には手押しポンプ隊がたむろしていた。すべては、焼夷弾と爆弾とに対してはまずまず大丈夫であった。私は満足して、こんどは病棟の東側を通ってみた。このあいだの爆弾にやられた外科、婦人科、耳鼻科のあとは、人の体の怪我よりもむごたらしかった。その傍らには、ここにもまた夾竹桃が血の色に咲いていて、ひっそりと石炭酸が匂っている。私はふっと不吉な予感を覚えた。
 警報解除のサイレンが、身体じゅうの疑いを解いてくれるためのように鳴りわたった。教室へ帰ってくると、皆ががやがやいいながら鉄兜の紐をほどくところであった。情報係の井上看護婦が、くりっとした眼をなおさらくるくるさせて、ちょっと小首を傾けながら「九州管内敵機なし」とラジオのいったとおりを報告した。赤らんだ頬に軽く汗が浮いて、髪の毛が三すじくっついている。
「ただちに授業始め!」本部伝令が、また叫んで通った。学生はそれぞれ教室に入り、大学は再びひっそりした真理探究の象牙の塔となった。病院の臨床学科のほうは患者が受付に押しよせて、予診をとる学生の白衣がその間を縫うて動いている。私の教室と廊下を隔てた向かい側の内科では、学長角尾教授の臨床講義の快い口調が扉からもれてきている。
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原子爆弾


 地本さんは川平岳で草を刈っていた。ここからは浦上が西南三キロのやや斜め下に見おろされる。浦上の美しい町と丘の上に、真夏の太陽はこともなげに輝いている。地本さんは突然妙な微かな爆音を耳に聞きとめた。鎌をもったまま腰をのばして上を仰いだ。空は大体晴れていたが、ちょうど頭の上には手のひら形をした大きい雲がひとつ浮いている。爆音はその雲の上だ。しばらく見ていると出た。B29だ。手のひら雲の中指にあたるその突端から、ポツリ銀色に光る小さな機影、高度八千メートルくらいかなあと思って見ていたら、あっ落とした。黒い一つの細長いもの。爆弾、爆弾、地本さんはそのままそこへひれ伏した。五秒、十秒、二十秒、一分、時間は息をつめているうちに、だいぶん経過した。
 ぴかり、いきなり光った。大した明るさだった。音は何もしない。地本さんはこわごわ首をもたげた。やった。浦上だ。浦上の天主堂の上あたりに、つい今までなかった大きな白煙の塊が浮かんでいて、それがぐんぐん膨張する。それにもまして地本さんが肝をつぶしたことには、その白煙の下の浦上の丘を山原をこちらへ向けて猛烈な勢いで寄せてくる一つの浪があるのだ。丘の上の家といわず、ありとあらゆるものを将棋倒しに押し倒し、粉砕し、吹き飛ばしつつ、あ、あ、あっという間に、はや目の前の小山の上の林をなぎ倒し、この川平岳の山腹を駆け上がってくる。これはなんだ。まるで目にみえぬ大きなローラーが地ならしをしてころがって来るとしか思われない。今度こそは潰されると地本さんは両手を合わせ、神様神様と祈りながら、またも地面に顔を押しつけた。ががが――とすさまじい響きに耳が鳴ったのと、ひれ伏したままの恰好でふわりと吹き飛ばされたのとが同時だった。五メートルばかり離れた畑の石垣にいやというほど叩きつけられ、地本さんは目をあけて見回した。あたりの立木がみんな目通りの高さからぽきぽき折り倒され、木といわず草といわず、葉はみんなどこへ消えたのやら――さむざむと松脂まつやにが匂うばかり。
 古江さんは道ノ尾から浦上へ帰る途であった。ちょうど兵器工場の前を自転車で走っているとき、妙な爆音を聞いたような気がした。ひょいと頭をあげたら、松山町の上あたり、大体稲佐山の高さぐらいの青空に、一点の赤い火の玉を見た。目を射るほどの光輝はなく、ストロンチウムを大きな提灯の中で燃やしているような真っ赤な火の玉だった。それがすーっと地面に近づく。なんだろうと眼鏡に片手をかけて見直す瞬間、すぐ目の前にマグネシウムを爆発させたと思われるばかりの閃光が起こり、身体が宙に浮いた。……水田の中に、これもまた吹き飛ばされた自転車の下敷きとなっている自分に古江さんが気づいたのは、何時間か後であり、一方の目はすっかり盲目になっているのを知った。

 浦上から七キロ離れた小ヶ倉国民学校の職員室で、田川先生は防空日誌に今朝の警報記事を書きこんでいたが、ちょっと顔をあげて窓の外へ目を休めた。目の前に小さな山裾があって、その上に長崎港の空が青かった。その青空が瞬間さっと輝いたのである。その光は鋭く眼を射た。真夏の真昼間の太陽の明るさがその次の瞬間にひどく暗いものに感じられたのだったから、この光度は太陽の何倍かであったにちがいない。昼間に照明弾とはこれいかにとつぶやいて田川先生は腰を浮かしたが、突然異様な物を認めた。「あれ、あれ、あれ、なんだろう」田川先生の叫びに職員室じゅうの先生がたは窓へ走り寄った。長崎の浦上あたりの上空に一点の白雲があらわれ、それが横のほうへも上のほうへも、ものすごい勢いでむくむくむくむくと膨張してゆくではないか。「なんだ、なんだ」と騒いでいるうちに直径一キロ以上のふくれた饅頭ができた。そのとき、だあーんと爆風が到達し、職員室は震駭しんがいし、皆はばらばらと硝子片を引きかむった。
「爆弾投下、校舎に命中、退避」田川先生はこう叫んで、そのまま裏山の防空壕へ飛びこんでしまった。そして、ちょうどこの時刻に浦上の自宅では、妻と子供たちが自分の名を呼びながら息絶えつつあることを神ならぬ身の知る由もなく、田川先生は、ぽつねんと冷たい土の中に座っていた。

 大山という地区は長崎港の南、八郎岳の山腹にあって、浦上から八キロ離れている。ここから望むと、浦上の盆地は長崎港のさらに向こうにうっすら霞んで見える。加藤君は牛をつれて草原に出ていた。ぴかりを見たのは、緑の中に草苺の光るのを見つけて一つ二つ頬ばったところだった。びっくりして牛も首をあげた。浦上の空に白い、濃い濃い綿のような雲が生まれ、ぐいぐいと大きくなる。その色はちょうど提灯ちょうちんを綿につつんだようで、外のほうは白かったが、中には燃える赤い火を含んでいた。その白い雲の中には、その他にちかちかちかちかと、美しい放電がひっきりなしに起こっていた。その小さな稲妻の色は赤や黄や紫やさまざまの美しさだった。この新しい雲は饅頭形になり、やがてそのまま上へ上へと昇って、松茸みたいな形になった。そのころ、今度はその白雲の真下の浦上の谷一面から黒い土煙がむくむくと吸い上げられて昇った。上の松茸雲は高く高く青空高く上り、その上で崩れて東に向かって流れ始めた。下の土煙も山より高く上って、その一部は下へまた散り落ち始め、一部は東のほうへ流れた。どこもよく晴れて太陽の光は山と海とを照らしていたが、この雲の真下の浦上だけは大きな雲の陰となり、真っ黒に見えた。やがて、どん! ととどろいて、着物があおられ、木の葉が吹き飛ばされたが、爆風もここまで来るとよほど弱くなっていて、牛があばれだすほどではなかった。しかし加藤君もまた、もう一発の爆弾がすぐ近くに落ちたにちがいないと思った。

 高見さんは牛をひいて木場へ帰ろうと浦上から二キロの踊瀬の道を歩いていて、「ぴか」にやられたのであった。ぴかと光った時に、火鉢にあたるほどの熱さを感じたのだったが、牛も自分も熱傷を受けた。そのあとへ、しゅうとうなって火の玉の雨が降ってきた。その一つは足にあたった。そこで白煙をあげて消えたが、パラフィン蝋燭ろうそくを吹き消した後のような匂いがした。この火の玉であちらこちらに火事が起こった。
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爆撃直後の情景


 大学は爆弾破裂点から三百メートルないし七百メートルの範囲に建物を並べていた。まず爆心圏内にあるとみてよい。基礎医学教室は、爆弾にも近かったし、木造だったから瞬間に押し潰され、吹き飛ばされ、燃やされて、教授も学生も皆死んだ。臨床医学教室のほうは、少し遠かったのとコンクリート建だったために、運よく生き残った者もいくらかはいた。
 時計は十一時を少し過ぎていた。病院本館外来診察室の二階の自分の室で、私は学生の外来患者診察の指導をすべく、レントゲン・フィルムをより分けていた。目の前がぴかっと閃いた。まったく青天のへきれきであった。爆弾が玄関に落ちた! 私はすぐ伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙に吹き飛ばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされていった。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかかる。切られるわいと見ているうちに、ちゃりちゃりと右半身が切られてしまった。右の眼の上と耳あたりが特別大傷らしく、生温かい血が噴いてはくびへ流れ伝わる。痛くはない。目に見えぬ大きな拳骨が室中を暴れ回る。寝台も、椅子も、戸棚も、鉄兜も、靴も服もなにもかも叩き壊され、投げ飛ばされ、掻き回され、がらがらと音をたてて、床に転がされている私の身体の上に積み重なってくる。埃っぽい風がいきなり鼻の奥へ突っ込んできて、息がつまる。私は目をかっと見開いて、やはり窓を見ていた。外はみるみるうす暗くなってゆく。ぞうぞうと潮鳴のごとく、ごうごうと嵐のごとく空気はいちめんに騒ぎ回り、板切れ、着物、トタン屋根、いろんな物が灰色の空中をぐるぐる舞っている。あたりはやがてひんやりと野分のわきふく秋の末のように、不思議な索莫さに閉ざされてきた。これはただごとではないらしい。
 私は爆弾、少なくとも一トンくらいの大型が病院の玄関付近に落ちたと、さらに判断を新たにした。怪我人は約百名だ。これをどこへ送って、どう処置するか、とにかく教室員を集めなければならぬ。その教室員もおそらく半数はやられているだろう。とにかくこの埋没から脱け出さねばと、膝を動かし、腰を突っ張って苦心しているうち、すうと暗くなって、両眼ともすっかり見えなくなってしまったのである。これには弱った。はじめは眼のあたりに怪我しているのだから、眼底付近に出血でもしたのかなと思ったが、目玉を動かしてみると動く。眼が見えなくなったのではないと決まったら、はじめて慄然りつぜんとした。すっかりこの建物が倒壊して生き埋めになったにちがいない。生き埋めとはまた張り合いのない、だらしない死に方を与えられたものだ。とにかくできるだけやってみようと、物の破片の底でごそりもそりと命がけのもがきを続ける。しかし、せんべい焼きにはさまれたせんべいのように、かくもびっしゃり圧しひしゃがれていると、身体のどこを支点にどう動こうかと考えることもできない。顔もうっかり動かされない、そこら一面硝子破片のペーパーだ。その上真っ暗闇で、自分の上にどんな物がどんなふうに平衡を保って乗っているのやらわからない。ちょっと右肩を動かしたら、なんだか知らぬが、がらがらと崩れ落ちた。私は「おーい、おーい」と呼んでみた。その声は、まったくわれながら情けない響きを闇の中へ伝えていった。
 隣のレントゲン撮影室には橋本看護婦がいた。運よく図書棚の間にいたので、かすり傷ひとつ負わなかった。万物が魔法によって生物となったかのように、がらがらとものすごく跳ね回る恐ろしい時間は、壁によりそってじっと隠れているうちに、十秒二十秒と経過して、あたり一面埃と土煙とが咽喉をふさぐほどに立ちこめてはいたが、大きな品物は大体また床の上か地の上へ落ちついたらしかった。橋本君はさて救護だと崩れた図書棚の裏からはいだして、あっとたまげてしまった。なにもかも滅茶苦茶だ。がらくたを踏み越え窓から顔を出してみて、さらにどきっと胸を衝かれた。これは一体どうしたというのだ。つい今の今先まで、この窓の下に紫の浪と連なっていた坂本町、岩川町、浜口町はどこへ消えたのか? 白く輝く煙をあげていた工場はないではないか? あの湧き上がる青葉に埋まっていた稲佐山は赤ちゃけた岩山と変わっているではないか? 夏の緑という緑は木の葉、草の葉一枚残らず姿を消しているではないか? ああ地球は裸になってしまった!
 玄関車寄せに群がっていた人々は? と見おろす広場は、所狭いまでに大小の植木がなぎ倒され、それにまざって幾人とも数えきれぬ裸形の死人。橋本君は思わず両手で目をおおった。地獄だ、地獄だ。呻き声ひとつたてるものもなく、まったく死後の世界である。目を押さえているうちにすっかり暗くなってしまった。目をあけて首を回してみるけれども、物音ひとつせず、糸ひとすじも見えぬ真の闇。この世の中にただひとり生き残ったと思ったとたん、背筋がずーんとして足がすくんでしまった。死神の爪はやがて私の頸筋をつかまえるだろう。ふるさとの家がぼうと見えた。母の顔が見えた。橋本君はわっと声をあげて泣きだそうとした。まだ十七歳の女の子だった。と、その時「おーい、おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。すぐ近くの足もとらしくもあり、何枚か壁を隔てた向こうらしくもある。「おーい、おーい」また叫んだ。部長先生の声だ。部長先生が生きている。先生と二人生き残っているのなら、あれだけの玄関の死人の処置もやれるにちがいない。橋本君はたちまち、べそをかく小娘から勇敢な看護婦にたちかえった。そうして声をたよりに隣の室へ行こうとすると、レントゲン撮影台らしい物やら電流コードやら、闇の中のゆくてを阻んで足を運ぶことができない。スコップを置いてあった隅へ手さぐりで行ってみると、どこへ飛ばされたのかなくなっていて、その代わりにメガホンが手に触れた。階下の透視室には鍬もあり、婦長さんたちもいるのを思い出し、これはみんなの加勢を受けるほうがよいと判断して、撮影室を出て行った。毎晩灯火管制で歩きなれた廊下ではあったが、二、三歩行くと、ぐにゃりとしたものにつまずいた。しゃがんで撫でてみると人間。べっとりと血らしいものが手のひらについた。腕を伝わって手首を握ってみると、脈はない。かわいそうに、橋本君は合掌をして、そこからまた二、三歩行くと、またも倒れている人につまづいた。髪がぬらりと手首にねばりつく。まだあたりは真っ暗だ。この闇の、私のまわりに一体何人死んでいるのだろう。橋本君は脈をさぐりながら見えぬ目を開いて、あたりを見回した。
 突然ぽうと赤くなった。窓の外で火が燃えだしたのだった。ちろちろと炎は次第に大きくなる。そのうす赤い火に照らしだされた目の前の光景は! 橋本君は思わず死人の脈を手放して突っ立った。広い病院の廊下に赤い逆光線を受けて、転がっている人の肉体。うつ伏し、横ざま、あおむけ、膝をまげているのもあり、虚空をつかんでいるのもあり、立とうともがいているのもある。橋本君はこれは独力では手がつかぬ。まず救護隊が集まり、組織的な団体活動でなければだめだと悟った。それではとにかく皆を部長先生の埋まっている所へ集めよう。ご免ね、ご免ね、とことわりをいいながら死人をとび越えて、階段を透視室へと下っていった。

 透視室の連中はレントゲン透視台を組み立てている最中だった。びゅうんと奇妙に甲高い爆音を聞いた。看護婦生徒の椿山が「あれ、なんでしょう?」という。「ありゃB29の爆音たい」せっせとペンチを動かしながら技手の史郎がいう。「爆弾落としたぜ」このあいだの爆撃で腿をやられた経験のある長老技手がいう。「かくれようか」「うん」「婦長さん、退避、退避」三人は大きな卓の下へもぐりこんだ。ぴかっ、どん! と来た。「また落ちたばい」史郎の声もがちゃがちゃ室中を暴れ回る爆風にもみ消されてしまう。みんなじっと鎮まるのを待った。椿山が呼吸をしない。「おい、やられたかい?」「いや、あなたは?」「どこも痛くねえ」「おーい、婦長さあん!」大声で呼んでみる。「はーい」とすぐ隣の部屋からいつものとおり愛嬌のいい返事が返ってきた。「ちょっと待ってくださいよ。何やかや私の上に乗っかってるんですもの」
 そのうちに汽車がトンネルにはいる時のように、あたりはごうごううなっていながら、真っ暗になってしまった。向かい合っている椿山の白い顔がたちまちなくなった。
「これは一体なんだい?」長老の声。
「新型爆弾だぞ、例の広島の」史郎の声。
「いや、太陽が爆発したんじゃないかな」長老。
「うん、そうかもしれん。急に気温が下がったごたる」史郎が考え考えいう。
「太陽が爆発したら、世界はどうなります?」
 椿山看護婦がおろおろ声で尋ねた。
「地球も終わりさ」長老がぼっさり答えた。みんな黙って待っているが、やっぱり明るくならない。一分たった。闇の中で時計の秒を刻む音が印象深い。
「それで、ひるめしはどうする?」史郎。
「さっき食っちまったさ。お前持っとるか?」
 長老がこの世の名残りに一口食いたそうにいう。
「うん、死なぬうちに分けて食おうや」
 すると汽車がトンネルを出る時のように、あたりが静かになりながらすうと明るくなって、長老の白い歯が見え、史郎の長い鼻が見え、椿山のちっちゃいえくぼも見えてきて、「ああ、太陽は大丈夫だったんだなあ」と史郎がいい、「しかし昼飯は分けておくれよ」と長老がいって、三人は窮屈な卓の下から、硝子の粉、機械の断片、椅子の残骸、電線の網の中へはいだしてきた。
「いったいどこへ落ちたんだろう? これだけ壊すにはこの室に命中しなきゃならんはずだが、天井に孔もあいとらん」
「爆弾の落下音を聞いたかい?」
「いや聞かなかった」
「それじゃ……空中爆雷かしら?」
「とにかく、すごいやつだぜ、こいつは」
 そこへ隣の室から久松婦長さんが手まりみたいな姿をあらわした。乱れた髪の毛を両手で撫でつけながら「みんな大丈夫?」と聞いた。その後から看護婦生徒の一年生が飛び出して、婦長の腰にしがみついて泣き始めた。
「お馬鹿さんだね、あんた。生きとるじゃないの」
 一年生がしゃくりあげた。友だちが、すぐそばで死んだらしい。
「さあさ、防空頭巾をかむって、繃帯袋を捜していらっしゃい」
 久松婦長さんは、しゅうしゅうと水を噴いている水道管の所へ行って両手を丁寧に洗い、顔を洗い、うがいをした。「なんだかガスを吸ったような気がする」といい、肺の奥まで洗いたいような勢いで、四回も五回もうがいをした。
「椿山さんも来て手を洗いなさいよ。そんな土だらけの汚い手でガーゼを扱ったら、傷がすぐ化膿します。友清さん、あんたも顔と手を洗いなさい。施さん、さっさと用意をしてくださいね。負傷者はだいぶん多いようです」婦長さんが手を拭き拭きいった。
 友清史郎君は「はあ」と答え、施長老は「おい」と答えて、すぐに準備にとりかかった。
 ぱちぱち音が聞こえる。窓際へとんでいった椿山君が「火事です、火事です」と叫んだ。五人はそこに転がっていたバケツを拾うなり水槽へ我おくれじと駆けだした。旧レントゲン教室の疎開跡のまだ材木を片づけていない広場は、まだ炎のたけは低いけれども一面火の海である。五人はかねて防空演習でやりつけたとおり、一方の隅からバケツの水をぶっかけ始めた。しかし火の手はここばかりではなかった。病院の廊下はすっかり吹きとんで跡形もなく、食堂も潰れて一面に火を噴いている。残っているのはぽつんぽつんとコンクリートの病棟ばかり。木造の建物はすべてなくなって、その代わりに炎がたっている。しばらく水をかけていたが、消える面積よりは燃えひろがるほうが速い。とてもバケツ注水では間にあわぬという見通しがついた。
「機械を取り出そう」史郎がいった。
「負傷者の手当てをしよう」と長老がいう。
「入院患者を避難させましょう」と椿山がいう。
 炎はみるみる黒煙をあげて大火になる勢いを見せる。
「部長先生の指揮を受けましょう」と久松婦長がいった。
 そこへ橋本君があらわれた。
「部長先生が生き埋め」皆顔をみ合わせる。
「まあ、あんげん太かとば、どんげんするえ?」と小さい椿山がもらした。
「大丈夫、よかよか」
 長老がそういいざま走りだした。橋本のあとから五人は木を越え机を越え、手をひき、ひかれつつ撮影室へと駆けあがる。正常の通路は潰れ、塞がれ、通れないので、窓をのり越え、パイプにつかまり、回り回って、おやじ救出に走ってゆく。薬局の高窓をのり越えるには人梯子をつくらねばならなかった。長老がガス・メーターをつかんで台になり、その上に史郎君が重なり、その膝、背、肩と伝って、婦長さんも橋本君も椿山君も、よじ登って高窓を越えた。それから史郎がとび上がり、最後にみんなで長老の長い手長海老みたいな両手をひっぱったら、「おっこらしょ」と、いつもの癖の掛け声を出してとび上がってきた。

 現像室では施先生が肺のレントゲン写真をちょうど現像タンクから引き出すところだった。裏山に立っている対空監視の学生が「怪しい飛行機が頭上に侵入しまあす。退避、退避」と突然怒鳴るのを聞いた。妙に甲高い爆音をその次に聞いた。急降下爆撃だと考えてその場に伏せたが、写真が駄目になってはならぬと水洗いして定着タンクに静かに入れた。それから伏せようとするのと、どかんと潰されたのとが同時だった。気がついた時にはぴっしゃり胸を何か材木で挟まれて床にのびていた。どうにかこうにか動いてみると、腰が自由になり、両腕がわがものとなり、それを使って順々に自分の上に積み重なった木材をとりのけて抜け出すことができた。定着タンクの中の写真はどうなったろうと見回すが、眼鏡がとんでしまって、あたり一切はピントがぼけている。そばでいっしょに仕事をしていた森内君はどうしたろう。何べんも呼んでみるが返事がない。そこらの木材の下を捜しても、手もなく足も見えない。うまくはい出したものらしい。がらくたの山を越え、廊下に出てみてびっくりした。まるで知らぬ家へはじめて来たようだ。何もかも様子が変わっている。眼鏡がなくなったせいかしら、と二度も三度も眼をこすっては見回した。

 これまでの話は、コンクリート建築物の中にいて放射線の直射を受けなかった幸運の仲間についてである。屋外にいた者はどうであったろうか。清木先生は、薬学専門部の裏の防空壕を学生と一緒にせっせと掘っていた。先生が掘り役で、学生はその土を外に運び出していた。ちょうどその瞬間、壕の外へ出ていた者は死のくじを引き、中へ入っていた者が生のくじに当たろうとは、誰が予知していたであろう。みんなパンツ一枚の姿でせっせと土に挑んでいた。ここは爆心点から四百メートル。
 ぴかっと壕の奥の土が輝いた。どーと鳴った。壕の入口にざるを持っていた富田君がぷーっと壕の奥へ吹きこまれ、そこにしゃがんで鍬を振っている清木先生の背にどしんとぶつかった。「なんだ。何事だっ!」清木先生は怒ったように叫んで振りむいた。富田君の後ろから木片や布や瓦ががちゃがちゃと飛びこんでくる。大きな角材が先生の背中にどしんと当たり、先生はそのままぱったり泥の上に倒れた。
 幾分か経過したらしい。炎と煙とが渦巻いている壕の中に倒れている自分を、清木先生ははっと意識した。熱い空気がごうごうと壕の中へ吹きこむ。先生はよろめく足をふみしめ、死にもの狂いでその炎を突破した。一気に壕口に届いて、「やれやれ助かった」……と、眼をみはって、口をあんぐりあけたまま、さっきから握りしめていた鍬が手から落ちるのも知らず、その場に呆然と立ちすくんでしまった。
 薬学専門部の大きな幾棟かの校舎がない! 生化学の教室がない! 薬理教室もない! 柵もない! 柵の外の民家は? これもない! 何もかもなくなってしまって、一面の火の林!
 原子を専攻していた理学博士の清木先生もこの瞬間に、これは原子爆弾だ、とは気がつかなかった。まさか米国の科学陣が今日ここまで成功していようとは想像していなかったのである。
 学生は? 清木先生は足もとへ眼を転じ、いきなり氷水をぶっかけられたかのように、全身が凍るのを感じた。この物体のようにころがされているのが私の学生なのか? いや、私はさっき壕の中で背中をやられたっきり、まだ意識を回復していないのだ。悪夢だ、悪夢だ。こんな悲惨な事実が、たとい戦争とはいえあり得るはずがない。先生はももをつねってみた。自分の脈を握ってみた。どうしても自分の肉体は目醒めているらしかった。これが悪夢でないとしたら一体何だろう。悪夢以上に悪い夢にちがいない。
 先生はまず足もとの黒変した肉体に飛びついた。「おい、おい」返事がない。両肩に両手をかけて引き起こそうとしたら、皮がぺろりと水蜜桃のようにはげた。岡本君は死んでいた。その隣のが「うーん」と呻いて反転した。「村山君、村山君、しっかりしろ」先生はべろべろに皮のはげた学生を膝に抱いた。「先生、ああ、先生」そういったきり村山君ががくっとなった。「あーあっ」先生は深い溜息をつき、村山君の冷えゆく裸身を土の上に横たえ、合掌して、次の荒木君の上にしゃがんだ。荒木君は南瓜のようにぶくぶくに膨れ上がり、ところどころ皮のはげた顔の中に、細い白い眼をみひらいて、「先生、やられました」と静かにいった。「もう駄目らしいです。お世話になりました」
 耳と鼻から血の流れ出ているのがある。頭蓋底をやられて即死らしい。よほど強く地面に叩きつけられたのだろう。口から血泡を吹いているのもある。富田君がその間を水をのませ、言葉をかけつつ、敏捷びんしょうに立ち回っている。自分の力で動ける者は独りもいない。まだ呻いているからこの学生の次に行って診てやろうと思っているうち、急に黙ったと思ってひょいと見ると、もう目玉を白くひっくり返してしまう。こうして二十人ばかり次々と息絶えていった。二人ではとても救護はできぬ。誰か加勢をしてくれないだろうかと、清木先生は、「おーい、誰か来てくれ!」と北を向いて叫び、東を向いて叫び、西に向かって呼んでみた。じっと耳をすましていると、大気はいまだ安定を回復していないものとみえて、方向の定まらぬ突風が時の間をおいてごーっと吹き回り、その風の音にまじって、そこらのおし潰された屋根の下から、声を限りに助けを求めているのが聞こえる。「助けてくださーい」「苦しいよう」「誰か来てー」「熱いよう、焼けるよう、水かけてー」「お母さーん」
「お母さーん!」
 先生はめまいを感じてまた倒れた。しばらくして目をあけてみると、空いちめん固体のように濃厚な魔雲に埋められ、太陽は光を失い、赤ちゃけた円板に見える。あたりは日暮れのようにうす暗く、ひやりと寒かった。耳をすまして聞くと、助けを求める声はいくつか減って、お母さんを呼ぶ幼児は、もう焼け死んだらしかった。

 一年の学生はしずかにノートをとっていた。まだ耳なれぬラテン語の解剖学の講義を受けている自分が、なんだかもう一人前の医者になったような気がして、自分の書いた横文字を自ら誇りたげに見送りながら教授の言葉を追ってペンを走らせていた。かっと光り、どっと潰れた。教授の声がまだ途切れていなかった。頭を上げてあたりを見るひまもなかった。教室にきちんと並んで座ったまま、その位置で重い屋根の下に埋められてしまったのである。級長藤本君は、腰を梁か何かで軽く挟まれている自分を見いだした。しかし真っ暗だ。塵と土煙とを吸いこんではむせて咳をした。机と机との底の狭い空間で、ようやく我が身の自由をとりもどした。すぐ横でうんうん呻いている。おーいおーい、と呼ぶのもいる。しかし八十名の級友のうち、声を数えるといくらも生き残っていないらしい。そのうちに狭い木材の隙間からすうと物の焼ける匂いが流れこんできた。やがて熱っぽい、いがらっぽい煙が流れこんできた。火が燃え始めたらしい。まごまごできぬと焦り始めた。上へぬけ出そうと押してはみるが、梁やら桁やら、たるきやら、瓦やら土やら積み重なっていることとて、いっかな動きそうにもない。ぱちぱち近くで火の燃え上がる音がする。焦眉しょうびの急とはまさにこの状態であったのか。押してみる、突いてみる、頭と肩と背とを当てて満身の力で伸びようとするが、びくとも動かない。力学を考えてやってみる。重力の大きさをむなしく計算してみる。がらくたの隙間から吸いとる空気は次第に熱くなって、ちろりちろり赤い炎の反射がもれる。突然、海ゆかばを歌いだした者がある。せいいっぱい大声でゆっくり歌いつづけてゆく。藤本君は全身の力を失い、そのままころりと転がって、友の最後の歌に耳をすましていた。
 かえりみはせじ――歌は終わった。「諸君、さよなら――僕は足から燃えだした」あと二分したら、僕も燃えだす。藤本君は運命を知った。合掌してじっとしていると、父の顔が見えた。「じたばたするな」といった。母の笑顔が見えた。弟の正夫が浮かんだ。正夫が僕の代わりに医者になってくれるだろう。レントゲン室の仲間が一人一人思い出された。角帽をかむる日まで、レントゲン技術員として勉強していた教室、ああ、一緒に入学試験を受け、同じく角帽の栄冠を得た親友たこちゃんはどうなったろう。レントゲン仲間で朝夕投げ合っていた短い言葉が次々頭に浮かんだ。「あわてるな」この狭いがらくたの空間に一切の自由を奪われ、無抵抗裡に燃やされ、炭化され、灰になろうとして、何をあわてる必要があろう。「縹渺ひょうびょう」ここにおいて肉体は寸尺の活動の余地を有しないが、精神は天地宇宙の間にひょうびょうと流れゆくのだ。あと一分の不自由だ。肉の焼ける匂いがする。若い肉体の燃焼する快い匂いだ。僕の匂いもよいだろう。「一大事とは唯今のことなり」まさに然り。「此亦放尿喫飯脱糞之徒耳」藤本君は思わずくすりと笑った。「どうしても問題が解けぬときは、まるで反対を考えてみるんだ」試験勉強の最中に施先生がよく教えた言葉。まるで反対のことを――はて、そうだ。藤本君はもしやと思い床を撫でてみた。床板のつぎ目に指先がかかった。力を入れて引いてみた。果たせるかな、がたりとはげた。爆風が地面に当たり、反射して下から床をあおったので、釘がゆるんでいたのである。うんと引き上げ指を下にかけた。ばりばり快い音をたてて床板が離れ、救いの空気がひやりと飛びこんできた。二枚、三枚わけなく離れ、どすんと身体は床下の土にころがり落ちた。

 細菌学教室の裏の窓をあけて、今停車場から切符を買って帰った山田先生と辻田君とが、風を入れて休んでいた。二人はこれから東京の伝染病研究所へ血清製造法を習いに出張するところだった。いよいよ長崎籠城の日が近まり、こんな方面にも急いで準備をせねばならぬ仕事があった。男子がほとんど戦場に出ているので、この二人の若い女性科学者は、これから大きな責任を負わされることになっていたのだ。テニスコートも夏草に荒れて、スポーツを楽しむなどというのどかさは何年か前に忘れられ、すべては戦争一本であった。コートの向こうにすくすくとのびた楠と松の木立があり、それをすかして今は増産の芋畑に変わった運動場があり、その上に赤い大きな天主堂がそびえている。テニスコートをよこぎりながら、こちらへ手をふる二人のもんぺ姿がある。レントゲン科の看護婦の浜さんと大柳さんらしかった。以前にレントゲン科で技手をしていた辻田君の顔を窓に見いだして合図したものだった。辻田君はつと立ってハンカチを振った。運動場の芋畑にはレントゲン科の山下さんや吉田さんや井上さんがしゃがんで草をとっている。浦上の丘の段々畑には、空襲の[#「空襲の」は底本では「突襲の」]切れ間のしばしを利用して草とりをしている農民の姿が、あちこちに点々と見える。天主堂へは信者が引き続き参詣している。路にもちらちら日傘が光る。
「長崎はいつ見てもきれいですねえ」
「二か月あとで私たちが東京から帰ってきた時、やっぱりこのままでしょうか」
「私はなんだか長崎がなくなりそうな気がする」
「私はなんだか長崎だけは残りそうな気がする」
 そこへ「ピカドン」が来た。

 山田先生はやっとのことで床下へ出て助かった。隣に埋まった辻田君の「苦しい、苦しい」とただ二言いったきりで息絶えたのが夢のようである。細菌教室はたちまち一塊の火となった。脱出したのは山田先生独りだった。内藤教授以下全員即死したものと思われる。
 外にはい出してみるとうす暗く、風がそうそうと空に鳴っていた。見晴らしがきくと思っていたら、松と楠の木立は根こそぎ払われ、あたりの校舎講堂はみな潰れていた。向こうの天主堂は高さ五十メートルもあった鐘塔をはじめとして、全体が三分の一の高さぐらいに吹き払われ、羅馬ローマの廃墟さながらである。石垣に逆さに大の字にひっかかっている人、道路に点々倒れている人、畑にも見渡すかぎり幾人と数えきれぬ死人である。運動場にいた看護婦さんたちは? と見れば、離ればなれに吹き倒され、びくとも動かない。戸外にいた人は即死だった。山田先生はあまり大きな傷を受けてはいなかったにもかかわらず、不思議に身体中が変調をきたし、四、五歩行ったらくたくたと膝をついた。そしてもうどうにでもなれとあきらめて、そこのトタンの上にごろりと寝ころんだ。そばに古いドイツ語の細菌学教科書が落ちていた。もうこんな学問も駄目だ、とそう思って、その本を枕にしいた。そこにそのまま不安な夢と苦悶のうつつとの境をさまよいつつ、救いのあらわれるのをむなしく待つことにした。
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救護


 八月九日午前十一時二分、浦上の中心松山町の上空五百五十メートルの一点に一発のプルトニウム原子爆弾が爆裂し、秒速二千メートルの風圧に比すべき巨大なエネルギーは瞬時にして地上一切の物体を圧し潰し、粉砕し、吹き飛ばし、次いで爆心に発生した真空はこの一切を再び空中高く吸い上げ、投げ落としたのであり、九千度という高熱が一切を焼き焦がし、さらに灼熱の弾体破片は火の玉の雨と降ってたちまち一面の猛火を起こしたのである。推定三万の人が命を失い、十余万人が重軽の創傷を負い、さらに放射線による原子病患者は数限りなく発生せんとするのである。空中に生じた爆煙と土煙とは、一時まったく太陽光線をさえぎったため、下界は日蝕のように暗闇となったが、三分もたつと煙の膨張拡散するにともない、その密度が小さくなって、再び太陽の光と熱とをわずかに通過せしめるようになった。
 独力で私が脱出して撮影室にあらわれたところへ施先生が顔を見せ、橋本君、婦長さんの一団が駆けつけた。「よかったわ、よかったわ」口々に叫んで私に抱きついた。私は一人一人の顔を見た。尊い生命だ、よく生きていてくれた。けれどもまだ足らぬ。山下君は? 井上君は? 梅津君は?
「他の者を捜して救い出せ、五分間後ここに集まれ!」
 一団はさっと各部屋へ散らばって行った。施先生と史郎君が現像室でがらくたを引き上げ引き上げ、下をのぞいて「おーい、おーい」と呼んでは耳を傾けている。反応はない。史郎が「森内君、死んどるのか?」と怒鳴った。
 レントゲン治療室の機器の間から、長老が重傷の梅津君を救い出してきた。ぐったりとなって、鮮血にまみれた梅津君は廊下へべたりと座って「目の無かばい」といった。長老が「何いうか、目はあるばい」といいながら、傷をあらためている。目の上がざくりと割られ、その他大小一面の傷だ。婦長さんが、「大丈夫よ、大丈夫よ」と励ましながら手際よく沃丁ヨーチンを塗り、ガーゼを当て、三角巾を巻いてゆく。私は梅津君の脈をしらべ、次々と手当ての指図をする。「先生、助けてください」「薬をつけてください」「傷を診てください」「先生、寒いです、着物をください」口々にいいながら私らの周囲に異様な裸形が群がってきた。そこら一面投げ飛ばされた患者のうち、息の根の未だとまらぬ人たちである。ちょうど外来患者の診療最中だったから、このあたりの廊下や室内に倒れている数はおびただしく、それが一様に着物を剥ぎとられ、皮をむしられ、切られ、土煙をかむって灰色になっているのだから、まるでこの世のものとは思われぬ。死んで動かぬ人の間をじりりじりりとにじり寄り、私の足首にしがみついて「先生、助けてください」と泣く。血を噴く手首を差し出す。「お母さん、お母さん」と泣き回る女の子、子供の名を呼びつづけてのたうちまわる母親、「出口はどこだ」と怒鳴って走る大男、「担架、担架」と叫んでうろうろする学生、あたりはようやく騒然となってきた。
 私たちはそこでただちに応急手当てを始めた。三角巾も繃帯も間もなく使い果たし、こんどはシャツを切り裂いては、傷に巻いていった。十人、二十人、処置を終われば、後から後から「助けてください」と叫んで新しい傷者があらわれ、いつまでもきりがない。私は片手で自分の傷を押さえておらねばならず、仕事がしにくいが、つい患者の傷につられて手を離して手当てをしていると、まるで水鉄砲で赤インクをとばすように私の傷口から血が噴いて、横の壁といわず婦長さんの肩といわず赤く染めてしまう。こめかみの動脈を切られているのだ。しかし、この動脈は小さいから、まあ、あと三時間は私の身体ももてるだろうと計算しながら、時々自分の脈の強さを確かめつつ、患者の処置をつづける。
 友を捜しに行った橋本君と椿山君とが帰ってきた。「いません。運動場の畑へ行ったと思います。運動場へ行こうとしましたが、もう途中は倒れ木と火と死骸とで通れません。基礎教室の建物はみんな見えません。一面の火です。病院の中央は大火事で、裏門との連絡はつきません。負傷者の数は見当つきません」こういう報告である。山下、井上、浜、大柳、吉田、五人の看護婦の顔が次々目の前に浮かぶ。死んだのだろうか、今息の絶えるところだろうか、重い傷を受けてこの目の前の患者のようにのたうち回っているのではなかろうか、それともなにかの陰に無事に退避しているのかしら。生きてさえいれば、必ずここへ帰ってくる。
 それにしても、これは戦争の常識にない一大事である。予想だにされなかった大規模な惨害である。おそらくは歴史的な事件に数えられるものにちがいない。腰を据えてかからねばならぬ。私は撮影室にどっかりあぐらをかいた。施先生と婦長さんとが私の傷に薬をつけ、ガーゼを押しこんで圧迫止血をしてくれ、その上から三角巾でぎりぎりと締めつけた。しかし動脈出血だから三角巾はみるみる真っ赤になり、あごのあたりから、ぽたりぽたりと血をたらす。
「みんなで器械をしらべておいで」
 一同はまた私の周囲からさっと散って部屋部屋へ分かれて入った。その間、私はじっと考えた。ここはまさしく血河の戦場と化した。われわれは衛生隊であり、その活躍はこれからだ。断然踏みとどまらねばならぬ。敵はさらに引き続きこの爆弾を落とすであろう。そうして一週間以内に上陸戦闘を展開するであろう。浮き足だったらおしまいだ。混乱に陥ったら何もできなくなってしまう。まず隊の集結、編成、衛生材料の確保、食糧の調達、野営の準備、それができてから上下左右の連絡、野戦病院の位置選定だ。いずれここは艦砲射撃の弾巣になるだろう。患者を大急ぎで近郊の谷間へ集めねばならぬ。
 どの窓を見ても炎の林だ。周囲はすっかり大火になってしまった。この建物の一角にも火は燃え移ったらしく、ぱちぱち音がし始めた。器械をしらべていた仲間が次々に帰ってきた。
「もう滅茶苦茶です」「管球類は全部破損」「電纜でんらんは断線、変圧器は通路を塞がれて引き出せません」「標本は吹き飛んで手がつけられません」報告はすべて惨また酷。
 みんなが私の口を開くのを待って、じっと私をみつめている。他の科の先生や看護婦や生徒が、血まみれになって二人三人手をつなぎながら、ものもいわずにそばを走り去る。ごうと火炎の鳴るのが聞こえ、窓から火の粉が吹きこんでくる。どうしたらよいか。私もみんなの顔をじろじろ見回すばかり、こんな時にはあわてては駄目だ。落ち着いていたら焼き殺される、あたりまえにしているわけにもゆかぬ。そう考えて私は思わず、にやりと笑った。あまり唐突に笑ったので、皆もつい、ぷっと吹き出した。「わっはっはっは」一同声をたててひとしきり笑った。
「お互いのざまをみろ。それじゃ戦場へ出られんぞ。さあ、きちんと身支度をして玄関前へ集まろう。お弁当を忘れるな。腹が減っては戦はできぬぞ」
「よいしょ、よいしょ」みんな元気な掛け声を出して、自分自分の部屋へ帰って行った。その後ろ姿をいちいち見送りながら、私はみんなが平常心を取りもどしているのを知った。
 施先生が靴を捜してくれ、婦長さんが鉄兜や上着を見つけてきてくれた。私はのろのろと玄関のほうへ出て行った。婦人科の前の廊下を看護婦が一人、眼をうつろにして、くるくる歩き回っている。背中を強く叩いて「おい、しっかりしろ」というけれども気がつかぬらしく、そのまま同じ運動を続けている。衝動が激しかったので一時的精神異常をきたしたのらしい。玄関前車寄せにはおびただしい死傷者だ。しかも下の町から次々と傷を押さえた負傷者が、救護所はどこ、受付は、と尋ねつつ上がって来る。病院の各病棟からも負傷者を背負い、あるいは肩にかけ、三々五々ここへ出て来る。一体どう処理したらいいのだろう。一人一人の生命は尊ぶべきものである。どの人も自分の身体が大切であり、大小にかかわらず傷にはすべて関心をもっており、そしてよい医者に診てもらいたいのである。私はこれを診ねばならぬ。
 しかし、このおびただしい傷者と、なくなった薬と、迫りくる炎と、少ない私たちの手と――私は三人手当てをしてから、これは大局に目をつけねば、折角繃帯を巻いた怪我人もろとも火炎の中に巻き込まれんとする危地にあることを知った。
 すでに被爆後二十分、浦上一帯は火の森林と化した。病院も中央から燃え広がりつつある。わずかに火の見えないのは東側の丘のみ。ポンプ、バケツ、水槽、元気な人間、消火に必要なものは一瞬になくなっているのだから、ただ火の燃え広がるのに任せるばかり。生き残った者も強力な放射線に貫かれ、着物は剥ぎとられて素裸のまま、下の町から炎を逃れてよろめきつつ山へ登ってくる。子供が二人で、死んだ父親を引きずって通る。首のない赤ん坊を抱きしめた若い女が走る。年寄り夫婦が手をつないで喘ぎ喘ぎ登ってゆく。走りながらもんぺがぱっと燃え上がってそのまま火の玉となってころがるのもいる。火に取り巻かれた屋根の上でしきりに歌いながら踊っている人が見える。気がふれてしまったのだろう。後ろをふり返りふり返り走るのもあり、頭もふらず突っ走るのもある。姉はおくれる妹を叱り、妹は姉に待ってとせがむ。後ろへすぐ炎は迫っている。
 こうして炎の中から運よく逃れ得た者は、十人に一人くらいのものだろう。あとは今、目の前で家の下敷きとなったまま焼かれつつある。ごうと火がうなっては風向きが変わり、遠く近く救いを求める声が相続く。私は腕組みをして凝然として立っていた。この時ほど自分という者の無力を悟ったことはない。この目の前に苦しみつつ死にゆく人を助ける術はどうしてもないものか。
「先生、不動明王のごたるですばい」
 医専三年の長井君と堤君とがやって来た。レントゲン科の仲間もきちんと身支度を整えて集まってきた。壕の中へ飛びこんでいた森内君も、無事な顔をみせた。そこへ転げるように走って来て婦長さんに抱きついたものがいる。婦人科レントゲンの小笹技手だった。髪の毛が焼けちぢれて臭い。もんぺも破れている。火の中から看護婦二人を救い出し、炎をくぐって無我夢中でここまで駆けつけたという。あとは皮膚科、外科のレントゲン技手の崎田君と金子君だけだ。
「器械はあと回し。人間を救い出そう」
 私はこう決めた。二人ずつ組になって燃える病棟の中から患者を担ぎだすのである。小笹君と森内君は崎田と金子を捜しに火炎の中へ入っていった。長老が梅津君を背負って裏山へ登ってゆく。まるで日露戦争の絵のようだ。私たちが再び入ってゆく建物からは、ようやく物の下敷きから抜け出した人々が、まったく命からがらといったふうで、目の色を変えて走り出してくる。言葉をかけても返事もせず、ふり返りもしない。おそらくは無我夢中なのだろう。大学病院から離れて一体どこで誰に診てもらうつもりなのか。私は一人一人に「あわてるな」と声を浴びせかけた。地下室の手術場へ入ってみると、水道管が破裂して大洪水だ。隣の衛生材料置場に入ってみてさらに暗然となった。担架すらばらばらにちぎれ飛んでいる。手術器械はそこら一面にばらまかれ、水薬と粉薬と注射液と、いずれも容器が壊れて内容が入りまじり、その上に惜しげもなく水道管から水をふり注いでいる。ああ! 今日のためにこそこの材料を集めたのではなかったか。今日のためにこそ担架の演習や救護の講義を繰り返したのではなかったか。何もかも大失敗だ。脚をもがれた蚊のように、はさみを取られたかににも似て、私たちはこれから徒手空拳、この幾万とも数知れぬ負傷者の前に立たされる。まったくの原始医学だ。この知識と、この愛と、この腕とで、ただそれだけで生命を救わねばならぬのである。私は悄然しょうぜんと階段を登り、再び玄関前の広場に突っ立って、全般の指揮をとることにした。
 それでも私のまわりに医員と学生と看護婦と二十人ばかり踏みとどまって最後の救出作業に従った。二人組は次から次へと部屋に倒れている患者を手運びで救い出してきた。それは皆、玄関横のコークス置き場に並べられた。火の粉の落ちぬのは今ここだけだった。私はその真ん中にただのっそりと立っていた。火勢はいよいよ烈しく、空は黒煙渦を巻き、また例の魔雲も火の色を反映して、赤くあやしく輝いている。なんだか心細い情景である。
「学長先生をお救いいたしました」友清君の声にふり返ると、玄関に真っ赤な風呂敷をおんぶしている。駆けつけてみると、真っ赤なものは角尾先生だった。白髪から顔から、白衣からズボン、脚絆まですっかり血で染まっていらっしゃる。眼鏡はない。「ああ、永井君、大変だね。ご苦労だね」と申された。私は脈を拝見したが、格別弱くもなく不整でもなかった。裏の丘が安全だから、ここから二百メートルほど登って適当な所に休んでもらうよう友清君にいいつけた。施先生が注射の用意をもってついて行った。学長先生は外来患者の診察最中にやられたのだった。黄先生も重傷を負っていたが、学長を助けて廊下まで出たものの、自らは出血のため起つ能わず、そこへ友清君が捜しに行って救い出してきたものだった。しばらくして、内科の前田婦長が病棟から飛び出してきて、私を見るなり「学長先生は?」と聞いた。「裏の丘、二百メートル、施先生もついている、大丈夫」と私は答えた。婦長は眉の上から血を垂らして、真っ青だ。いきなり裏の丘へ走り去った。あんな肥っちょの婦長さんが、こんなにすばしこく岩山をはい登り、坂を駆け上がるのかと、私はぽかんと後ろ姿を見送った。
 橋本君は十七歳、椿山君は十六歳、どちらも身体の縦と横との釣り合いが変調をきたし、愛称を樽ちゃんといい、豆ちゃんと呼ぶ。このずんぐりの樽ちゃんと豆ちゃんが予診室へ入ってみると、患者と学生と入りまじって七人うなっている。二人は、入口の大きな男を引き起こし、縦抱きの要領で静かに抱き上げ、そのまま階段を下ってコークス置き場へ運んだ。すぐ引き返して、同じように次の学生を運ぶ。三人、四人、一室がすむと次の検査室。ここには顔見知りの看護婦さんがいた。それを抱いて階段を下りながら、樽ちゃんは生まれて初めて知る歓喜の念を覚えた。それはなんともいえぬ崇高な幸福、歓喜だった。この浜崎さんは、私に抱かれて火の中から出ようとしていることも知らず、かすかに呻いている。豆ちゃんも私のことを口外しないなら、浜崎さんは永久に私たちから救われたことを知らないだろう。もし万一助かることがあったら、廊下などで会った時、何も知らずに通り一遍の会釈をして行き過ぎるだろう。そう思うと、知らず知らずに頬の肉がゆるんでくるのを感じた。幼い日に赤いぐみの実をクリームの空瓶に塩漬けにし、私一人知っている納屋の隅の味噌桶の裏に隠して、姉にも知らせず、弟の目をもはばかり、朝夕こっそりその味を試しに入って、艶々しいぐみの実を、まるでルビーかなにかの宝石のように見つめた、あの純粋なほのかな歓喜を連想した。
 豆ちゃんはまた違ったことを考えていた。今日の大人の人はなぜこんなに軽いのだろう。かねて傷者運搬演習や、診察室で輸送車から透視台に患者さんを移す時など、三人がかりでもあんなに重かったのに……と不思議だった。おそらく出血のため体重が減っているのだろう。それにしても、永井先生の防空演習はあまりに激しかった。実戦がこのくらいの恐ろしさ、苦しさ、難しさであるのなら、演習をあんなに恐ろしく、苦しく、難しくやらなくてもよかったろうものを。看護婦養成所へ入学すると、間もなく肝試しをやらされた。暗室のほの暗い明かりの中に技手の方たちや上級生の看護婦さんが死人や重傷者を真似て呻いている所へ、一人一人まだ解剖さえ習わぬ一年生を行かせて脈をしらべさせられた。あの時のぞっとした感じなど、今日本物の死人と負傷者を抱いたってちっとも起こりはしない。運搬演習だって、あの穴弘法あなこうぼうの岩山の目のくらむ山腹を、お互いの身体をロープで縛ったりして患者運びをやらされたものだ。消防にしたところで、いきなりエレクトロンの真弾を窓からびゅうびゅう火花の噴くまま投げ込んで、そらそら消さねば本当の火事になるぞと度肝をぬかれたっけ。それにつけても、この一年間一緒に泣いたり笑ったりして、演習や実の空襲に働いた小柳さんや吉田さんが、ここにいないのが寂しくてしようがない。どこにいるのやら炎に隔てられて生死も不明だが、なんだか今そこらまで帰ってきているような気もする。豆ちゃんは窓から顔を出して「吉田さあん、吉田さあん」と叫んでみた。樽ちゃんも並んで顔を出して「井上さあん、ミッちゃあん」と叫んだ。火炎がまたごうごうとうなってこっちへ崩れる。
 二人が次の傷者を救いに上がってくるたびに、一室一室と火炎の占領する室は増していた。しかし、火と煙の渦巻いている室に手拭いでしっかり鼻と口とを押さえて這い込み、傷者を引きずり出すのが、今はなによりも楽しくうれしかった。出てきて熱い熱いと思うと袖口に火がついていた。二人はほんとうに看護婦であることの幸福をさとった。
 気絶している患者はむしろ楽だったが、意識のある患者は、傷が痛いとか、苦しいからゆっくり運べとか、忘れ物を取ってきてくれとか、ちり紙を捜せとか、苦情を並べて手間取らせ、思わず時間を浪費してしまった。その上この爆撃の大惨害を知らず、この病棟に火の回っていることも悟らずにいるものだから、腹の立つほどのんきなわがままをいいたてて困らせた。内科の病棟には全身の急性関接リューマチスの患者がいて、大倉先生と山田君とが抱いて出ようとすると、痛い痛いとわめきだし、そんなに痛い目にあわすのならこのままおいといてくれといった。仕方なく他の患者から運び出して、とうとう最後にこのリューマチスだけになった。もう一度抱きかかえると、担架でなけりゃ嫌だと駄々をこねる。二人はあちこち捜し回るけれども、役に立つ担架は一つもない。だいぶん時間を費やして、仕方がないからとさらに病室へ行ってみたら、そこにはもう火炎がまいていた。大倉先生は私の所に駆けつけて、「一人だけどうしても出ません」と訴える。私は「それだけ尽くしたらもういいです。その患者の責任は私が負いましょう」といった。しかし大倉先生と山田君とは、人殺しをしたような顔をして、炎の舌の舞うあの病室を見上げている。
 腕時計はすでに二時を回っていた。いつのまに三時間もたったのだろう。火炎は今が最も盛んである。風はさっきから西風だった。何十メートルの炎が見上げるばかりの大空にお互いに高さを競い、風に押されては東へ崩れかかる。大学は町の風下になっているので、このコークス置き場も危険になった。私は、患者をさらに丘の上の畑に移す決心をした。これは、なかなか難しい作業だった。なにしろ路が狭いうえに家屋の破壊物で塞がれているので、岩肌や石垣をよじ登って瀕死の傷者を次から次と運び上げるのである。私も二人背負ってはい上がったが、三人目にはもう力がぬけてしまっているのを自分で知った。こめかみ動脈の出血が依然止まらず、あれから三度三角巾を取り替えたほどである。婦長さんが顔色が青いと注意してくれた。なるほど脈もよほど細くなっている。樽ちゃんと豆ちゃんとが軽々と大きな男を背負って上がる。赤ん坊の泣き声がする。母親は重傷で意識がない。二か月ぐらいの赤ちゃんが出べそをふくらまして横で泣きたてている。もう火は近いので、私はせめて子供なりと助けようと抱き上げて上の畑へ登り、浜崎君の隣に寝せた。そのとき浜崎君が突然うーんとうなってぐったりとなった。私はああ駄目だと思い、鋏を出して彼女の前髪を切り取り、ポケットにおさめた。山田君と婦長さんとが親と子を離してはかわいそうだといい、下から母親を抱き上げてきた。赤ん坊を胸の所に添えて寝かせると激しく泣きたてた。意識のない母親の手が赤ん坊の所へ動いた。
 大粒の雨がぼたぼた降りだした。指頭大の黒い雨で、くっついた所は重油か何かのように色がついた。これは上の魔雲から落ちてくるようだった。情景はいよいよ凄惨を極める。空気中の酸素が燃焼に費やされたのと、酸化炭素の発生がいちじるしいのとで、この火炎の谷の中では呼吸が重苦しい。誰も犬みたいにはあはあ息づいて働いている。その次に時計を見たら四時だった。患者はすっかり安全な丘の畑に並べて寝せた。どこか屋根のある所をと、学生の斥候は四方に走ったが、どこも火ばかり、ここよりほかに適当な個所はなかった。
 私たちはそこに座って飯を食った。胸がいっぱいでという看護婦たちにも、これから何日何か月、こんなことが続くかわからんぞといって、とにかく皆がかねての非常食を食べた。腹ができると自然に落ち着いてきた。それから一人一人患者の訴えを聞いて、丁寧な手当てをやり始めた。止血帯を締めなおす。傷の縫い合わせをする、三角巾を巻きなおす、沃丁ヨーチンを塗る、水をのませる、布団やむしろを見つけてきてかぶせる、副木を当てる。
「ああ標本室が火を吐く」長井君が叫ぶ。ああ、十数年苦心して集めた学術標本、再び手に入れられぬ貴重な症例写真が今一陣の煙と化しつつある。「ああ撮影室が燃える」「治療器械もさようならか」患者の救出に時間をとられて、ついに器械と標本を取り出すことができなかった。私たちの日々の知識の糧であった文献も、学術進歩の記念だった標本も、わが子のように、わが腕のごとく愛し親しんだもろもろの器械も、今すべて赤い炎と変わって天に昇ってゆく。すべての希望、かずかずの思い出が今この目の前に黒い煙となって消えてゆく。私たちはただ茫然とそれを見つめて立っていた。火勢はいよいよ猛烈で、ついにフィルム倉庫に引火したとみえ、どす黒い煙と炎とがどっと吹き出し、どうどうと炎が鳴り始めた。私は膝の力が抜けるのを感じ、「おしまいだ」と呟くと、ぐたぐたと畑の上にへたばった。婦長さんをはじめ看護婦たちが、しくしく泣き出した。
 大学は完全に一塊の火となった。今は最後である。大学長角尾教授はあのとおり重傷である。病院長内藤教授の姿をみかけた者はいないから、おそらくは病院と運命を共にされたのであろう。連絡学生の報告では、元気なのは古尾野、調両教授のみ。他はほとんど皆姿を見ず、ただ北村、長谷川両教授が血塗れになって医員から助けられつつ、裏の山へ登られたのを見かけたのみだという。学生、看護婦の八割は死んだらしい。生きている者も傷者が多く、今この上の丘で活曜をしている外科を中心とする一団と、裏門付近で働いている皮膚科・小児科を中心とする一団を合わせても、元気な者は五十名くらいだろうという。基礎医学教室は全員絶望との話だから、大学は人的にも物的にも全滅したと認むべきである。丘の上に立って燃える大学の最後の姿を見下ろしている私たちは、まさに昭和の白虎隊だった。
 大倉先生が病室から白い大きなシーツを取り出してきた。私は自分のあごから垂れ下がっている血餅けっぺいをむしり取って、それで大きな日の丸を染めつけた。竹竿にこの一坪余りの日の丸をくくりつけて押し立てると、熱風が吹きつけてはたはたと大きく鳴った。腕まくり、白鉢巻の長井君がそれを両手に掲げた。黒煙のなびく丘を血染めの日の丸が上がる。私らは粛々としてそれに従った。時に午後の五時。かくのごとくにしてわが長崎医科大学は戦に敗れ、灰燼に帰したのである。
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その夜


 私たち教室員はうち揃って学長の寝ておられる畑へ行った。芋畑の隅に外套をかぶり、丸くなって雨にぬれておられるのを見て、つい涙が出た。調教授を中心とする医員学生の一団が駆け回って手当てに忙しい。私は学長に報告を終わり、二十歩ばかり行くと眩暈めまいを感じ、脚のよろめくのを覚えた。ちょうどそこに長老から介抱されながら梅津君が寝ていた。これも雨にぬれている。私はその脈を握ってみたが、案外強かったので安心をした。上衣をぬいで梅津君にかけてやり、五、六歩行き、畑を一段降りると同時にくらりとして、私は卒倒した。
「頸動脈を押さえろ」施先生が叫んでいる。頸筋をぐっと押さえられた。眼を開けて仰ぐと、赤い雲の下に施先生と婦長さんと豆ちゃんと、どうしたかと心配していた金子技手の顔がのぞいていた。「結紮糸、コッヘル、ガーゼ、ガーゼ」あわただしく先生が怒鳴って、私の耳の辺りの傷の中へ何か痛い物を突っ込む。冷たい金属の触れあう音がして、時々どっとあったかい血が頬へあふれる。「押さえて、拭いて、ガーゼ」先生がしきりに怒鳴る。時々コッヘルの先で神経繊維をはさむものとみえ、全身の痛覚が一挙に目ざめて、足の爪先がぴんと突っ張る。私は思わず手に触れた草を握りしめた。
 調教授が駆けつけてくださった。施先生が何かぼそぼそいっている。脈が握られた。私は観念の眼をとじた。「動脈の断端が骨の陰に引っ込んでるんだね」と教授はいわれた。またも何回か私の足先はぴんと突っ張り、手は草の根を握りしめなければならなかった。けれども手術は手際よく成功した。「永井君、大丈夫だ。血は止まったよ」そういって教授は立ち上がられた。私はお礼を申し上げた。そして全身が急にだるくなり、気が遠くなっていった。
 日は落ちた。地上は炎々と未だ燃えさかり、空一面にひろがった魔雲は赤くあやしく輝いている。西のほう稲佐山の上のみがわずかに空をすかせて、三日月が細く鋭く覗いている。高南病棟の上の谷間に男組は板を拾いわらを集めて仮小屋を造り、女組は鉄兜で南瓜を煮て夕餉ゆうげの支度をととのえた。長井君と田島君とが県庁まで非常食糧を貰いに出かけていった。畑の中に南瓜の煮える火を囲んで、私たちは小さな輪をつくっていた。わずかに生き残った者のこの小さな輪よ。お互いに顔を見合わせて、この輪をつくるこのわずかな人間同士こそ底知れぬ因縁の絆に結ばれていたにちがいないという気がした。私たちはお互いに手をとって固く握り合ってじっとしていた。もう暗くなった上の森から「担架来てください」「誰か注射に来てください」と哀れに叫んでいる。友の名を呼ぶ声、親を求める声、聞き覚えのある声、大勢声を合わせての叫び。しかし私たちはもう七人の仲間を死んだものと諦めていた。皮膚科の崎田君は大腿骨折で身動きもかなわず、今壕の中に寝せてあるという。藤本君は講堂の床下から九死に一生を得て、杖をつきつき、さっきここを過ぎたので自宅へ帰らせた。あとは辻田君と片岡の蛸ちゃんと山下君ら五人の看護婦である。彼らは生命さえ残っておれば、どんなにしてでも教室へ帰ってくる人々であった。たとい霊魂がまさに肉体を離れんとしてただ髪の毛の先でつながっているほどの瀕死の重傷でも、必ず私たちのところまではって来て、それから死ぬはずの仲間であり、それほど堅い私たちの団結だった。もう八時間も経過して、姿を見せぬが故に、あの人々は即死したにちがいないのである。私たちはじっと黙祷をささげていた。
 のっそりと裸の大男があらわれた。
「おっ、永井先生。見つけたぞ」
「あら、清水先生。生きていましたか」
「わし一人じゃ」どたりと尻餅をついた。手についてきた焼け残りの角材がからから音を立てて倒れた。ふうふう肩で息をしている像は、まさに傷つける闘牛か。
「すぐ来てください。学生たちが死にかけとる。もう半分以上は死んじもうた。注射しに来てくださいよ。見殺しじゃけん。薬専の壕じゃ」
「すぐ行きます。さあ、まあ南瓜でもお上がりなさいよ」
「いや、南瓜どころじゃなか。南瓜を何百食ったって学生は助からん。すぐ行きましょうや」
 施先生、婦長、橋本君、小笹君が医療袋をもって立ち上がった。清木先生は史郎から手をひいてもらって、やっと立ち上がることができた。
「大学はなくなってしもうた。とにかく、えらいこっちゃ。みんな死んでしもうた。途中はひどいんだぜ。たった三百メートルしかないのに一時間かかった。それじゃ、また来ます。ああ、よかった。学生が助かります」
 先生は婦長さんの肩につかまり、よろよろしながら再び燃える大学の中へ入って行った。この一隊はこの夜を基礎医学教室の裏丘を中心に、残りの大倉先生、山田君らの一隊はここの仮小屋を中心に夜間の救護をつづけるのである。私と梅津君とは仮小屋の藁の中に寝せられた。虫も死に絶えたものとみえて、あたりは寂莫としている。
 地に満ち空を焦がす大火の反映の明かりを頼りに呻き声にひかれて傷者に近づき、傷を巻き注射をし、これを抱いて引きあげてくる。路は思いがけなく炎の屏風にさえぎられ、転ずれば倒木縦横に交じりて越すに由なし。ある時は吹き崩された石垣をよじ登り、ある時は板橋の吹き飛ばされたのも知らず患者もろとも溝にはまる。足蹠はすでに幾度か釘踏み抜いて一歩毎に痛みをおぼえ、膝頭はガラスに擦り切られてもんぺとくっついている。救護隊は医学専門部の高木部長を発見して収容する。石崎助教授、松尾教授を相次いで担ぎ込む。仮小屋もようやく呻き声に満ちてきた。谷薬局長の令嬢も重態だ。通りかかった保険の集金人がころがりこむ。二人の囚人も宿を求めた。
 敵機は二回来た。ビラ弾のはじけるにぶい音がした。
 夜半火勢はようやく衰えはじめた。死に果てたのか、諦めたのか、疲れて眠ったのか、叫びはまったく絶えて、天地寂として声なく、まことに厳粛なひとときである。げにさもありぬべし、まさにこの時刻東京大本営において天皇陛下は終戦の聖断を下したもうたのであった。地球の陸と海とを余す所なく舞台として展開された第二次世界大戦は、次第に高潮し、さらにいかなる波乱を巻き起こすやと気遣われていたが、突如原子爆弾の登場によってクライマックスに達し、ここににわかに終幕となったのである。たしかに厳粛な一瞬である。私は放射能雲のあやしく輝いて低迷する空を胸のつまる思いで眺めていた。この放射能原子雲の流れゆく果てはどこか。前途は凶か吉か? 正か、はたまた邪か? この一瞬、この空から新しい原子時代は開幕せられるのである。
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原子爆弾の力


 八月十日の太陽は、いつものように平凡に金比羅山から顔を出したが、その光を迎えたのは美しい浦上ではなくて、灰の浦上だった。生ける町ではなくて死の丘であった。工場は無造作に圧しひしゃがれて煙突は折れ、商店街は瓦礫がれきの浜となり、住宅地はただ石垣の段ばかり、畑は禿げ、林は燃え、森の巨木はマッチを並べたように倒され、満目荒涼まんもくこうりょう、犬一匹生きて動くものはない。夜半突然火を発した天主堂が、紅蓮ぐれんの炎をあげて最後のピリオドを打っている。
 私たちは早暁薬専の壕に移動して、基礎医学教室の救護に当たる。運動場の片隅にトタンをかむって寝ている者がいるので、行ってみると細菌教室の山田先生だった。辻田君最後の模様を初めて知る。そこで細菌教室へ行ってみると、実験室の焼け跡の灰の中に先生方であろう幾つかの黒焦げの骨がある。大体部屋の見当をつけて女性の骨を見つけた。これが辻田君であろう。この骨はもう「ネエ、ほほ!」とは笑わない。紙に拾い集めながら、夢ならば夢ならば、と繰り返し思う。蛸ちゃんが授業を受けていた講堂の焼け跡に来る。しらじらと陽に光る灰の中に、ああ、整然と並んでいる幾十の黒骨。この中にわが片岡君もまじっているのか。ノートとるペンを握ったまま一瞬に若い生命を奪われた学生たち。昨日の朝はあんなに元気で角帽を頂いて校門をくぐったのだったのに。
 予期してはいたが希望していなかった恐ろしいことが、運動場の増産畑に見える五つの屍体に近づいた時、現実となってしまった。いくら待っても来ぬはずだった。いくら呼んでも応えぬはずだった。ここでこんなにして、片手を上げた格好で。多分山下君、吉田君、井上君が先に働いているところへ、後から浜君と小柳君とがやって来て声をかけたのだろう。三人が立ち上がって手を振った[#「振った」は底本では「握った」]。二人も手をふって駆け出した。その瞬間に叩きつけられたものにちがいない。三人と二人とは離れて倒れている。「秀ちゃん」「ミッちゃん」と婦長さんが肩に手をかけてゆさぶったほど、あどけない死に顔だった。こんなに早く死ぬ子なら、あんなに叱らねばよかったと、山下君のかわいい鼻を見つめていて思う。こうして冷たくなった子供の頭をなでていると、一度も叱らなかった井上君よりは、しょっちゅう叱っていた山下君のほうがいとしい。小さな犬のバッジも胸にそのままに、うすい唇には土がついている。
 ただ一発でこれだけの生命を奪い、これだけの破壊をたくましゅうした爆弾は一体何物であろう。婦長さんが走ってきて手渡した一枚の紙片は、昨夜敵機の撒いたビラだった。眼をすべらせていた私は思わず叫んだ。
 あっ、原子爆弾!
 私の心はもう一度、昨日と同じ衝撃を受けた。原子爆弾の完成! 日本は敗れた!
 なるほどそうだ。この威力は原子爆弾でなければならぬ。昨日からの観察の結果は、予想されていた原子爆弾の現象と一々符節を合わすものだ。ついにこの困難な研究を完成したのであったか。科学の勝利、祖国の敗北。物理学者の歓喜、日本人の悲嘆。私は複雑な思いに胸をかき乱されつつ、酸鼻さんびを極むる原子野を徘徊はいかいした。
 竹槍が落ちていた。蹴ったら、からんからんと虚ろな音をたてた。拾って空に構えて涙が出た。竹槍と原子爆弾! ああ、竹槍と原子爆弾、これはまたなんという悲惨な喜劇であろう。これでは戦争にならぬ。これは戦争ではない。国民はただ文句なしに殺されるために国土の上に並ばされるのである。ビラにはこう書いてあった。

日本国民に告ぐ!
 このビラに書いてあることを注意して読みなさい。
 米国は今や何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は只その一箇を以てしても優にあの巨大なB‐29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考えなければならないことであり我等は誓ってこのことが絶対事実であることを保証するものである。
 我等は今や日本本土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯一箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したかを調べて御覧なさい。
 この無益な戦争を長引かせている軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。
 米国大統領は曩に名誉ある降伏に関する十三ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承諾し、より良い平和を愛好する新日本建設を開始するよう我等は慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。
 然らざれば我等は断乎この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであろう。

 一度読んで肝を奪われた。二度読んで人を馬鹿にしていると思った。三度読んで何をぬかすかと憤った。しかし四度読むとまた気が変わって、これはもっともなことだと考えた。五度読み終わってこれは宣伝ビラではなく、冷静に事実を述べているのを知った。私は右手に竹槍をつき、左手にビラを握り、防空壕のところの、清木博士のもとへ帰っていった。
 清木大人は「ウーム」とうなって、土の上にひっくりかえった。そして虚空を睨みつけたまま、小一時間ものをいわなかった。
 原子が爆発したらそれから何が出てくるか――私は清木教授の裸体の隣に寝ころんでいて考える。巨大な原子力、微粒子、電磁波、熱、この四種類がまず頭に浮かぶ。原子力すなわち、原子が創造せられた瞬間から原子内ことに原子核内に潜在していた力、原子の形態を維持し、その作用の源泉となっていた力、それは原子の体積に比べていちじるしく莫大なエネルギーであり、実に万象流転の原動力たるものである。一部の学者は、太陽より昼夜不断に発せられる巨大なエネルギーは実に太陽の原子が時々刻々に爆発しつつ発する原子力である、とさえいっている。したがって原子爆弾は人工太陽とでも称していいかもしれない。この巨大な原子力は、原子の破裂と同時に解放せられ、一挙に万物を圧する。真空中、空気中、土中、水中でその起こる現象は異なるであろう。この度は空気中で破裂した。放出された大力がまず空気分子を八方へ押しやるので、偉大な風圧が地球上に八方に進行する。その内側には真空を生じるであろう。そして偉大な風圧の後から偉大な陰圧が従うであろう。さて、地形が浦上のような谷であれば、球面波がこれに衝突し反射する際、複雑な干渉を起こすであろう。こうして地面ではまず主圧が来て物体を押し倒し、押し潰し、粉砕し、吹き飛ばす。次いで陰圧が来てこれを逆に引き、吸い上げ、軽い物は空高く土煙として巻き上がってゆく。その後に複雑な風圧が入り乱れて暫時荒れ狂うであろう。その結果、なぜこのような方向に動かされたのか見当のつかぬ状態にしばしば遭遇するにちがいないのである。この爆圧の速度は大体音波の速度と同じくらいと考えられる。
 微粒子として飛び散るものは原子構成粒子たる中性子、陽子、アルファ粒子、陰電子や原子核の分割によってできた新原子および割れない元の原子である。このうち最も大きな作用を示すのは中性子であろう。中性子は電気的に中性な小粒子だから、ある初速で原子核を飛び出すと、途中で電場磁場の影響を受けず、そのまま直進してよく物体を貫通する。その速度は、おそらく一秒間に約三万キロを突進するだろう。ただ水素原子に衝突すると停止する性質があるので、水、湿った土、パラピンではさえぎられる。アルファ粒子、陽子は陽帯電場磁場の影響を受け、その速度を変じ、あるいは陰陽合体したり、空中放電を起こしたりして、地上にはあまり多くは到達せず、空中に浮遊し終わるであろう。原子核の分割によって新たにできた元のものよりも小さい原子は一定時日不安定であって放射線を出し続けるが、このものは体積も大きいので進行途中に受ける抵抗も大きく、いつしか速度を失って同じく空中に浮遊するであろう。このものは放射能塵となって次第に地面に降下沈積し、もって今後かなり長月日の間、爆心地帯より当時の風下方向にわたり残留放射能の源となるであろう。さて、これらの微粒子群は爆発と同時にまず球形に拡散し、速度と重力と浮力と気圧その他の条件の支配を受けて、ある形をとるであろう。その微粒子を中心に水蒸気の凝結も起こるであろう。かの爆発直後に生じた魔雲の本態はこれであり、かの大きな黒い雨もこうしてできたものであろう。
 かかる大変化が瞬間に起こるのだから、もちろん大なる熱エネルギーを生じる。爆心最近距離の物は、黒焦げとなる。たとえば薬学専門部入口の標柱はきれいに爆心に向いていた半面だけ黒焦げになって立っている。ことに熱を吸収する黒色の物体はひどく焼かれる。井上君の眼球の黒眼の部分だけ穿孔せんこうしていたことや、黒瓦の表面の泡立っていることや、浴衣の黒い模様のとおり熱傷を受けていた患者がいることや、石の黒い部分がぼろぼろになっていることなど、この事情を裏書きするものである。
 原子内で帯電粒子の急激な位置移動が起こる結果として電場磁場の歪みを生じ、これが電磁波として輻射される。それを波長の短いものから並べてみれば、ガンマ線、エックス線、きん外線、光線、赤外線であろう。さらに波長の長い電波も出るかもしれぬ。その速度はいずれも一秒間に二十九万九千七百九十キロという素晴らしいものである。光線がピカッと眼を射たあの時刻が原子爆裂の時刻であり、同時に恐ろしいガンマ線は身体を貫いており、赤外線は露出部に熱傷をあたえたのである。
 清木先生を中心に長老たちがしきりに論じている。
「一体全体これを完成したのは誰だろう? コンプトンだろうか、ローレンスだろうか?」
「アインシュタインも大きな役割を持っているにちがいない。それからボーアやフェルミなど、欧州から米国へ追われた学者たち」
「中性子を発見した英国のチャドイックや、仏国のジョリオ・キュリー夫妻や」
「もう何年も学術鎖国で重要な文献が発表されないからわからないが、きっと新進大家がいるにちがいない。そしておそらくは米国のことだから、数千人の科学者を動員し、研究の分担を定め、能率的にどしどし仕事を進めていったものだ」
「こりゃ実験室だけの仕事じゃないから、材料の採掘、精錬、分析、純粋分離というだけでも大した工業力が要るんだぜ。きっとあとで発表になってみれば、日本の兵器研究所なんて向こうの規模に比べたら、まるで丸ビルの横丁に落ちているマッチ箱みたいなものだろう。多分何十万という労働者の力がこの一発の原子爆弾にこもっているよ。何十人か何百人かの女学生がこっそり紙と糊とで造った日本の秘密兵器とはけたが違うよ」
「材料といえば、一体何原子だろう? やっぱりウラニウムか」
「さあ、もしかしたらアルミニウムのような軽い原子じゃなかろうか」
「でもそんな小さな原子じゃ、解放される力も小さいだろう」
「しかし、ウラニウム原鉱は地上に少ないよ。これだけの大戦争に使用するためには、容易に手に入る元素がないと思う」
「なあに、ウラン鉱はカナダからいくらでも出るんだ」
「材料と関係のある話なんだが、一体どういう方法で、希望の瞬間に、大量一時に、原子爆裂を起こさしたものだろう」
「さあ、それだ。それが各国物理学者の知恵比べの焦点だったんだ。さっき、ローレンスの名が出たね、例のサイクロトロンで原子核破壊の第一人者だが」
「まさかあの爆弾の中にサイクロトロンを入れることはできまい。理化学研究所のを見てきたことがあるが、大きな建物一つほどのでっかいものだぜ」
「それをなんとか小型にしてさ」
「いや、高圧絶縁とか電磁石とかを考えれば、ちょっと小さくはされないね」
「ラジウムかなにかを使って、アルファ線のようなものを利用したら?」
「それとも宇宙線の中間子なんか利用できんか」
「あっ、思い出した。そうだ、フィッションだ」
「なんだ、なんだ。フィッションとは?」
「フィッションだ。核分割だ。マイトナー女史が見つけた、あの現象だ」
「マイトナー女史、あまり聞いたことのない名だなあ、どこ人だ?」
「オーストリア人だ。研究したのはコペンハーゲンでだ。やっぱりヒトラーから追われた学者の一人だ。ハン博士の助手だったが、今は六十歳をよほど越したお婆さんのはずだ。伊国のフェルミ教授の仕事に関連しているのだがね。ウラニウムの原子核に遅く飛ぶ中性子を当てると、ウラニウム原子がぽっかり二つに割れるのを見いだしたんだ。あまり速い中性子だと、原子核を単に貫通してしまってなんにもならないのだ。のっそり飛んできた中性子が原子核の中へもぐり込むと、もごもごしていて、突然核が二つに割れて離れる。そして核内に潜在していた巨大な原子力が解放されて噴出する」
「ほう。便利だねえ、中性子がありさえすりゃいいじゃないか」
「この時おもしろいことは、二つに割れた部分の質量が元の質量より減っているという事実なんだ。これはもう以前にアインシュタインが発表したエネルギーと質量の同等性という理論を事実において証明したもので、物理学の革命とも称すべき、科学界における最近の最も重大な開拓であったわけなんだね。つまり、核が二つに割れる際にその一部の質量が、いいかえれば物質が忽然として消滅し、それと同時に一定の同等量のエネルギーが発生するのだ。つまり原子爆弾のエネルギーがそれなんだ」
「物質がエネルギーに忽然こつぜんとして変わるんだ」
「そうだ。物質の質量に光の速度の自乗を乗じた積が、その質量のエネルギーなんだ」
「光の速度が約三百億毎秒センチだから、その自乗とは素晴らしく大きい数だが、一グラムの質量がエネルギーに変わるとすると、一体どのくらいになるだろう」
「まあ概略の計算をすれば、一グラムの物質がエネルギーに変わると、一万トンの物を百万キロ運ぶだけの力となるね」
「うへえ!」
「この浦上を潰した原子爆弾にしたところで、そりゃ原子もかなり大量に使ったろうし、いろいろな器械で、弾体は魚雷くらいの大きさはあったかもしれないが、正真正味消費せられた原子の質量は、おそらくは何グラムという小さいものだろう」
「すごいな。だがたくさんの原子核を一時に分割するには中性子をどうして発射する?」
「それがまた都合のいいことには、ウラニウム原子核がフィッションを起こすと、ガンマ線も出るが、大体二個の中性子も飛び出すのだ。そしてこの二個の中性子が、近くの核にぶつかってさらに二個所でフィッションを起こす。それから二個ずつ中性子が出て今度は四個の核を割る。次は八個、十六個、三十二個、六十四個」
「百二十八個、二百五十六個、五百十二個、千二十四個、二千四十八個」
「こうして最初は少し割れるが、短い時間後におびただしい数の原子が同時に爆裂する。これを連鎖作用というんだ」
「それじゃ、まず最初に少なくとも一個の核を割れば、あとはひとりでにそこにあるだけの原子が割れるわけだね。しかし厳密な意味では同時でなく、ある時間を要するわけだ」
「そういえば、爆圧の来たのが、一瞬間ではなくて、幾秒間か続いたようだった。最初少し弱いのが来て、急に強くなったと覚えている。その後に続いたのは反射干渉の結果の圧力だったろうけれども」
「日本ではこんなことを知らなかったのかい?」
「知ってたさ、僕だったこうして知ってるんだもの」
「じゃ、なぜやらなかったんだい?」
「マイトナーのこの実験は戦争の始まるよりずっと前なんだ。だからどこの国もやりかけたんだが、フィッションを起こすのはウラニウムで、そのウラニウムには同位元素のウラニウム―二三五と二三八とがあるが、二三五のほうがよく割れるんだね。もしウラニウムの中に他の元素が混入していると、それは割れないから、中性子が飛んできても、もうそこで連鎖作用は中断されてしまう。したがって、連鎖作用を完遂するためには純粋ウラニウム二三五だけの集まりを得なければならない。これがなかなか難事業だ。日本ではこのウラニウム二三五の純粋分離をやりかけたのだが、軍部から、そんな夢物語みたいな研究に莫大な費用を使ってもらっては困ると叱られて、おじゃんになったともれ聞いている」
「惜しかったなあ」
「すんだことは仕方がないさ。愚者を指導者にいただいた賢者の嘆きさ。それからね、核が分割して中性子が出るのだが、ウラニウムの塊があまり小さいと、外へ、すなわち空気中へ飛び出しちまって、これまた連鎖作用の終末となる。だから、ウラニウムの塊は十分大きくなければならない」
「純粋のウラニウム二三五を十分大量に得るというのは、容易な工業じゃないぞ。米国は持てる国とはいえ、随分苦労したろうなあ」
「米国の科学陣の勉強ぶりも想像されるが、また、これは放射能物質をあつかう仕事だから、たくさんの犠牲者が出ているにちがいない」
「犠牲者なくして科学の進歩はないさ」
「僕はウラニウムと思うけれどね、また新しい人工原子かもしれんとも考えられる。この方面の第一人者、ローマのフェルミが米国へ渡っているという話だから」
「とにかく偉大な発明だねえ、この原子爆弾は――」
 かねて原子物理学に興味をもち、その一部面の研究に従っていた私たち数名の教室員が、今ここにその原子物理学の学理の結晶たる原子爆弾の被害者となって防空壕の中に倒れておるということ、身をもってその実験台上に乗せられて親しくその状態を観測し得たということ、そして今後の変化を観察し続けるということは、まことに稀有のことでなければならぬ。私たちはやられたという悲嘆、憤慨、無念の胸の底から、新たなる真理探求の本能が胎動を始めたのを覚えた。勃然として新鮮なる興味が荒涼たる原子野に湧き上がる。
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原子爆弾傷


「先生、ガスを吸うたのでしょうか? 身体中なんとなく具合が悪くて、ふらふらして倒れそうです」
「先生、爆風を吸うたからでしょうねえ、なんだか、むかむかして吐きそうで、頭が上がりません」
「私は生き埋めになりましたばってん、傷ひとつ受けなかったのに、今日はもう死にそうな気がします」
 石垣の陰や崩れた建物の隅まで逃げてきたなり動きたくなくなった人々が、私にたずねる。私自身がそうなのである。まるで忘年会に底抜け騒ぎをした翌朝の二日酔いみたいな不愉快な状態である。酒をのまぬ人にこの気持ちがわからぬのなら、船酔いのときを思い出してもらえばよい。全身倦怠、頭痛、悪心おしん、嘔吐、眩暈めまい、脱力などという嫌な気持ちだ。これはしかし、私は以前にラジウムの実験に凝っていたころよく体験したガンマ線照射後の宿酔状態とそっくりだ。これはガスを吸ったのでもなく、爆風とも関係はない。ガンマ線の作用なのだ。ピカッと光を見た時に同時にガンマ線が身体中に突き刺さったのだ。しかもガンマ線は木造の日本の家屋なんか平気で貫通するし、コンクリート壁だって相当厚いものを突き抜けるから、家の中にいた者もみんなやられたのだ。
 中性子もやって来たのだから、この障害も起こるはずだ。これは文献で読んだことがあるけれども、私自身の実験はないから、今のところこれが中性子宿酔か否かはわからぬ。しかも必ず強烈な中性子障害が起こる。なんといってもここはガンマ線なんかより生物学的作用が強いから大変だ。しかもその症状が発現するまでに臓器によってそれぞれ異なるが、一定の潜伏期間があるのだから、今後いつどんな症状が出てくるか、まことに気味がわるい。私は原子爆弾―中性子―原子病―と考えてきて、何か戦慄を感じた。
 今日は患者の収容に暮れる。空はからりと晴れて魔雲は東方に去り、灼熱の太陽は地を埋める熱灰のほてりとの間に私たちをはさんで、浦上はまるで天火のかまどである。昨日炎を逃れ、死の手を脱し、無我夢中で突っ走った人々は、やれ安心と腰をおろした所が最後の地となって、そのままそこの岩かげ木かげに倒れたきり身動きもできなくなって、ある者はいつの間にか息絶え、ある者は末期まつごの水を求め、ある者はただ呻いている。途方もなく目当てもなく無茶苦茶に走っているので、いつどこに倒れているのやら捜すほうも方針が立たない。おーい、おーいと呼んでみては声のするほうへ行く。金比羅山だけでも何百人といい、あるいは何千人ともいう。
 まあ大した数の患者だ。県や市の衛生課、医師会、警察、みんなかねての計画どおり手際よく救護陣を敷いた。近郊の警防団がさかんに活躍している。大村の海軍病院も泰山院長の指揮でいち早く救護隊を繰り出した。久留米の陸軍病院も到着した。救護の本家と自称していたわれわれ大学が被救護者となり、哀れとも残念ともなんともかとも感慨無量である。それでも家を焼かれ家族も重傷の古屋野教授が代理学長として活動の中心をなしておられる。令息を二人まで失われた調教授がお骨も顧みず傷者の間を立ち回っておられる。そのほか大部分の職員学生が家族家財を失いながら踏みとどまって、救護と行方不明者の捜索と学内整理に懸命だ。角尾学長、高木医専部長は水の滴る防空壕の中に寝せられて、それでもやはり指揮をとっておられる。容態は次第に悪化する様子だ。山根教授も重傷の身を発見されて壕の中に寝ておられる。負傷者を次々防空壕内におさめる。敵機は相次いで来襲する。ピカッと来ればおしまいだから、爆音が聞こえさえすれば遠くても神経質に、みんな壕の中へ隠れてしまう。
 私たちは多くの死者を葬り、多くの傷者を診療した。そして原子爆弾傷に関する考察をだんだんまとめることができるようになった。

 傷害の原因は原子爆弾に直接よるものと、その爆発の現象に伴う間接のものとがある。直接傷害は爆圧、熱、ガンマ線、中性子、飛散弾体片(火の玉)によるものであり、間接傷害は倒壊家屋、飛散物片によるもの、火災によるもの、放射線によって変質された物質によるものである。また衝撃によって生じた精神異常も後者に属する。この原子爆弾が普通の火薬爆弾といちじるしく異なる点は、爆弾破片創がないことと、放射線障害を発すること、および、残留放射能をもって後日長く障害作用を続けることである。
 爆圧は言語に絶する強大なもので、爆弾に対して露出していた者、すなわち、戸外、屋上、窓辺などにいた者は叩きつけられ、吹き飛ばされた。一キロ以内では即死、または数分後に死んだ。五百メートルで母の股間に胎盤のついた嬰児が見られ、腹は裂け腸の露出した屍体もあった。七百メートルで首がちぎれて飛んでいた。眼玉の飛び出た例もある。内臓破裂を思わせる真っ白な屍体があり、耳孔から出血している頭蓋底骨折もあった。
 熱もずいぶん高温だった。五百メートルで、顔の黒焦げが見られた。一キロ内外で受けた熱傷はまったく特異のものであり、私はこれを特別に原子爆弾熱傷と命名したい。これは熱傷部の皮膚剥離を伴うもので、即時発生した。熱傷を受けた部分だけが皮下組織から剥離し、一センチくらいの幅に細長く裂け、その中途、または端で切断されることもあり、縮み上がり、少しく内方に巻き込み、ぶらぶらとぼろ布か塵払いみたいに垂れ下がっている。その色は紫褐色である。剥離部の皮下からは軽い出血がある。受傷時の感覚は熱感ではなく瞬間の激しい痛覚で、そのあとにいちじるしい寒冷感と疼痛を訴えた。剥離した皮膚は脆弱ぜいじゃくで、容易に断烈して除かれた。この種の熱傷を受けた者のほとんど大部分は速やかに死亡した。私はこの原子爆弾熱傷の発生機転をこう考える。熱輻射によって対弾露出部が熱傷を受け、組織が熱変化を起こしてもろくなり、皮下組織との結締繊維も弱くなる。熱輻射は秒速三十万キロだから、爆裂と同時に到達して、まずこの変化を与える。非露出部は皮下との結締繊維も健在である。次いで、かなり遅れて爆圧が来て、その後が真空になり、身体の周囲に陰圧ができる。その結果、身体皮膚は外方に強くひっぱられる。健康皮膚はそのまま残るが、熱傷部のみは剥離する。こんな機杼きちょは他の場合には起こらないわけである。
 一キロ以上三キロくらいまでは、普通火傷といわれる皮膚変化を見た。受傷の時熱感を覚えた者もあり、覚えぬ者もある。灼熱疼痛感があり、皮膚は速やかに発赤し、一時間ないし数時間後に水泡を生じた。ところがこれも普通の火傷と大いに趣を異にしているというのはガンマ線、中性子を同時に受けている点である。将来これはどんな経過をとるであろうか?
 飛散弾体片が火の玉となって降った。大きさは指頭大から小児頭くらいまで、青白い光輝を放ち、しゅうとうなって落ちてきて、皮膚に壊死えしを起こす程度の火傷を与えた。倒壊物の下敷き、ガラスなどの飛散物片による創傷、火災による焼死などは普通空襲にも見られるところと同じだが、同時刻に広範囲に発生したのが特殊な点であろう。
 ガンマ線や中性子による障害で早期に発現したものは、前に話した原子爆弾宿酔のほかに尿量減少、唾液分泌減少、汗分泌減少、性欲喪失であった。
 狭い防空壕の中に、身動きもできぬほど、死者も傷者も元気な者もくっついて寝ている。傷者の呻きがなくなると死んでいる。原子理論も死傷者の分類も朝から論議が続き、夜になると皆疲れて黙りこんでしまった。黙っていると昨日からの恐ろしい情景が次々と眼前に浮かんできて、夢ともうつつともつかぬ不安の境に心はさまよう。壕の天井から滴る水が気味悪く時を刻む。真夜中ごろであったろうか、私を介抱していた婦長さんが、うとうととして夢を見たものとみえて、いきなり私をゆさぶって「大柳さん、大柳さん」と、昨日死んだ看護婦の名を呼んだ。

 八月十一日。暁の涼しいうちに患者を陸軍病院に運び終わり、身軽になってほっとする。生きた者の収容は終わり、今日は屍体捜しと火葬である。あちらこちらから赤い悲しい炎が立つ。二人、三人それを囲んでぼんやりしている。私たちも山下君たち五人を葬る。尊い生命がこんなに簡単に処理されて果たしてよいものであろうか? 板片に鉛筆で小さな墓標を書いて立てた。墓にそなえる草花はない。
 異変を聞いて駆けつけた学生や看護婦の父兄が、いとしき者の名を呼びつつ焼け跡をさまよい、似た後ろ姿を見つけては追いかけ、生き残った同級者を見いだしては泣いている。まことに哀れというもおろかなこと、貰い泣きをしながら一緒に捜す。多くは屍体が見つからず、この教室で死んだはずと聞いて、そこに並んだ黒骨を拾って拝むばかり。たまたま見つかるものは、顔はそれと見分けのつかぬほどに変わり果て、わずかに服の端の縫い取りの名にそれと確かめ、泣くのも忘れ、凝然と、そばに棒立ちになったまま。
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三ツ山救護班


 長崎市の北に美しい三連峯の蒼山がそびえていて、地図の上では黒岳といい、市民からは三ツ山と呼ばれている。その裏の谷に、昔から火傷に効くので有名な鉱泉が湧いている。木場六枚板の湯と称せられ、大正のころには小さい湯宿もあった。私たちは、このおびただしい熱傷患者の収容処置は鉱泉療法にしくものはないと考えた結果、この木場に救護班を開設することになった。
 遺骨を胸に、十二日浦上を出て三ツ山の渓に入ってゆく。灰の視界はたちまち一転、満目碧玉まんもくへきぎょくのごとく青嵐颯々せいらんさっさつとして生気躍動するを見る。皆は幾度か立ち止まっては深呼吸をして戦塵を吐き出した。五体一呼吸ごとに清浄となりゆくを覚える。木場郷藤ノ尾の一軒家を救護班本部に借りる。まず一同は屋前の林をくぐり、渓流に下り立ち、岩に衣をかけて、激しく流れる清冽せいれつの水に身体を沈める。岩を枕に水布団、そのまま空を仰げば両岸高くせまり、緑樹互いに交叉して蝉の声雨のごとく、わずかな青空を白雲が悠々と去来する。嗚呼ああわれ生きてあり、われ生きてあり。私は戦地で詠んだ、

今日もまた生き残りたる玉の緒の生命尊く思ほゆるかも

を思い出し幾度も詠んだ。水から上がって拭きながら見て驚いた。右半身は小さなガラス傷が数えたくもないほどである。気がついてみると、どれも痛い。血まみれの衣を洗い、それを岩の上にひろげて、乾くまで緑陰に眠る。初めて熟睡の快を味わった。眼がさめてみると看護婦たちも軽いいびきをかいている。ずいぶん疲れているらしい。
 夕方から巡回診療、戸別訪問をする。町内会長の岡村さんをたずねたら、まず本人が重傷で寝ておられ、どの家にどれだけの傷者が走り込んでいるか見当がつかぬというのである。
 篤農家の高見さんの家へ行ってみると、「この家には百人以上浦上から避難して来ておられます」と、小母さんが南瓜を十ばかり汗をふきふき切りながらいわれる。純心女学校の校長先生以下たくさんの怪我人が、蝿よけの蚊帳かやを吊って寝ておられる。次々と死んでゆくので、小父さんは今日も墓掘りに朝から留守である。負傷者は現場から担がれてきたきりであり、傷の手当ては何もしていない。ただその上をありあわせの布切れで巻いているばかり、多くはすでに化膿して、こびりついた布を引き剥ぐと同時に腐敗臭のある膿がどろりと出る。傷も周囲も少し手荒くクレゾールで洗い潔めて、傷の中を探ると大きなガラス片が入っている、障子の桟が刺さっている、コンクリートのかけらが隠れている。なれた私たちではあったが、ぞっとする。一人でこんな傷を十も二十ももっているのだから大変だ。一人でいちばんたくさんあったのは百十傷であった。傷を洗い、異物を取り除き、整形縫合し、薬をつけて、繃帯を巻き上げるまでには、一人の患者にずいぶん時間をとられる。熱傷も無残な姿だ。皮膚が大きくべろりと剥げて、赤い皮下組織が痛々しくあらわれている。多くは顔と胸と腕とである。顔などは化け物のように腫れ上がり、ものいうのも難しい。傷に油を塗っているのは救護演習で教えられたとおりで経過もよいが、馬鈴薯をすって塗ったのや、南瓜を張ったのや、粘土を被せたのも多くてむごたらしい。傷を消毒して、六枚板の鉱泉で温あん法を命じた。一軒を済ませて畑路伝いに隣へ行けば、もう蚊帳を吊っているのが見えて、ここにも怪我人がいるわいと、勇み立つ。
 夜十時、犬継地区を全部診て回り、まむしをいましめながら山路を藤ノ尾の本部へ帰る。草はすでに露にしめり、ちんちろりんが渓を隔てて鳴き合っている。北斗はいつしか傾き、三ツ山の上に大きくさそり星が伸び上がっている。昨夜焼け跡の防空壕から仰いだアンタレスは不吉な赤さで搏動していたが、今夜この平静な渓間から望めば、何か親しみたい気を起こさせる。だれもが黙って歩いている。死んだ友も一人一人なつかしい。生き残ってこうして一本の畑路をゆく友も一人一人いとしい。私は再び首を上げて、はるかに低い乙女星を捜した。青い、澄んだそのつつましい光に向かって、美しく死んだ看護婦たちの冥福を祈りたかったから。
 十三日。今日もからりと晴れて暑い。六時、下の渓流に降りて顔を洗い、そのまま六枚板地区に行く。この日、六枚板、赤水、とっぽ水、踊瀬の四地区、工程八キロの予定だから、朝飯前に一地区を済まそうと思って行ったのだったが、来てみると怪我人は意外に多く、救護班の来たのを伝え聞き、次から次と集まってきて、とうとう十時までかかる。
 篤農家の松下さんの家ではいつのまにか朝ご飯の支度をととのえてくださっていて、私たちが手を洗い終わったら、どうぞこちらへといわれて、驚いたり、恐縮したりだった。畳の上に座り、お給仕されて、白く湯気の立つご飯を手にしたら、思わず涙がこぼれた。生きてあればこそ、生きてあればこそ。さあさあ、元気を出して村中助けてもらわねばなりませんから、うんとお上がりくださいよ。朝飯と昼飯と二度分つめておいでなさい。上手にすすめられ、一同しみじみおいしくいただいて、ここを辞す。
 赤水地区を終わって出ようとすると、すごい爆音だ。じっと岩陰にくっついている。ぴかっと光ったらおしまいだ。光るなよ、光るなよ、と祈っている。これまでの爆弾や機械掃射なら油断さえしておらなければまず大丈夫だが、今度のぴかどんだけはまったく対策がないのだ。いつ、どこで、ぴかっとやるか予想ができない。光ったら最後幾キロ平方内の生きとし生ける者はやられてしまう。神経質にならざるを得ない。爆音遠ざかる。一同路上にあらわれる。警戒行軍、一列になって路の一側、路上に影を落とさぬほうを通る。私たちは皆家を焼かれ、寄宿舎を焼かれ、住む所も着る物も、世話してくれる肉親をも失った者ばかり。廃墟から出てきたままのみじめな姿で、巡回診療しているのである。知らぬ人が見て、どうしてこれが教授、助教授以下、大学の一教室と認めるであろうか? 繃帯をぐるぐる頭に巻いて、それに今日新しい血のにじんでいる者。脚の怪我で苦労しながら歩いている者、胸を打たれてまだ呼吸の深くされない者、放射線障害で蒼白な者、眼鏡を失って足もとのおぼつかない者、竹杖をついている、友の肩に支えられている、手を引いてもらっている、草履をはいている、杉下駄をひっかけている、ゴム長靴をだぶだぶ鳴らしている。血のついたもんぺ、裂けたシャツ、切られたズボン、はち巻き、頬かむり、鉄兜、それに偽装の青草を挿して。
「哀れじゃのう」長老がうなる。
「世が世であれば」長井君が溜息をつく。
 これはまさしく敗残の兵である。しかしながら依然大学の一教室である。あくまでも真理探求の一念に燃え、諸人救護の悲願を立ててかかる肉体をもって、灼熱の中、爆音の下、傷者を捜して歩みゆく私たちは、依然大学の一教室である。真理探求こそは我が生命、これさえ熱烈ならば外観のみじめさなど問題ではない。原子は初めて人類の頭上に破裂した。いかなる症状を惹起するか、今私たちが診察している患者こそは、医学史におけるまったく新しい資料なのである。これを見逃すことは単に自己の怠慢にとどまらず、貴重な研究を放棄することになり、科学者として許すべからざるところである。私たち自身もまたすでに原子病発生の徴候を自ら感じているから、安静を保たずこうして歩き回れば、あるいは症状憎悪して死に至るか、至らぬまでも危篤に陥るかもしれないが、しかもなお、学問的良心は私の身体を鼓舞し、患者を診よ、正確に観察し、実態を把握せよ、そして良き療法を考察せよ、と激励してやまない。実験器械はなく、検査用具もない。紙も持たねば鉛筆も失っている。わずかにメスとピンセットと、縫合針と、いくばくかの消毒薬と繃帯材料が、葦の葉であんだ買い出し篭に入っているばかり。しかしながら我に頭脳があり、眼があり、手が備わっている。私たちは何ものかを獲るであろう。
「爆音近し、伏せろ」
 がばと伏せるすすきの中、むっとする草いきれ、蟻があわただしく目の前のすすきの葉をのぼってゆく。
「頭上通過、出発」
 よろよろと路上に立ち出でて急ぐ。陽はかんかん頂を照らしつける。
「また爆弾、戦闘機、向こうの岩陰まで走れ」
「薬瓶を割るな、後がないぞ」
 退避したり、走ったり、疲れて木陰に休んだり、時計を見てこうしてはおられぬと立ち上がって、まめのため踏みつけるたびに痛い足せきにひやひやして小石路を歩いたり、一つの地区から次の地区へ移るのに意外に暇どって、身体も疲れるが気力も疲れた。
 患者は予想の五倍もいた。どの家にもいた。どこの人かわからぬが走り込んで倒れたなりなので介抱しています、というのもある。家のない竹薮の中にむしろを張って転がっている者もある。繃帯材料はなくなった。婦長さんと椿山君とが二里の焼け路を大学まで補給に行く。今度ぴかどんがきたら永遠のお別れだね、と冗談とも真剣ともつかぬ挨拶を交わして谷を下っていったが、夕方元気な姿とふくれた買い出し篭とを、首を長くして待っている私たちの前にあらわした。大石看護婦も来た。大石君は兄戦死の公報が来てちょうど八月九日に郷里へ帰っていたのだが、大学潰滅の悲報を聞くや、教室員を救護しようと北松浦から駆けつけてくれたのだった。「せめて先生方のお骨にでも会いたくて」といいかけ、ぼろぼろと涙を流した。
 元気一杯な大石君が加わったので仕事は活気づいて、夜の十時までに予定の地区を終わり、藤ノ尾に帰りついていろりに火を焚き、馬鈴薯と南瓜を煮る。いろりを囲んで今日診た患者の病状の検討をする。もうすでに重篤な放射線障害がまず消化器にあらわれたように思われる。口の周囲に膿泡疹ができ、口内炎を起こしてきた患者が、どうも今までに見たことのない所見である。活発な論戦がいろりにほたを折りくべながら展開されているうちに、いつしか南瓜と馬鈴薯はおいしそうな湯気をふき始めていた。

 十四日。畦別当、川床、飛田、小谷の諸地区、行程九キロ。路は羊腸ようちょうの小径とまでゆかないが山腹を登り谷間に下り、点々と散在する家をつなぐ。あんな高い山の上の一軒家へと足を思わずためらうが、しかしあの家に貴重な症例がもしあるとしたら見逃すことが許されるものかと、杖持つ手に力をこめて一歩一歩登って行く。行けば喜ぶ家族の騒ぎ。怪我人は、ああ、お医者が診てくださるからきっと助かる、と自分で不自由な手を動かして繃帯をとき始める。台所では早速とんとんとんと胡瓜を刻む音がする。手当てが済んだらお茶のご馳走が出るだろう。
 大事な学問のために、患者を助けるために、家族の喜ぶさまがうれしさに、地区から地区へ巡礼のように歩いたが、さすがに夕陽のあかく差すころには、空腹と疲労と疼痛とで皆はすっかりへたばってしまった。二人ずつ手をつないで、もう口をきく者もなく黄昏たそがれの山路を帰る。ぶうっと、いきなり長老が一発発射した。婦長さんが「おほほほほ」と笑って走りだした。「まぁひどいわ」と豆ちゃんがいう。「かまわん、かまわん。ロケット推進器たい」と長老がこともなげに片づけ、「この勢いで前進するんだ」と、また発射した。今度はあまり音がよくない。「過酸化水素が不純だな」長井君がひやかした。「製造機はまだ大丈夫なんだが、原料不足だから」応酬ごとにひと笑いして、路はいつしかはかどっていた。
 夕月が淡くかかっている。「日暮れて道遠く」清木教授がひとりごとをいった。その時、さっきから具合の悪かった私の右脚が痙攣を起こした。私はどたりと路の上にひっくり返った。みんな集まって盛んにマッサージをやってくれる。月は次第に傾き、あたりはいよいよ暗くなった。人は通らない。藤ノ尾まであと三キロ。三十分もしたら筋肉は柔らかくほぐれた。私は豆ちゃんの肩に支えられて、ことりことりと歩を運ぶ。一キロ行ったら豆ちゃんが弱りこんでしまった。そこで豆ちゃんを樽ちゃんと大石君が腕組みして助け、私は長老におぶさった。
 高見さんの家まで一同やっとたどりついて一息入れる。小母さんが、「まあまあ、こんげん遅くまで」といいながら、すぐに夕飯を並べてくださった。もう遠慮などできる胃の腑ではなかった。むせたり、咳こんだり、まるで小犬のように、ご飯と南瓜と馬鈴薯と梅干とを口の中に投げこんだ。

 十五日。聖母被昇天の祝日で、木場天主堂(現在の三ツ山教会)では早暁のミサが立てられていたが、爆音がすでに空をかすめたので式は途中で中止となり、清水神父様は聖体を急いで裏の防空壕に奉遷した。私たちはそれからすぐに犬継地区の治療にとりかかった。今日はいよいよ体力の尽き果てた感じで、どうかすると、私たちがいちばん重症者じゃないかしら、患者はこんなにしゃべるのに、私たちは返事ひとつするのさえ考えるほどだ。死にゆく人は相つづく。今日あたりが怪我人の峠のようだ。戦争だ、頑張れ、と互いに励まし合って働く。
 朝早く大学本部へ食糧補給に出かけていった長老が、まだ夕方早くあたふたと帰ってきた。米の袋と味噌の包みと罐詰とは大いに歓迎するところであったが、その後で口から出した情報こそは!
「戦争はすんだらしい!」
「……それで、条件は?」
「無条件降伏、ポツダム宣言全面受諾」
 一同黙然。
「うそだろう」私がいった。
「市内は大混乱です。うそだといい張る者とほんとうだという者と。正午に重大放送がありました。ガーガー鳴ってよく聞き取れなかったけれど、『朕は…』とか『朕が』というみ言葉がちょいちょい混じっていたので、あれは陛下ご自身のお声だという人もあり、そうかと思うと憲兵隊がトラックで市中を乗り回して、正午のは敵側のデマ放送だから信ずるな、あくまで本土決戦だ、と怒鳴ったり、わけがわからぬのです。戦争がすんだと話をして、傍らにいた青年から叩かれた人も相当多いようです」
 みんな不機嫌になって、黙りこんで傷に向かう。本当だろう、否、うそだろう。デマにちがいない、いや、ひょっとしたら真実だ。頭の中を車が回るようだ。治療を終わった手を洗ったのが、今日もまた十時。長老が担いできた罐詰で簡単な夕飯をしたためる。腹は空いていたがうまくない。

 十六日、時限原子爆弾が落ちてきた。小さなウラニウム弾だった。時計仕掛けになっているので、カッチカッチと鳴っている。あと五分たったら爆発するんだ。しかも、ここに落ちていることを誰も知らない。私は焦った。これを退治せねばならぬ。幸い手に竹槍を持っていた。これで私はエイと叫んで突いてみた。竹槍は何の手応えもなく、ぐにゃりと折れた。横に竹槍が並べてある。それを取っては突き、取っては突くが、原子爆弾は頑固な奴で、ぐにゃぐにゃと竹槍を曲げてしまう。私はいよいよイライラして、エイ、ヤッ、エイ、ヤッと突く。呼吸が苦しくなり、汗がじっとりしてきた。爆弾はまさに爆発せんとする。私はもう恐怖のどん底に突き落とされた。ガラガラッと轟音がした。ピカッと光った。かっと顔に光線が当たった。私は、やられたっ、と叫んだ。
「部長先生、部長先生、どうなされました」
 婦長さんの顔が私の見開いた目の前にあった。豆ちゃんが今雨戸を開けたところで、私の顔に朝陽が差している。
「まあ、熱がある」婦長さんが私の額に手を当ててみて、手拭で汗を拭いてくれた。起きようとして私は眩暈めまいを感じ、さらに右脚が痛んで動かせぬのに気づいた。婦長さんは脚をしらべていたが、「まあ、傷が皆化膿しています。なぜこんなになるまで黙っていらっしゃいました?」と責めた。「戦争だもの」と、私も負けずに答えはしたものの、今日は起きることもできぬ。皆は私の傷の手当てをしたり注射をしてくれたりして、川平のほうへ出ていった。椿山君が正確な情報を得るために市中へ下った。私は一人うなりながら、うとうとと留守役。
「部長先生!」
 椿山君が帰ってきていた。暗い顔をして一枚の新聞紙を私に渡す。私は受け取りながらちらっと見てしまった。見るべからざりし文字を、この数年、この文字を見ることなかれ、と戦いつづけてきた文字を!
「終戦の聖断下る」
 日本敗れたり!
 わっと声をたてて私は泣きだしていた。涙はあふれて耳を塞いだ。二十分、三十分、私はまるで子供のように泣きつづける。涙は涸れたが、やっぱりむせび泣きをしていた。椿山君も畳に突っ伏したまま肩を震わして泣いている。夕方早く、救護に出た仲間が帰ってきた。その顔を見たら、また、わっと私は泣きだしてしまった。皆、手と手を取り合って泣く。いつまでもいつまでも、陽が落ち、月が差しても泣きやまない。そのまま飯も炊かず、茶も飲まず、何も考えず、何もいわず、牛乳のように白く濁った頭を涙の海に沈めて、泣きつづけた果てに、昼の疲れがどっと出て、眠りに落ちてしまっていた。

 十七日。〈国破れて山河在り〉障子を開けて山に向かう。三ツ山は泰然としてもとのごとく、白雲去来するをさえ気にせぬ。栄枯盛衰また一片の雲か、神国不滅の不動の信念は一瞬に崩れ去って、夏晴れの朝空ほしいままに米国機の跳梁に委ねるのみ。グラマンが来る、ロッキードが来る。みんな低空低速、悠々と見物してまわっている。B29のあっとたまげるほどの図体が三ツ山すれすれに飛び去った。
 もう戦争はすんだのだ。私たちは負けたのだ。今日は何もせずに寝て暮らそうやと、朝飯を終わると皆はごろごろ転がって、雲を見、森を見、飛行機を見ていた。まったく何をする気にもならぬ。茶碗も皿も、そのままいろりの端に並んでいる。
 患者から迎えが来た。国敗れて何の患者ぞや。今日は一億が泣いているのだ。一人や二人の患者の生死が問題になるものか、そんな患者を助けたところで、今さら日本が立ち上がるものじゃなし。断れ、断れとばかりすげなく断ってしまう。今日は皆むかむかして、何かあれば喧嘩を吹きかけたくなっている。
 使いの者は、ああそうですかと力なくいい、すごすごと帰っていった。私は寝ころんだまま、そのさむざむとした後ろ姿が茗荷畑の中を遠ざかって行くのをじっと見送っていた。
 私はむっくり起きなおり、豆ちゃんに今の使いの人を呼び返してくるように頼んだ。心機は一転した。一人の尊い生命をこそ助けねばならぬ。国は敗れた。しかし傷者は生きている。戦争はすんだ。しかし、医療救護隊の仕事は残っている。日本は滅んだ。しかし医学は存在している。私たちの仕事はこれからではないか。国家の興亡とは関係のない個人の生死こそ、私たちの本務である。敵味方の区別は、本来赤十字にはないのである。日本が個人の生命をあまりに簡単に粗末に取り扱ったから、こんなみじめな目にあったのではないか。個人の生命を尊重し、ここに私の立場をつくる一つの礎石があるのではあるまいか?
 勝つために負傷したはずだったのに、今は負けるために負傷したことになっているこの人々こそ、最も残酷な悲嘆の淵に投げこまれたのである。これを慰め、救い上げる者は我をおいてほかにない。我立たずんばといいながら、私はよろよろと立ち上がる。さらば我もと皆立ち上がる。活気は再び私たちの間に満ちてきて、顔面皮膚がおのずから緊張する。戦争だ、何が何でも理屈なしに頑張れと強いられて動くのではない。この一人の生命を救う者は我のほかにあらず、と自ら進んで出てきたのである。五体はもちろん疲れた上に疲れ、手当てを怠らぬとはいうものの、傷の痛みは一歩ごとにこたえる。
 青い星のマークも鮮やかに戦闘機が頭上をかすめる。しかし今日は何の事もおこらぬ。私たちは大きな塊となって道を行きながら、米国機の通るたびに一種の張り合い抜けを感じた。

 十八日には連合軍上陸、婦女子避難のデマが飛び、家財をもった日本人が狼狽して走る、哀れとも滑稽とも形容のしようのない状態を見せた。その後幾週か降伏後の混乱はいろいろの形をとって私たちの周囲に渦を巻いた。しかし、私たちは天涯無一物、奪わるべき何物をももたず、ただ救うべき多くの傷病人をかかえていたのであったから、一途に巡回診療を続けていた。東海より朝日差すところ朝雲高くそびゆる富岳ふがくをもって象徴せられた日本は滅亡した。大和民族は最低の奈落に突き落とされた。私たちは生きて恥をかくばかりである。原子爆弾にこの世を去った友らこそ幸いなるかな。私たちの内的苦悩は深かった。毎日、夕飯を終わってから、月明るき宵は縁に出て、雨が背戸の山茶花に音立てる夜はいろりのはたで、しみじみと語り、またいきおいこんで論じた。われらの道どこにありやと。しかし昼は世の混乱に超然として、相変わらず一人の生命を問題として診療に専心した。
 恐るべき原子病は、相次いで私たちの患者の中に、また、元気だった難民の間に、そして私たち自身にも発現した。そのある症状はかねての放射線実験から予想されたところであって、むしろわれわれの予測の適中を誇りたい気さえ起こさせたが、ある症状のごときは意想外の時期に忽然多発して、われわれをして困惑せしめた。私たちはかくのごとくにして、十月八日までの二か月間、三ツ山救護班を開設していたのである。
 班員は次々と病床に倒れた。原子爆弾傷と過労と栄養不良とは、私たちの体力を極度に消耗せしめた。施先生は白血球が二分の一になってしまった。森内君は溢血斑を生じた。婦長さんは毛が抜けた。倒れた者はうなって留守居していた。診療から帰った友が徹夜で看病してくれて、夜が明ければまた灼熱の谷道を、一日平均八キロの行程を、相変わらず家から家へ、地区から地区へと巡回するのだった。臥していた者がようやく回復して起き上がるころには、看護した友のほうが熱を出して倒れた。いたわりいたわられ、注射をしてやり、してもらい、咽喉が渇くといえば、遠い谷間から岩清水を汲んでくる。ご飯がうまくないと聞けば、患家でくれた二つの山梨をポケットへ入れて帰る。注射薬を捜しに往復六里の山道を長崎まで出かける。
 私は九月二十日に危篤となり、完全に絶望状態に陥った。原子病が発現し、高熱が一週間ばかり続いたが、飛田という山の上の集落から往診を求めてやまず、行ったら死ぬだろうとは知っていたけれども、無名の一市民のためにささげてこそ真の生命の犠牲だろうと思いなおし、出かけてはみたものの足が叶わず、途中川床集落の純心修道会の壕舎で休ませてもらい、院長さんから「知らん、知らん、そんな無理ばかりして」とたしなめられ、やっとのことで往診だけ済ませ、夜遅く家にたどり着くなりどっと床に臥して、それからは石を谷間に蹴落とすように病勢が進んだのだった。苦しい昏睡からふと正気に返ってみると呼吸がおかしい。われとわが呼吸を聞いてみると、シェーンストーク型ではないか。臨終数時間前から始まる特別な呼吸。私は「シェーンストークねえ」といった。枕元に座っていたのは富田先生だった。もと教室で研究中応召されたのだったが、いつのまにか来てくださっていた。先生は困った顔をして「はあ」といわれた。「遠いところを先生、すみません」と私は手をのばした。森田婦長さんの顔が見えた。「先生、大丈夫ですから、じっとしていらっしゃいよ」と、婦長さんが力強くいって腕に注射をしてくれた。この痛さから考えるとコラミンらしい。それならば脈も弱いのだろう。胸の中で空車が回るような心細い苦悶がある。しかし婦長さんが大丈夫といってくれたから大丈夫だろう。首も動かせず、眼もあきかねるが、なんだか大勢の人が集まって、ひそひそ話をしたり、ざわざわ立ち騒いでいるような気配がする。「施先生は?」私はなにか気が弱くなって尋ねた。婦長さんが「今ちょっとお留守、すぐお帰りです」と答えた。「そう」と私はいい、それなりまたも昏睡に陥った。施先生はこの時、私を助けたい一心から、古屋野教授を訪ね、調教授を問い、影浦教授に乞うて、あらゆる知恵と薬品とを頂くべく、朝から夕方まで走り回っておられたのである。私の症状を逐一聞いて、どの先生も、それならもう絶望だと申されたそうである。昏睡に陥っている私の知らない間に多くの友が駆けつけ、走り回り、私のこの一人の生命を助けるために大いなる犠牲をささげてくれているのだった。
 田川神父様がおいでくださった。私は最後の覚悟をした。そしてまったくいつ死んでもよい状態にあった。昏睡からさめてみると、それは午後のようだった。私の友は皆、枕元にいた。私はうれしかった。こんど痙攣がおきたらおしまい。そう知っていた。心臓はもう苦しがっていた。障子が開けてあった。三位一体を象徴する三ツ山は泰然としている。空はもう初秋らしく澄みわたっている。

光りつつ秋雲高く消えにけり

 私は二度言い遺し、そのまま最後の昏睡に落ちていった。――それから一週間後、私が危篤状態から脱したとき、これを奇跡と認めぬ者はいなかった。
 私たちを結んでいた友情はいかに深いものであったろうか。夜はカンテラに灯をともして、虫のすだくこの一軒家に、亡き友の冥福を祈るのだった。高見さんからとんご柿を頂けば井上君のくるくる目を思い出し、原田さんが鎮守祭のお餅をくだされば浜君を偲び、篭屋の小母さんがほおずきを霊前に供えてくだされば山下君の赤い鼻が目に浮かび、松下さんからお芋を貰えば大柳君や吉田君があの時畠に行かなければよかったのにと悔やまれ、藤本君や片岡君や小笹君が一緒に私たちとこうして食べているのなら、どんなにかうれしいだろうと、つい涙ぐむ。
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原子病


 原子崩壊の際に発生する放射線の生物体におよぼす作用については、過去においてすでに各種動物実験や臨床経験によって明らかとなっている点が多い。大量の放射線を短時間照射した場合と、少量を長月日にわたって与えた時とでは反応は異なるが、とにかく放射線は生体組織細胞に対し破壊作用をおよぼすもので、その結果組織は退行変性を起こしてくる。ただし変化があらわれるのは即時ではなく、それぞれ臓器によって異なる一定の潜伏期間がある。だから放射線を受けた時はなんの苦痛も傷害もなくても、後日症状があらわれる。しかも放射線が体内に貫入する時には神経を刺激しないので、本人は気がついていないわけで、症状があらわれて初めて放射線を受けたことを知るのである。放射線に対して抵抗の強い臓器と、鋭敏に変化する臓器とがある、最も弱い、すなわち、いちじるしく障害されるのは骨髄、淋巴腺、生殖腺である。骨髄は血球を製造する器官であるから、ここがやられると血球ができなくなり、白血球や赤血球の減少が起こる。障害の程度がひどいと骨髄が変性してしまい、その結果、まだ未完成の血球をどしどし血液中に送り出すようになり、異常白血球が増して、白血病になる。少量ずつ長期放射線を照射される場合、特に白血病が起こりやすい。淋巴腺で変化のよくあらわれるのは、たとえば扁桃腺で、これが壊死に陥ることが多い。生殖腺に障害が起こり、性欲喪失、精虫欠乏、無月経、不妊などをみる。流産、奇形児等もみられることがある。乳房も小さくなる。次に弱いのは粘膜であって、充血し、炎衝症状を呈し、ひどい時には潰瘍をつくる。たとえば消化器粘膜では口内炎、胃炎、腸炎が起こり、赤痢によく似た下痢をする。それから毛根乳頭もおかされて脱毛する。しかし、これは回復するものである。肺は肺炎を起こし、腎臓は萎縮の像を呈する。副腎がおかされると皮膚がうす黒くなってくる。全身症状としては、照射後数時間にして発生する放射線宿酔があり、これは数日間つづく。同じ照射を受けても若い者ほどいちじるしい障害を受ける。若い人は死んでも老人は生き残るということがある。
 放射線にはそれぞれ一定の致死量がある。しかし、障害のあらわれるのには細胞それぞれ一定の潜伏期があるのだから、即死ということは起こらない。致死量以上の照射を受けた者はどんな手当てをしても助からない。大量であればあるほど症状が激烈で、早期に死亡してしまう。
 原子爆弾の原子病は果たしてどんな症状を呈したかというと、大体以上略記した過去の放射線医学の知識に一致するものであった。原子爆弾の場合に作用した放射線は、爆発時に大量飛来した中性子とガンマ線と、その後長く爆心地から風下、すなわち東方地区に残留した放射能とであって、その作用には厳密にいえばそれぞれ差異があるのだが、いちばん強力だったのは中性子であり、微弱ではあるが厄介なのは残留放射能、すなわち七十五年生息不能説の本態である。世間でガスを吸ったとか爆風にあったとかというのは、実はこの放射線によるものであって、病は口より入るものとのみ思っているからそんな解釈をするのであるが、放射線は全身どこからでも平気で体内へ進入して暴威を逞しゅうするのだ。
 原子爆弾の原子病をその発現の時期に従って述べてみよう。まず被爆後三時間くらいしてから放射宿酔が感じられ、二十四時間後が最高で、のち次第に軽快していった。第三日目ごろから消化器障害があらわれ、多くは一週間後くらいに死亡した。軽度の者では下痢が長くみられた。第二週に出血をみた者があらわれた。これは血液障害で多くは死亡した。第四週に白血球減少に伴う重篤な症状があらわれ、多くは死亡した。脱毛は第三週ごろからみられた。生殖腺障害は初期から十週以上つづいていた。小児はすべて大人より早く発現して症状も重かった。さて、現在なお爆心地には少量の放射能があり、住民の白血球は増加している。
 重要な所見だけ述べてみよう。宿酔については原子爆弾傷のところで述べておいた。消化器障害についてはまったく動物実験の結果と一致していて、粘膜の充血性ないし潰瘍性炎衝である。爆心一キロ以内の倒壊家屋内に埋没されていたのを救い出され、九死に一生を得て喜んでいる人々が、第三日ごろに口唇周囲に大豆大の膿泡疹を生じ、翌日から口内炎ができ、口痛のため飲食困難となり、発熱した。さらに、その翌日には食欲不振、腹痛、下痢等の胃腸炎の症状が起こった。下痢は初め水様であるが次第に粘液を混じ、のちには粘血便となった。裏急後重があり、体温は四〇度以上にのぼり、赤痢と誤られたこともあった。全身衰弱いちじるしく、一週間ないし十日で死亡した。軽症の者はただ下痢、食欲不振を訴えた。残留放射能によるものもあって、被爆後十日間ぐらいは、浦上を通過しただけで下痢を起こすという話さえあった。
 出血死は第二週に少数例が観察された。突然じっ血、吐血、下血、創傷再出血を起こして死亡した。これは還流血液中の血小板が破壊され、出血性素因を生じたものと思われる。兎での実験がある。
 朝には秋冷を覚ゆる九月に入ると、降伏後の混乱もおのずから鎮まり、患者も大体助かるめどがついてほっとした。ところが五日ごろ、すなわち被爆後第四週に入るや、突如重篤な白血球障害があらわれ、死亡者続出し、一同を恐怖の底に叩きこんだ。一キロ内外の距離にあって、多くは家の中などにいてなんの創傷も受けず、その後軽い下痢くらいはあったが、元気で他の人の看護や焼け跡整理に立ち働いていた人々が、全身倦怠、皮膚蒼白の前駆症をもって発病し、体温は四〇度以上に上昇し、そのまま稽留し、口内炎を起こし、歯齦潰瘍ができ、後それは壊死し、咽頭義膜、潰瘍性扁桃腺炎を惹起し、飲食不能となる。皮膚に点々小豆色の溢血斑を生ずる。初め躯幹、上膊にあらわれ、後には大腿に多発する。その大きさは止針頭大から米粒大ないし小豆大におよび、時に指頭大に拡大するのもある。疼痛、掻痒そうようは伴わない。白血球はいちじるしく減少し、二千以下になった者はほとんど助からなかった。その経過は奔馬のごとく、平均就床九日で死亡した。
 珍しい例は間接障害で、爆裂時に放射線を受けた草木のうち二キロないし七キロのものは赤く焼け枯れ、また爆裂後に降った大粒の雨の付着した草の葉は枯れた。爆撃の翌日、川平地区で二人の農民がこの枯れたかやを刈って担いで帰ったところ、その翌日草の当たった両手両足および肩にかゆい紅色の丘疹を生じ、それはかぶれに似ていて数日で治った。
 爆心地の残留放射能の影響はどうであるか。爆裂当時浦上にいないでなんら損傷を受けず、いわゆるぴかをも受けていない人々が、爆心に居住してどんな症状をあらわしたか。これを調べるために、私は十月で三ツ山救護班を閉鎖すると、爆心地上野町に壕舎を建てて、その中での生活を始め、周囲を注意深く観察しつつ今日におよんでいる。
 爆撃直後には爆心には著明な放射能が証明された。その放射源となったものは原子分割によってできた新しい原子であって、初めは空に爆発雲として浮かんでいたが、次第に地上に沈降したものである。これは個々としては目に見えぬ微塵である。ウラニウムの分割の際は放射性バリウムやストロンチウムができるはずである。また原子爆発の際の強力な放射線によって地上物体の原子が崩壊せしめられ、一時性に放射能を獲得したものもあるかもしれない。これらの放射性物質はいずれも次第に原子内の安定を回復して放射能を失う。また水に流れ去るものもあって、爆心地帯の放射線量は日を追うて減弱していった。しかし、一年後の現在でも依然少量は残留して、微弱ながら放射線の放出をつづけている。
 そんなわけであるから、人体におよぼした影響も初期ほど激甚であった。この上野町は爆発点より六百メートルの近距離にあって、当時現場にいた住民は防空壕の奥深く潜んでいた一人の子供を除いて全部死亡した所、灰と瓦礫がれきの町である。ここで爆裂直後三週間以内に壕舎住まいを始めた人々には重い宿酔状態が起こり、それが一か月以上も続いた。また重い下痢にかかって苦しんだ。特に焼けた家を片づけるため灰を掘ったり瓦を運んだり、また屍体の処理に当たった人の症状ははなはだしかった。症状はラジウム大量照射を受けた患者の起こすものに似ており、たしかに放射線の大量連続全身照射の結果であった。
 一か月以後から居住を始めた人の症状は軽かったが、やはり宿酔と消化器障害がみられた。蚊や蚤の刺痕や小さい傷が化膿しやすく、白血球の軽度の減少があるらしかった。
 三月後からはもう著明な障害は起こらないようになった。住民はどんどん家を建てて居住を開始した。それは復員者と疎開者と引揚者とが主である。ところが白血球を調べてみると、居住開始後一か月すると異常な増加を示し、平常数の倍になる。これは微量放射線の連続全身照射にみられる症状である。つまりこの土地には極微量の放射能が残留しているのであって、これは爆撃当時米国から注意されたとおりである。しかしながら放射能の減弱速度がかなり速いから、七十五年くらいなどというのは嘘であり、今後そう長くは続くまいと思われる。現在この白血球数の増した現地住民の健康状態はいかにといえば、極めて良好である。長い間ここにいるが、寄生虫疾患を除いては病人の診療を頼まれたことがない。冬の間は雪が降りこみ、氷柱の下がる吹きさらしの壕舎に、うすい配給毛布を被って寝ていながら、肺炎はおろか感冒にもかからなかったし、最近では創傷を受けても化膿もしない。あたかもラジウム温泉地の住民みたいである。生殖腺障害はどうかと思っているが、妊娠率は幾分減っているようにみえるけれども、やはり妊娠する若嫁があり、流産の話も聞かず、奇形児は生まれていない。将来どうなるかという点については軽々しく判定できないが、私はかなり楽観的で、会う人ごとに焼け跡に帰って家を建てよとすすめている。
 私たちが今最も心配しているのは熱傷瘢痕はんこんの運命である。この熱傷は単に熱による皮膚障害のほかに中性子とガンマ線とを同時に受けているのであって、普通の火傷とはいちじるしく違う。普通の火傷でも体質によっては瘢痕蟹足腫を形成する場合があるが、原子爆弾熱傷の瘢痕はほとんど全部が蟹足腫を形成した。長崎市内を歩いていると、顔や手などが桃色に盛り上がり、てらてら光り、引きつっているこの瘢痕蟹足腫を見うけるであろう。放射線傷を受けた皮膚で、瘢痕蟹足腫を形成し、それがかゆいものだから、かいたりなどしつづけると、数年後に潰瘍となり、さらに何十年かの後には癌になることは、ラジウムやエックス線でしばしば経験された。原子爆弾熱傷の瘢痕から癌が生ずるか否か? これは将来に残された重大な問題である。瘢痕のある人はいくらかゆくてもかかぬように、風呂から上がった後で手拭で擦らぬように、むやみに売薬などをつけぬようにせねばならない。
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原子病療法



 宿酔にはビタミンBとブドウ糖の注射がよく効く。
 熱傷に対しては鉱泉療法が卓越していた。私たちは患者を二群にわけ、第一群は鉱泉療法、第二群は対照として普通の薬物療法を施し、経過を見た。治癒するまでの平均日数が前者は二十四日で、後者は三十八日であった。すなわち六枚板鉱泉浴をした者は、しない者よりも平均二週間早く治った。この鉱泉浴は外傷にも有効で、私自身も主としてこの泉の恩恵に浴した。まことに鉱泉こそは天然に与えられた薬局である。
 原子病患者に対し私たちが初めて施した療法に、自家血液刺激療法がある。これは速やかに、ひろく伝えられ、各医家で追試をしてもらった。私たちは特別に効力があったと思っているが、追試医家諸賢の経験批判はまちまちであった。特に効くか否かは決定されないけれども、少なくとも自覚的には確かによいとは言っていただいた。もちろん、この療法は他の疾患に対してすでに経験ずみの方法であるが、原子病に対しては九月十日に施先生が最初に試みたものであった。九月初頭に皮下溢血斑、高熱、歯齦壊死、咽頭潰瘍などの諸症状をもつ重篤な患者が多数突発したので、私たちは敗血症じゃないか、何か新しい急性伝染病じゃないかなどと疑い、対症療法を施しつつ詳細に観察しているうちに、血液疾患中の顆粒細胞欠乏症に酷似しているのに気づき、初めて骨髄が放射線に冒されたため白血球減少を来した結果とわかった。二人三人と患者が死んでいった。施先生をはじめ一同は不眠不休で看病すると同時に、頭脳を絞って療法の発見に努めた。そうして理論的に自家血液刺激療法が有効だとの結論に達し、すぐ実施した。患者の血液を二立方センチとり、それをそのまま患者の臀筋肉に注射するのである。結果は良好であった。瀕死の患者が皆助かった。これを始めてから一人も死なないようになった。
 栄養食としては肝臓野菜食療法を実施した。どんな動物でもいいから肝臓をとって、なるべく生で、あるいは軽く焼いて与え、また新鮮な生野菜をうんと食わせた。これは極めて有効であった。
 酒はよい薬であった。危篤に陥って、最後に好きな酒を十分飲んだら、よくなった例がある。
 自宅静養は結果からみて良い影響を与えた。あんな混乱の際に救護所に詰めこまれて遠慮がちな明け暮れを送るよりも、気楽な自宅で親切な大勢の肉親から看病してもらうほうが、どれほど患者の安静になるか測り知れない。ただ私たち救護班としては毎日巡回するのが大変な負担だった。どこからも一銭も手当をいただかないのだから、せめて下駄なりと看護婦に渡してやりたかった。
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壕舎の客


 大学は再興と決定し、新興善国民学校で診療と研究を始めた。わずかな生き残りの人々が集まった。私たちも三ツ山の渓を下って大学に帰った。十一月二日には大学の慰霊祭があり、八百七名の友の冥福を祈った。
 私は、爆心地に近い上野町に一坪あまりのトタン小屋を作ってもらい、それに入った。裏は石垣そのままで、紙片など押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった。箱には客が絶えなかった。神父様のご光来を迎える日もあれば、物もらいが覗く日もあった。米国従軍司祭が来られて、「これが君の宮殿ですか」と問われた。遠い大学から教授の訪問を受けている最中に、戦災者に軍から贈り物です、といって古靴が届けられたりした。
 山本君と浜里君とが復員してきた。二人は私の前にまず黙然と座った。一言口を切れば涙も出そうになっていた。
「先生、残念でごわした」
「ご苦労でした」
「わしらは残念でたまりまっせん。どうしてもこの仇は返さにゃならん。苦節十年、必ず勝ってみせます」
「あなた方は残念ですか」
「そうです。残念です」
「残念とか遺憾とかいうのは、勝てるはずの戦に敗れたとき、そうしてまたここに戦力が残っている場合に用いる言葉と思いますが」
「そうです。日本はまだ負けるほど弱ってはいなかったのです。まだ十分戦力があるのです」
「これはおかしい。日本は無条件降伏をしたではありませんか。一切の戦力を失ったと認めて敵の軍門に降ったではありませんか?」
「いや、私自身まだ十分戦う力をもっています」
「それがなおさらおかしい、というよりむしろけしからん。日本が負ける前になぜ戦力を出し尽くしてしまいませんでしたか? 国家が戦力を失ったのに個人がまだもっている。まるで家は破産して執行官が来て封印を張ったのに、三男坊が自分の貯金通帳を隠し持っているようなものだ」
「…………」
「私は戦争の間中、国家の最高命令に従い一生懸命がんばりました。私たちの大学も最後まで正々堂々がんばりました。どんな激しい空襲の中でも、赤十字精神に従って勇敢に進み出て傷者の救護をしました。原子爆弾が頭上に爆裂する瞬間まで、傷ついた哀れな人々の救護にいつどこへでも飛び出せる用意をして、しかも大学本来の任務たる医学の研究と授業に専念していたのです。爆撃により大学が潰滅した後でさえ、正々堂々最後まで大学を死守して、ついに人事を尽くし果たして後、これを離脱したのでした。私たち若い学徒が終始一貫卑怯な態度をとらず、真剣に救護に当たったということは、たとい日本が負け、日本の戦争目的の不正義が証明されても、それとは関係なしに美しいものと認めていただけると思います」
「そうです、認めます。何も知らない学徒が最後まで正々堂々自己の本分を尽くし、救護という人類愛に基づく本務に殉じた事実は、国家の運命と関係なく美しいものです」
「そして大学は一切の力を失いました。物的にいえば建物はあのとおり文字どおりの廃墟です。人的にいえば大多数を死なしめ、生き残った私たちもこのとおりの状態になっています。私の家も、財産も、妻も、すべては、なくなりました。私は一切の力を失った者です。完全に力を出し尽くして、しかも負けたのです。これがどうして残念といわれましょう。なんの遺憾があります? 私たちの現在の心境は、むしろ雨後の月みたいです。負けて悔いなき戦でした」
「そう聞けば、私たちは恥ずかしい気がします」
「もし私に家も財産も妻もそのまま残っていて降伏になったのだったら、私は今どんなにか苦しいでしょう。これこそ国家に対し、戦災同胞に対して大きな負担ではないでしょうか? 国家が滅びると同時に私の家もなくなり、国が破産すると同時に私も無一物となったと思えば、悲しみの中にむしろすがすがしい気が湧いてきます」
「しかし世間には、反対に戦争成金で朝晩喜び騒いでいる階級がたくさんあります」
「ああ、それです。それこそ潰さねばならぬ階級です。戦争はもうかる商売だ。十年に一回くらい戦争があれば千万長者になれるなどと言ってるのが、この者たちです。これこそ将来好戦的な宣伝をする源となるでしょう。この者たちが若い純情な青年をそそのかして復讐などを教えこむのです」
「本当に国家を食いものにする者たちだ」
「戦争は国家にとって利益をもたらす事業でしょうか?」
「勝てば利益になるでしょう」
「自国の利益を目的として始める戦争が正義の戦いでしょうか?」
「さあ、神の前に正義でない戦いに勝利のあるわけがありません」
「それでもこの戦争の間、絶えず僕たちは神様に祈っていました。特に戦の神様に」
「戦の神様というのは、百日咳の神様というのと同じく人造の神様でしょう」
「いいえ、日本では昔からある神様です」
「あなた方よりも神学、哲学を知らない先祖が造り出したのですね。自分で自分の都合のいいような神様を造っておいて、それに自分勝手な願いをするのだから、まるでテルテル坊主みたいなもんだ。そうして神国不滅だの、神風だのと信じていたのですからねえ、虚像を相手に、ひとり拍手再拝していたわけだな」
「僕らの誠が足りなかったのです」
「いいえ。いくら誠があったって相手が虚像なんだから無駄ですよ。人造の神様じゃなくて、真の神から恩恵をいただいている軍勢には叶いません」
「日本人に大和魂のあるように、日本に日本の神々があってもいいはずです」
「それが武力でおしつけなくとも万民に信仰されるものであればね。その思想はもう二千年も前にローマで批判し尽くされた原始民的国家神道ですよ」
「まあ神様論はやめとして、とにかく戦争は文明の母という言葉のあるとおり、科学的大進歩をとげさす利益はあります。たとえばこの原子爆弾のごとく」
「これだけの人命、これだけの物資、これだけの時間をかけて、これだけの人類を総動員して、平和的発明に向かわせたら、もっともっと大きな効果があります。とにかく戦争は利益をもたらす事業ではありません。今度帰るとき将校連中はなんといいました?」
「仕方がないから一時はじっと米軍のいうとおり従っておれ。しかしいずれはかのドイツが立ち上がったように、われらは剣をとって起たねばならぬ。その時に備えておれといいました」
「生兵法は大傷のもと、そんな馬鹿な考えは捨てておしまいなさい。そして一体その将校は実戦の経験がありましたか」
「いいえ、内地勤務ばかりです」
「そうでしょう。そのはずです。実戦を知らぬ将校が自己の名誉心を満足さすために、何も知らない部下を叱咤しったして戦場に駆り立てる傾向がありはしないでしょうか。実戦というものは残酷なものですよ。戦争文学を寝ころんで読んでおれば美しく、勇しくて、俺も一つ出てみようかという気になりますがね。実際は違います。たまたま真実を写生したものは、検閲にかかって発表を止められてきたのです。義経の戦には絵があります。乃木大将には詩があります。しかし原子爆弾のどこに美がありましたろう。あの日あの時、この地にひろげられた地獄の姿というものを、君たちが一目でも見なさったなら、きっと戦争をもう一度やるなどという馬鹿馬鹿しい気を起こさぬにちがいない。これから戦争が起こることがあると仮定すると、至る所に原子爆弾が破裂するでしょう。そうして無数の人間がなんの変哲もなく、ただピカドンと潰されてしまうのです。美談もなく、詩歌もなく、絵にもならず、音楽にもならず、文学にもならず、研究にもならず、ただローラーで蟻の行列を圧し潰すように、そこら一帯地均じならしされるだけのことです。馬鹿馬鹿しくてやれるものじゃありません」
「じゃ、日本は負けっぱなしですか?」
「神のことばに『復讐は我に在り、我報ゆべし』とあります。地上の戦争の勝負とは別に、神の目から見て不正義のほうを神が罰し給うのみ。復讐という問題はわれわれの範囲ではありません」
「それじゃ、僕らの生きてゆくこれからの道はなんですか?」
「それを発見するために、私はこうしてこの壕舎に座って考えているのです。なかなか見つかりません」
「僕もどこかで静かに考えるかな」
「山に入って考えなさい。世の渦の中にいると、くるくる回るばかりでついに自分の道を見いださずに、わいわい騒ぐだけの人間になりますよ。青山元不動、白雲自去来、私はいつもあの三ツ山を仰いで黙想をつづけています」
 客は心機一転して去る。壕舎はしばらく森閑となる。五歳の茅乃が独りしゃべっているのが聞こえる。出てみると、吹きさらしの焼け跡の石の上に瓶や皿や鏡のかけらなどを並べ、人形の首を相手にままごとをしている。友だちはみんな死んでしまった。
「茅ちゃんのおうちは大きかったわね。二階があったねえ、母ちゃんがいたね。お饅頭つくって茅ちゃんに食べさせたわねえ。お布団の中で寝たよ。電燈もついてたねえ」
 私はじっと立っている。茅乃は次から次へ思い出をしゃべる。眼をつむれば、わが家庭生活が竜宮のように鮮やかである。眼を開くは玉手箱を開けるに等しく、浦島ならねども、一瞬荒涼となり、原子野が一切の夢を打ち壊して眼に飛び込む。野分のわきが吹いて瓦が泣く。
 悄然しょうぜんとして市太郎さんがあらわれる。足首を結んだ復員服の一張羅。復員して来てみたら故郷は廃墟、わが家に駆けつけてみればただ灰ばかり、最愛の妻と五人の子供の黒い骨が散らばっていた。
「わしゃ、もう生きる楽しみはなか」
「戦争に負けて誰が楽しみをもっとりましょう」
「そりゃそうばってん。誰に会うてもこういうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残った者は神様からの特別のお恵みをいただいたんだと。それじゃ私の家内と子供は悪者でしたか!」
「さあね、私はまるで反対の思想をもっています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」
「感謝をですか?」
「これは明後日の浦上天主堂の合同葬に信者代表として読みたいと思って書いたのですが、ひとつ読んでみてくださいませんか」
 市太郎さんは原稿を読む。初めは声を出して元気よく読んでいたが、いつしか黙って、考え考え進む。ぽろりと涙を落とした。原稿にはこう書いてある。

原子爆弾合同葬弔辞

 昭和二十年八月九日午前十時三十分ころ大本営に於て戦争最高指導会議が開かれ、降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち午前十一時二分、一発の原子爆弾は吾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これとまったく時刻を同じうして大本営に於ては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。八月十五日終戦の大詔が発せられ、世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は聖母の被昇天の大祝日に当っておりました。浦上天主堂が聖母に献げられたものであることを想い起こします。これらの事件の奇しき一致は果して単なる偶然でありましょうか? それとも天主の妙なる摂理でありましょうか?
 日本の戦力に止めを刺すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備目標たりし長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話をききました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈されないこともありますまい。
 終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔きこひつじとして選ばれたのではないでしょうか?
 智恵の木の実を盗んだアダムの罪と、弟を殺したカインの血とを承け伝えた人類が、同じ神の子でありながら偶像を信じ愛の掟にそむき、互いに憎み互いに殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を献げて神にお詫びをせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから、神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります。
 信仰の自由なき日本に於て迫害の下四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたのであります。
 戦乱の闇まさに終わり、平和の光さし出づる八月九日、此の天主堂の大前に焔をあげたる、嗚呼ああ大いなる燔祭よ! 悲しみの極みのうちにも私たちはそれをあな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎみたのでございます。汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。
 敗戦を知らず世を去り給いし人の幸よ。潔き羔として神の御胸にやすらう霊魂の幸よ。それにくらべて生残った私たちのみじめさ。日本は負けました。浦上はまったくの廃墟です。みゆる限りは灰と瓦。家なく衣なく食なく、畑は荒れ人は尠なし。ぼんやり焼跡に立って空を眺めている二人或いは三人の群。
 あの日あの時この家で、なぜ一緒に死ななかったのでしょうか。なぜ私たちのみ、かような悲惨な生活をせねばならぬのでしょうか。私たちは罪人だからでした。今こそしみじみ己が罪の深さを知らされます。私は償いを果たしていなかったから残されたのです。余りにも罪の汚れの多き者のみが、神の祭壇に供えられる資格なしとして選び遺されたのであります。
 日本人がこれから歩まねばならぬ敗戦国民の道は苦難と悲惨にみちたものであり、ポツダム宣言によって課せられる賠償は誠に大きな重荷であります。この重荷を負い行くこの苦難の道こそ、罪人われらに償いを果たす機会を与える希望への道ではありますまいか。福なるかな泣く人、彼等は慰めらるべければなり。私たちはこの賠償の道を正直に、ごまかさずに歩みゆかねばなりません。嘲けられ、罵られ、鞭打たれ、汗を流し、血にまみれ、飢え渇きつつこの道をゆくとき、カルワリオの丘に十字架を担ぎ登り給いしキリストは、私共に勇気をつけて下さいましょう。
 主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。
 ねがわくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを アーメン。

 市太郎さんは読み終わって眼をつむった。
「やっぱり家内と子供は地獄へは行かなかったにちがいない」しばらくして呟いた。
「先生、そうすると、わしら生き残りはなんですか?」
「私もあなたも天国の入学試験の落第生ですな」
「天国の落第生、なるほど」
 二人は声をそろえて大きく笑った。胸のつかえが下りたようだ。
「よっぽど勉強せにゃ、天国で家内と会うことはできまっせんばい。確かに戦争で死んだ人たちは正直に自分を犠牲にして働いたのですからな。わしらも負けずによほど苦しまねばなりまっせんたい」
「そうですとも、そうですとも。世界一の原子野、この悲しい、寂しい、ものすごい、荒れた灰と瓦の中に踏みとどまって、骨と共に泣きながら建設を始めようじゃありませんか」
「わしは罪人だから苦しんで賠償させてもらうのが何より楽しみです。祈りながら働きましょう」市太郎さんは明るい顔になって帰った。
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原子野の鐘


 七十五年生息不可能説が爆撃直後伝えられたので、人々の間に焼け跡復帰を危懼きく[#ルビの「きく」は底本では「きぐ」]する声が高かった。私たちは測定器を失っていたから、この問題の解決を得るために止むを得ず動植物を観察することにした。三週間後、爆心地松山町で蟻の群れが見つかった。蟻は元気であった。一か月後にはみみずがたくさん見つかった。またどぶねずみの走るのも見受けられた。薯の葉を食う虫が一か月後には大いに繁殖した。小動物がこんなふうに生息できるのだから、人類の生息はできると私たちは考えた。植物のほうでは、爆風で吹きとばされた麦が速やかに至る所に芽をふいた(これは翌年普通の麦と同時に開花結実して、その実りは普通のものと大差なかった)。とうもろこしも発芽した。これは冬に入って結実したが、ほとんど粒はつかなかった。朝顔はすぐつるをのばし、小さいながら美しい花をつけた。葉には奇形がみられた。甘藷はすぐ蔓をのばし葉をつけたが、芋のできはほとんど皆無であった。菜の類は皆よくできた。私は原子野生息可能説を鼓吹した。ただし、幼児は放射線に対して鋭敏だから、まだ連れて来ぬがよかろうとの意見をつけ加えた。
 人が原子野に住居を作るのには四つの時期があった。壕舎期、仮舎期、仮建築期、本建築期である。爆撃直後は防空壕の中あるいは壕を利用し、その入口に[#「入口に」は底本では「人口に」]屋根をかけて地上地下両生活をする壕舎期で、これは一か月くらい続いた。避難期ともいえるし雑居期ともいえる。すなわち、家がないためとりあえず飛び込んだ壕に、隣組単位で共同生活を営んだ。役所事務、配給などに好都合であった。多くの壕舎は怪我人を抱えていた。わずかに生き残った人々が奇しき因縁を互いに感じ、乏しい物を譲り合い、共に用いて暮らしていた。この不自由極まる生活の内容は美しいものであった。この時期は茫然自失期ともいえる。住民は日々の食事と、屍体の捜索とに時を費やし、回想しても今なにをしたのかわけがわからぬ時期であった。
 第二月から第四月位までが仮舎期で、新生活準備期ともいえる。人はようやく生活の目標を発見し、親族同胞の安否がわかり、屍体の始末、諸届け、預金の整理もついて、再建第一歩を踏み出すのである。焼け残りの柱やトタンで二坪内外の仮舎を造り、この中に兄弟姉妹、あるいは従兄弟などという近い肉親が集まって相互扶助の生活を営んだ。このころには生存の感激がうすらぎ、他人同士の共同生活では利害関係上、感情生活の危険がすでに起こっていた。近い肉親であればそれが幾分かはやわらいだ。仮舎は辛うじて雨露を凌ぐ程度で、坪当たり数名の、すし詰めの生活だった。そして復員者が疥癬かいせんを蔓延させた。
 第五月すなわち十二月に入るとみぞれが降り、寒風が吹き込み、仮舎では暮らせなくなった。大工手間も近郊から出てくるようになり、資材も出回りはじめた。兄弟、従兄弟は協力した。一人一人の仮建築をやっていった。兄の家を建てて兄が入る。次に弟の家を建てるといったふうに、親族が順番に建てて回った。壁は荒壁で天井もなく、ふき降しの不細工な十坪内外の田舎造りではあったが、畳も敷き、雨戸も立てられ、ちょっと落ち着ける住居である。仮建築に入ると結婚が行なわれ、新家庭が一週間に十組以上もできた。この仮建築期は、だから復興期ともいえる。
 本建築はこれからである。それはぜいたくだから日本が安定してからのことだ。人々は今不自由な仮建築の中で充実した生活を送っている。この内容の豊かな原子野生活こそ真の文化生活だと思われる。私の恩師末次教授は私の小さな家を祝して「無一物処無尽蔵」の一軸を賜わった。
 浦上原子野を汽車の窓から見る人は、いつまでたっても瓦と灰をそのままにしている、復興はとてもおぼつかないなどと思うかもしれぬ。しかし、こつこつと人は整理をし再建をしているのだ。目にみえぬけれども少しずつ少しずつ原子野は復興しつつある。確固たる信仰に生き、苦しむこと、泣くことの幸福を知るわずかな人々が、ここで今、世紀の罪滅ぼしの苦業をしているのだ。信仰なき人は帰ってこない。この原子野復興の原動力となっているものは信仰のみである。
 夜は灯がないから、早くから子供を抱いて毛布にくるまっている。
「原子ってどのくらいの大きさね?」四年生の誠一が尋ねる。
「とても小さいものだ。球の形をしているものとすれば、その直径は約一億分の一センチだね」
「わあ、目には見えんね、顕微鏡でも見えん。それは粒なんだね」
「いや粒じゃないよ。太陽の回りを地球や土星などがぐるぐる回っていることを学校で先生に聞いたろ。あの太陽系全体の直径で太陽系の大きさを見当つけるように、原子も固い粒じゃなくて、中心に原子核があって、その周囲を陰電子がぐるぐる回っている。その陰電子の走る道の直径が一億分の一なんだ。それと核との間はがらんどうで何もない。核の直径は原子の直径のさらに十万分の一という小さいものなんだ」
「核ってどんなもの?」
「葡萄の中に種が集まっているだろう。あんなものさ。原子核には中性子という粒と陽子という粒とがある。陽子は陽電気をもっているが、中性子は電気をもっていない」
「原子が破裂すればどうなる?」
「この中性子や陽子の一部がなくなって、その代わりに猛烈な力ができる。そしてそれが強い勢いで噴き出すんだ。その力で工場も家もぺしゃんこになったものさ。それから中性子なども一緒に吹き飛ばされてくる。それが人間の身体に突っ込んでいろいろな原子病を起こしたんだ」
「畳屋の小父さんの頭の禿げたのも、じゃあ中性子のせいだね」
「一つの原子が破裂したって大きな力を出すんだ。一グラムの中にはちょっと数えられぬくらいたくさんの原子があるんだから、それが一度に爆発すると大変だ」
「原子は爆弾のほかに使いみちはないの?」
「いいえ、あるとも。こんな一度に爆発させないで、少しずつ、連続的に、調節しながら破裂させたら、原子力が汽船も汽車も飛行機も走らすことができる。石炭も石油も電気もいらなくなるし、大きな機械もいらなくなり、人間はどれほど幸福になれるかしれないね」
「じゃ、これからなんでも原子でやるんだなあ」
「そうだ、原子時代だ。人類は大昔から石器時代、銅器時代、鉄器時代、石炭時代、石油時代、電気時代、電波時代と進歩してきて、今年から原子時代に入ったんだ。誠一も茅乃も原子時代の人間だ」
 原子時代、原子時代と呟いていた子供も眠る。ちろちろ虫が頭の下で鳴いている。人類は原子時代に入って幸福になるであろうか? それとも悲惨になるであろうか? 神が宇宙に隠しておいた原子力という宝剣を嗅ぎつけ、捜し出し、ついに手に入れた人類が、この両刃の剣を振っていかなる舞を舞わんとするか? 善用すれば人類文明の飛躍的進歩となり、悪用すれば地球を破滅せしめる。いずれも極めて容易簡単な仕事である。そして右にするか左をとるか、これまた簡単に人類の自由意志にまかせられてある。人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによって、自らの運命の存滅の鍵を所持することになったのだ。思いをここに致せば、まことに慄然たるものがあり、正しき宗教以外にはこの鍵をよく保管し得るものはないという気がする。
 ちちろ、ちちろ、と虫が鳴く。抱き寝の茅乃がしきりに乳をさぐる。さぐりさぐって父だと気づいたか、声をころして忍び泣きを始めた。泣きながらやがてまた寝息にかわる。私だけじゃない。この原子野に今宵いま幾人の孤児が泣き、やもめが泣いていることであろう。
 夜は長く眠りは短い。うとうとと浅きまどろみの夢もいつか白みゆく雨戸の隙間。
「カーン、カーン、カーン」
 鐘が鳴る。暁のお告げの鐘が廃墟となった天主堂から原子野に鳴りわたる。市太郎さんが岩永君ら本尾の青年を指図して煉瓦の底から掘り出した鐘は、五十メートルの鐘塔から落ちたのにもかかわらず、ちっとも割れていなかった。クリスマスの夕にようやく吊り上げて、岩永君らが朝昼晩、昔ながらの懐かしい音を響かせる。
「主のみ使いの告げありければ……」誠一も茅乃も跳ね起きて毛布の上に座り、お祈りをささげる。
「カーン、カーン、カーン」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、「カーン、カーン、カーン」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと。鐘はまだ鳴っている。
「原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、おん身により頼み奉るわれらのために祈り給え」
 誠一と茅乃とは祈り終わって、十字をきった。





底本:「長崎の鐘」サンパウロ
   1995(平成7)年4月20日初版発行
   2007(平成19)年11月30日初版16刷
底本の親本「長崎の鐘」中央出版社
   1991(平成3)年6月第2版
初出:「長崎の鐘」日比谷出版
   1949(昭和24)年1月30日発行
入力:菅野朋子
校正:富田倫生
2011年4月29日作成
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Last updated : 2024/06/29