銀河鉄道の夜
宮沢賢治
一、午后の授業
「ではみなさんは、そういうふうに川だと
云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に
吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを
指しながら、みんなに
問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを
見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
ジョバンニは
勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく困ったようすでしたが、
眼をカムパネルラの方へ向けて、
「ではカムパネルラさん。」と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上ったままやはり答えができませんでした。
先生は意外なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急いで「では。よし。」と云いながら、自分で星図を
指しました。
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」
ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには
涙がいっぱいになりました。そうだ
僕は知っていたのだ、
勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの
書斎から
巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な
頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れる
筈もなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。
先生はまた云いました。
「ですからもしもこの
天の
川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や
砂利の
粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる
脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに
浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに
棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」
先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の
凸レンズを指しました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが
薄いのでわずかの光る粒
即ち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。」
そして教室中はしばらく
机の
蓋をあけたりしめたり本を重ねたりする音がいっぱいでしたがまもなくみんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の
隅の
桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す
烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。
けれどもジョバンニは手を大きく
振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの
枝にあかりをつけたりいろいろ
仕度をしているのでした。
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは
靴をぬいで上りますと、
突き当りの大きな
扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて
居りました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い
卓子に
座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく
棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを
渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい
函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある
壁の隅の所へしゃがみ
込むと小さなピンセットでまるで
粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。
ジョバンニは何べんも眼を
拭いながら活字をだんだんひろいました。
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい
箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は
黙ってそれを受け取って
微かにうなずきました。
ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは
俄かに顔いろがよくなって
威勢よくおじぎをすると台の下に置いた
鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく
口笛を
吹きながらパン屋へ寄ってパンの
塊を一つと角砂糖を一
袋買いますと
一目散に走りだしました。
ジョバンニが
勢よく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側には空箱に
紫いろのケールやアスパラガスが植えてあって小さな二つの窓には
日覆いが下りたままになっていました。
「お
母さん。いま帰ったよ。
工合悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。
「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は
涼しくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」
ジョバンニは
玄関を上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の
室に白い
巾を
被って
寝んでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。
「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」
「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」
「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」
「来なかったろうかねえ。」
「ぼく行ってとって来よう。」
「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」
「ではぼくたべよう。」
ジョバンニは窓のところからトマトの
皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」
「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」
「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」
「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
「きっと出ているよ。お父さんが
監獄へ入るようなそんな悪いことをした
筈がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ
寄贈した
巨きな
蟹の
甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕
「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」
「おまえに悪口を云うの。」
「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気の毒そうにしているよ。」
「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」
「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る
途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、
罐がすっかり
煤けたよ。」
「そうかねえ。」
「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしているからな。」
「早いからねえ。」
「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで
箒のようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで
烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」
「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」
「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」
「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」
「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと
一緒なら心配はないから。」
「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」
「ああ、どうか。もう涼しいからね」
ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を
片附けると勢よく靴をはいて
「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。
ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口付きで、
檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。
坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの
影ぼうしは、だんだん
濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を
振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは
勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り
越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)
とジョバンニが思いながら、
大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新らしいえりの
尖ったシャツを着て電燈の向う側の暗い
小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
「ザネリ、烏瓜ながしに行くの。」ジョバンニがまだそう云ってしまわないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるようにうしろから
叫びました。
ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思いました。
「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向うのひばの植った家の中へはいっていました。
「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走るときはまるで
鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかなからだ。」
ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの
灯や木の
枝で、すっかりきれいに
飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさえたふくろうの赤い
眼が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石が海のような色をした厚い
硝子の
盤に
載って星のようにゆっくり
循ったり、また向う側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。
ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですがその日と時間に合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま
楕円形のなかにめぐってあらわれるようになって
居りやはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯になってその下の方ではかすかに
爆発して湯気でもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の
脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光って立っていましたしいちばんうしろの
壁には空じゅうの星座をふしぎな
獣や
蛇や魚や
瓶の形に書いた大きな図がかかっていました。ほんとうにこんなような
蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立って居ました。
それから
俄かにお母さんの牛乳のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。そしてきゅうくつな上着の
肩を気にしながらそれでもわざと胸を張って大きく手を振って町を通って行きました。
空気は
澄みきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや
楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に
沢山の豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの
口笛を
吹いたり、
「ケンタウルス、
露をふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしそうに遊んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛乳屋の方へ急ぐのでした。
ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が
幾本も幾本も、高く星ぞらに
浮んでいるところに来ていました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の
匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは
帽子をぬいで「今晩は、」と云いましたら、家の中はしぃんとして
誰も居たようではありませんでした。
「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年
老った女の人が、どこか
工合が悪いようにそろそろと出て来て何か用かと口の中で云いました。
「あの、今日、牛乳が
僕※
[#小書き平仮名ん、168-12]とこへ来なかったので、
貰いにあがったんです。」ジョバンニが一生けん命
勢よく云いました。
「いま誰もいないでわかりません。あしたにして下さい。」
その人は、赤い眼の下のとこを
擦りながら、ジョバンニを見おろして云いました。
「おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです。」
「ではもう少したってから来てください。」その人はもう行ってしまいそうでした。
「そうですか。ではありがとう。」ジョバンニは、お
辞儀をして台所から出ました。
十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向うの橋へ行く方の雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の
燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑い声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級の子供らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして
戻ろうとしましたが、思い直して、一そう勢よくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの。」ジョバンニが云おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは気の毒そうに、だまって少しわらって、
怒らないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。
ジョバンニは、
遁げるようにその眼を
避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向うにぼんやり見える橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云えずさびしくなって、いきなり走り出しました。すると耳に手をあてて、わああと云いながら片足でぴょんぴょん
跳んでいた小さな子供らは、ジョバンニが
面白くてかけるのだと思ってわあいと叫びました。まもなくジョバンニは黒い
丘の方へ急ぎました。
牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の
大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。
ジョバンニは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った
烏瓜のあかりのようだとも思いました。
そのまっ黒な、松や
楢の林を
越えると、
俄かにがらんと空がひらけて、
天の
川がしらしらと南から北へ
亘っているのが見え、また
頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、
夢の中からでも
薫りだしたというように咲き、鳥が一
疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。
ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。
町の灯は、
暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの
叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの
汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、
苹果を
剥いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。
あああの白いそらの帯がみんな星だというぞ。
ところがいくら見ていても、そのそらはひる先生の云ったような、がらんとした冷いとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。そしてジョバンニは青い
琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら
瞬き、脚が何べんも出たり引っ
込んだりして、とうとう
蕈のように長く延びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集りか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。
そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく
蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、
濃い
鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく
灼いたばかりの青い
鋼の板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと
云う声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の
蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に
沈めたという
工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと
穫れないふりをして、かくして置いた
金剛石を、
誰かがいきなりひっくりかえして、ばら
撒いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を
擦ってしまいました。
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら
座っていたのです。車室の中は、青い
天蚕絨を張った
腰掛けが、まるでがら明きで、向うの
鼠いろのワニスを塗った
壁には、
真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。
すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに気が付きました。そしてそのこどもの
肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、俄かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。
それはカムパネルラだったのです。
ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からここに居たのと云おうと思ったとき、カムパネルラが
「みんなはねずいぶん走ったけれども
遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」と云いました。
ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもいながら、
「どこかで待っていようか」と云いました。するとカムパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが
迎いにきたんだ。」
カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまってしまいました。
ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、
勢よく云いました。
「ああしまった。ぼく、
水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構わない。もうじき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛んでいたって、ぼくはきっと見える。」そして、カムパネルラは、円い板のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったくその中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派なことは、夜のようにまっ黒な
盤の上に、一一の停車場や
三角標、泉水や森が、青や
橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」
ジョバンニが云いました。
「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの。」
「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだろう。」
ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を
指しました。
「そうだ。おや、あの
河原は月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい
愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの
口笛を
吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき
眼の加減か、ちらちら
紫いろのこまかな波をたてたり、
虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、
燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、
或いは三角形、或いは四辺形、あるいは
電や
鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに
振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり
顫えたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。
「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい
微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云いました。
線路のへりになったみじかい
芝草の中に、月長石ででも
刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を
躍らせて云いました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。
と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、
湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。
「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、
急きこんで
云いました。
ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える
橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに
幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして
叫びました。
「ぼくわからない。けれども、
誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、
金剛石や草の
露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の
河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の
射した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い
十字架がたって、それはもう
凍った北極の雲で
鋳たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、
水晶の
珠数をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに
祈っているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの
頬は、まるで熟した
苹果のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
向う岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい
狐火のように思われました。
それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさえぎられ、白鳥の島は、二度ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の
尼さんが、まん円な緑の
瞳を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝わって来るのを、
虔んで聞いているというように見えました。旅人たちはしずかに席に
戻り、二人も胸いっぱいのかなしみに似た新らしい気持ちを、何気なくちがった
語で、そっと
談し合ったのです。
「もうじき白鳥の停車場だねえ。」
「ああ、十一時かっきりには着くんだよ。」
早くも、シグナルの緑の
燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから
硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
さわやかな秋の時計の
盤面には、青く
灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降りて見ようか。」ジョバンニが云いました。
「降りよう。」
二人は一度にはねあがってドアを飛び出して
改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい
紫がかった電燈が、一つ
点いているばかり、
誰も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や
赤帽らしい人の、
影もなかったのです。
二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える
銀杏の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから
幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。
さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、
肩をならべて行きますと、二人の影は、ちょうど四方に窓のある
室の中の、二本の柱の影のように、また二つの車輪の
輻のように
幾本も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな
河原に来ました。
カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、
掌にひろげ、指できしきしさせながら、
夢のように云っているのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」
「そうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
河原の
礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や
黄玉や、またくしゃくしゃの
皺曲をあらわしたのや、また
稜から
霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその
渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに
浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい
燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。
川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている
崖の下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か
掘り出すか埋めるかしているらしく、立ったり
屈んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。
「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった
処の入口に、
〔プリオシン海岸〕という、
瀬戸物のつるつるした標札が立って、向うの渚には、ところどころ、細い鉄の
欄干も植えられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。
「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議そうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの
尖ったくるみの実のようなものをひろいました。
「くるみの実だよ。そら、
沢山ある。流れて来たんじゃない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘ってるから。」
二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい
稲妻のように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や
貝殻でこさえたようなすすきの
穂がゆれたのです。
だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、
長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、
鶴嘴をふりあげたり、スコープをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに
夢中でいろいろ指図をしていました。
「そこのその
突起を
壊さないように。スコープを使いたまえ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」
見ると、その白い
柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい
獣の骨が、横に
倒れて
潰れたという風になって、半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、
蹄の二つある
足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。
「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、
眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみが沢山あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいに
鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、
昔はたくさん居たさ。」
「標本にするんですか。」
「いや、証明するに
要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという
証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に
肋骨が埋もれてる
筈じゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。
「もう時間だよ。行こう。」カムパネルラが地図と
腕時計とをくらべながら云いました。
「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。
「そうですか。いや、さよなら。」大学士は、また
忙がしそうに、あちこち歩きまわって
監督をはじめました。二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れず
膝もあつくなりませんでした。
こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。
そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に
座って、いま行って来た方を、窓から見ていました。
「ここへかけてもようございますか。」
がさがさした、けれども親切そうな、大人の声が、二人のうしろで聞えました。
それは、茶いろの少しぼろぼろの
外套を着て、白い
巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に
掛けた、
赤髯のせなかのかがんだ人でした。
「ええ、いいんです。」ジョバンニは、少し肩をすぼめて
挨拶しました。その人は、ひげの中でかすかに
微笑いながら荷物をゆっくり
網棚にのせました。ジョバンニは、なにか大へんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正面の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、
硝子の
笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の
天井を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い
甲虫がとまってその影が大きく天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓の外から光りました。
赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に
訊きました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、
喧嘩のようにたずねましたので、ジョバンニは、思わずわらいました。すると、向うの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな
鍵を
腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑いだしてしまいました。ところがその人は別に
怒ったでもなく、
頬をぴくぴくしながら返事しました。
「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴や
雁です。さぎも白鳥もです。」
「鶴はたくさんいますか。」
「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いいえ。」
「いまでも聞えるじゃありませんか。そら、耳をすまして
聴いてごらんなさい。」
二人は
眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の
湧くような音が聞えて来るのでした。
「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも
鷺ですか。」
「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
「そいつはな、
雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が
凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、
脚をこういう風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと
押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」
「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか。」
「標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか。」
「おかしいねえ。」カムパネルラが首をかしげました。
「おかしいも
不審もありませんや。そら。」その男は立って、網棚から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。
「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです。」
「ほんとうに鷺だねえ。」二人は思わず
叫びました。まっ白な、あのさっきの北の
十字架のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、
浮彫のようにならんでいたのです。
「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い
瞑った眼にさわりました。頭の上の
槍のような白い毛もちゃんとついていました。
「ね、そうでしょう。」鳥捕りは
風呂敷を重ねて、またくるくると包んで
紐でくくりました。
誰がいったいここらで鷺なんぞ
喰べるだろうとジョバンニは思いながら訊きました。
「鷺はおいしいんですか。」
「ええ、毎日注文があります。しかし
雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと
柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしを
揃えて、少し
扁べったくなって、ならんでいました。
「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお
菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の
菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒だ。)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「ええ、ありがとう。」と
云って
遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向うの席の、
鍵をもった人に出しました。
「いや、商売ものを
貰っちゃすみませんな。」その人は、
帽子をとりました。
「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の
渡り
鳥の景気は。」
「いや、すてきなもんですよ。
一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の
灯を、規則以外に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕方ありませんや。わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との
途方もなく細い大将へやれって、
斯う云ってやりましたがね、はっは。」
すすきがなくなったために、向うの野原から、ぱっとあかりが
射して来ました。
「鷺の方はなぜ手数なんですか。」カムパネルラは、さっきから、訊こうと思っていたのです。
「それはね、鷺を喰べるには、」鳥捕りは、こっちに向き直りました。
「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、そうでなけぁ、砂に三四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀がみんな蒸発して、喰べられるようになるよ。」
「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう。」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、
尋ねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「そうそう、ここで降りなけぁ。」と云いながら、立って荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。
「どこへ行ったんだろう。」
二人は顔を見合せましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し
伸びあがるようにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい
燐光を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見ていたのです。
「あすこへ行ってる。ずいぶん
奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」と云った
途端、がらんとした
桔梗いろの空から、さっき見たような鷺が、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに
舞いおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で
片っ
端から押えて、布の
袋の中に入れるのでした。すると鷺は、
蛍のように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事に
天の
川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや
否や、まるで雪の
融けるように、
縮まって
扁べったくなって、間もなく
熔鉱炉から出た銅の
汁のように、砂や
砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
鳥捕りは二十
疋ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が
鉄砲弾にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、
却って、
「ああせいせいした。どうもからだに
恰度合うほど
稼いでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの
隣りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。
「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」
ジョバンニは、すぐ返事しようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。
「もうここらは白鳥区のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です。」
窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四
棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、
眼もさめるような、
青宝玉と
黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向うへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面
凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、とうとう青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい
環とができました。それがまただんだん横へ
外れて、前のレンズの形を逆に
繰り返し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向うへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのような風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所が、
睡っているように、しずかによこたわったのです。
「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」
鳥捕りが云いかけたとき、
「切符を拝見いたします。」三人の席の横に、赤い
帽子をかぶったせいの高い
車掌が、いつかまっすぐに立っていて云いました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらして、(あなた方のは?)というように、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ、」ジョバンニは困って、もじもじしていましたら、カムパネルラは、わけもないという風で、小さな
鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れて見ましたら、何か大きな
畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですから何でも構わない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って
叮寧にそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がしました。
「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。
「何だかわかりません。」もう
大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。
「よろしゅうございます。
南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。
カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い
唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い
込まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように云いました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な
幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける
筈でさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答えながらそれを
又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめていましたが、その鳥捕りの時々大したもんだというようにちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。
「もうじき
鷲の停車場だよ。」カムパネルラが向う岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを
見較べて云いました。
ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。
鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの
幸になるなら自分があの光る天の川の
河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう
黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と
訊こうとして、それではあんまり出し
抜けだから、どうしようかと考えて
振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。
網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る
支度をしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも
尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。
「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。
僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」
「ああ、僕もそう思っているよ。」
「僕はあの人が
邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。
「何だか
苹果の
匂がする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか。」カムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに苹果の匂だよ。それから
野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思いました。
そしたら
俄かにそこに、つやつやした黒い
髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました。
隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に
吹かれているけやきの木のような姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな
可愛らしい女の子が黒い
外套を着て青年の
腕にすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。
「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神さまに
召されているのです。」黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に
云いました。けれどもなぜかまた額に深く
皺を刻んで、それに大へんつかれているらしく、無理に笑いながら男の子をジョバンニのとなりに
座らせました。
それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。女の子はすなおにそこへ座って、きちんと両手を組み合せました。
「ぼくおおねえさんのとこへ行くんだよう。」
腰掛けたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守の向うの席に座ったばかりの青年に云いました。青年は何とも云えず悲しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまいました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでしょう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪の降る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたりほんとうに待って心配していらっしゃるんですから、早く行っておっかさんにお目にかかりましょうね。」
「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派な川、ね、あすこはあの夏中、ツインクル、ツインクル、リトル、スター をうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています。」
泣いていた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟にまた云いました。
「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」青年は男の子のぬれたような黒い髪をなで、みんなを
慰めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいて来ました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。
「いえ、氷山にぶっつかって船が
沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから
発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か
昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに
傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、
霧が非常に深かったのです。ところがボートは
左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと
叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために
祈って
呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても
押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが
狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう
腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり
覚悟してこの人たち二人を
抱いて、
浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。
誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども
滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一生けん命で
甲板の
格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき
俄かに大きな音がして私たちは水に落ちもう
渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年
没くなられました。ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが
漕いですばやく船からはなれていましたから。」
そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して
眼が熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や
凍りつく潮水や、
烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ
込んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら
峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
青年が祈るようにそう答えました。
そしてあの
姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって
睡っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い
柔らかな
靴をはいていたのです。
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな
燐光の川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで
幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のよう、そこからかまたはもっと向うからかときどきさまざまの形のぼんやりした
狼煙のようなものが、かわるがわるきれいな
桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった
奇麗な風は、ばらの
匂でいっぱいでした。
「いかがですか。こういう
苹果はおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守がいつか
黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手で
膝の上にかかえていました。
「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんとうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかかえられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめていました。
「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」
青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
「さあ、向うの
坊ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」
ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは
「ありがとう、」と云いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがとうと云いました。
燈台看守はやっと
両腕があいたのでこんどは自分で一つずつ睡っている姉弟の膝にそっと置きました。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は。」
青年はつくづく見ながら云いました。
「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような
約束になって
居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む
種子さえ
播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように
殻もないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」
にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云いました。
「ああぼくいまお母さんの
夢をみていたよ。お母さんがね立派な
戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか云ったら眼がさめちゃった。ああここさっきの汽車のなかだねえ。」
「その
苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云いました。
「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」
姉はわらって眼をさましまぶしそうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを
喰べるようにもうそれを喰べていました、また
折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク
抜きのような形になって
床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。
二人はりんごを大切にポケットにしまいました。
川下の向う岸に青く
茂った大きな林が見え、その
枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云えずきれいな音いろが、とけるように
浸みるように風につれて流れて来るのでした。
青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。
だまってその
譜を聞いていると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な
蝋のような
露が太陽の面を
擦めて行くように思われました。
「まあ、あの
烏。」カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なく
叱るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく
河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の
微光を受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすように云いました。
向うの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の
讃美歌のふしが聞えてきました。よほどの人数で合唱しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまた
座りました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく
誰ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも
一緒にうたい出したのです。
そして青い
橄欖の森が見えない天の川の向うにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまいそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひびきや風の音にすり
耗らされてずうっとかすかになりました。
「あ
孔雀が居るよ。」
「ええたくさん居たわ。」女の子がこたえました。
ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとじたりする光の反射を見ました。
「そうだ、孔雀の声だってさっき聞えた。」カムパネルラがかおる子に
云いました。
「ええ、三十
疋ぐらいはたしかに居たわ。ハープのように聞えたのはみんな孔雀よ。」女の子が答えました。ジョバンニは
俄かに何とも云えずかなしい気がして思わず
「カムパネルラ、ここからはねおりて遊んで行こうよ。」とこわい顔をして云おうとしたくらいでした。
川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人の
寛い服を着て赤い
帽子をかぶった男が立っていました。そして両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号しているのでした。ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗をふっていましたが俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすようにし青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のように
烈しく
振りました。すると空中にざあっと雨のような音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも
鉄砲丸のように川の向うの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓からからだを半分出してそっちを見あげました。美しい美しい
桔梗いろのがらんとした空の下を実に何万という小さな鳥どもが
幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。
「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓の外で云いました。
「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて
狂気のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群は通らなくなりそれと同時にぴしゃぁんという
潰れたような音が川下の方で起ってそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって
叫んでいたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万という鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出しているまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい
頬をかがやかせながらそらを
仰ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気ないやだいと思いながらだまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息をしてだまって席へ
戻りました。カムパネルラが気の毒そうに窓から顔を引っ
込めて地図を見ていました。
「あの人鳥へ教えてるんでしょうか。」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。
「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう。」カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらえてそのまま立って
口笛を
吹いていました。
(どうして
僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)ジョバンニは
熱って痛いあたまを両手で
押えるようにしてそっちの方を見ました。(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに
談しているし僕はほんとうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた
泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
そのとき汽車はだんだん川からはなれて
崖の上を通るようになりました。向う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな
苞が赤い毛を
吐いて真珠のような実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増して来てもういまは列のように崖と線路との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向う側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った
金剛石のように
露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。カムパネルラが「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに云いましたけれどもジョバンニはどうしても気持がなおりませんでしたからただぶっきり棒に野原を見たまま「そうだろう。」と答えました。そのとき汽車はだんだんしずかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。
その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその
振子は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。
そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな
旋律が糸のように流れて来るのでした。「新世界
交響楽だわ。」姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと云いました。全くもう車の中ではあの黒服の
丈高い青年も
誰もみんなやさしい
夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと
愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり
談しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして向うの窓のそとを見つめていました。すきとおった
硝子のような笛が鳴って汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛を吹きました。
「ええ、ええ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で
誰かとしよりらしい人のいま
眼がさめたという風ではきはき談している声がしました。
「とうもろこしだって棒で二尺も
孔をあけておいてそこへ
播かないと生えないんです。」
「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ、」
「ええええ河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい
峡谷になっているんです。」
そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、女の子はまるで絹で包んだ
苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。
突然とうもろこしがなくなって
巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから
湧きそのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を
腕と胸にかざり小さな弓に矢を
番えて
一目散に汽車を追って来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。ごらんなさい。」
黒服の青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
「走って来るわ、あら、走って来るわ。追いかけているんでしょう。」
「いいえ、汽車を追ってるんじゃないんですよ。
猟をするか
踊るかしてるんですよ。」青年はいまどこに居るか忘れたという風にポケットに手を入れて立ちながら云いました。
まったくインデアンは半分は踊っているようでした。第一かけるにしても足のふみようがもっと経済もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽根は前の方へ
倒れるようになりインデアンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空にひきました。そこから一羽の
鶴がふらふらと落ちて来てまた走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその鶴をもってこっちを見ている
影ももうどんどん小さく遠くなり電しんばしらの
碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光ってまたとうもろこしの林になってしまいました。こっち側の窓を見ますと汽車はほんとうに高い高い
崖の上を走っていてその谷の底には川がやっぱり
幅ひろく明るく流れていたのです。
「ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この
傾斜があるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう。」さっきの老人らしい声が云いました。
どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ているときなどは思わずほうと叫びました。
どんどんどんどん汽車は走って行きました。
室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるようになりながら
腰掛にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど
激しく流れて来たらしくときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい
河原なでしこの花があちこち咲いていました。汽車はようやく落ち着いたようにゆっくりと走っていました。
向うとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗がたっていました。
「あれ何の旗だろうね。」ジョバンニがやっとものを云いました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」
「ああ。」
「橋を
架けるとこじゃないんでしょうか。」女の子が云いました。
「あああれ工兵の旗だねえ。
架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」
その時向う岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って柱のように高くはねあがりどぉと
烈しい音がしました。
「
発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。
その柱のようになった水は見えなくなり大きな
鮭や
鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に
抛り出されて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気持が軽くなって云いました。
「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いいねえ。」
「あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もいるんでしょうか。」女の子が
談につり
込まれて云いました。
「居るんでしょう。大きなのが居るんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり
機嫌が直って
面白そうにわらって女の子に答えました。
「あれきっと
双子のお星さまのお宮だよ。」男の子がいきなり窓の外をさして
叫びました。
右手の低い
丘の上に小さな
水晶ででもこさえたような二つのお宮がならんで立っていました。
「双子のお星さまのお宮って何だい。」
「あたし前になんべんもお母さんから
聴いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでいるからきっとそうだわ。」
「はなしてごらん。双子のお星さまが何したっての。」
「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでてからすと
喧嘩したんだろう。」
「そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸にね、おっかさんお話なすったわ、……」
「それから
彗星がギーギーフーギーギーフーて云って来たねえ。」
「いやだわたあちゃんそうじゃないわよ。それはべつの方だわ。」
「するとあすこにいま
笛を
吹いて居るんだろうか。」
「いま海へ行ってらあ。」
「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ。」
「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう。」
川の向う岸が
俄かに赤くなりました。
楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く
桔梗いろのつめたそうな天をも
焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく
酔ったようになってその火は燃えているのでした。
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが
云いました。
「
蝎の火だな。」カムパネルラが
又地図と首っ引きして答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで
螫されると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん
斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに
見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命
遁げて遁げたけどとうとういたちに
押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは
溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお
祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに
呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの
幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん
仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」
ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそりの
腕のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云えずにぎやかなさまざまの楽の
音や草花の
匂のようなもの口笛や人々のざわざわ云う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるというような気がするのでした。
「ケンタウル
露をふらせ。」いきなりいままで
睡っていたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでいました。
ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な
唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの
豆電燈がまるで千の
蛍でも集ったようについていました。
「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。〔以下原稿一枚?なし〕
「ボール投げなら
僕決してはずさない。」
男の子が
大威張りで云いました。
「もうじきサウザンクロスです。おりる
支度をして下さい。」青年がみんなに云いました。
「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云いました。カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云いました。
「
厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。
「僕たちと
一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける
切符持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが
仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが
惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。
「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や
橙やもうあらゆる光でちりばめられた
十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい
環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が
瓜に飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの
苹果の肉のような青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに
繞っているのが見えました。
「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の
灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとまりました。
「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて
怒ったようにぶっきり棒に云いました。女の子はいかにもつらそうに
眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまい
俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに
吹き
込みました。
そして見ているとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの
神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう
硝子の
呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ううちに銀いろの
霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち
黄金の円光をもった電気
栗鼠が
可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
そのときすうっと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでいました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちょうど
挨拶でもするようにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた
点くのでした。
ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまいほんとうにもうそのまま胸にも
吊されそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い
渚にまだひざまずいているのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。
ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの
幸のためならば僕のからだなんか百ぺん
灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな
涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が
湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭
袋だよ。そらの
孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを
避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその
奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな
暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは
俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して
叫びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から
腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが
斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの
座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで
鉄砲丸のように立ちあがりました。そして
誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう
咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
ジョバンニは眼をひらきました。もとの
丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく
熱り
頬にはつめたい涙がながれていました。
ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を
綴ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま
夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では
殊にけむったようになってその右には
蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。
ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い
松の林の中を通ってそれからほの白い牧場の
柵をまわってさっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしくさっきなかった一つの車が何かの
樽を二つ乗っけて置いてありました。
「今晩は、」ジョバンニは叫びました。
「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「何のご用ですか。」
「今日牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」
「あ済みませんでした。」その人はすぐ奥へ行って一本の
牛乳瓶をもって来てジョバンニに
渡しながらまた云いました。
「ほんとうに、済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけて置いたもんですから大将早速親牛のところへ行って半分ばかり呑んでしまいましてね……」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます。」
「ええ、どうも済みませんでした。」
「いいえ。」
ジョバンニはまだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七八人ぐらいずつ集って橋の方を見ながら何かひそひそ
談しているのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。
ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ
「何かあったんですか。」と叫ぶようにききました。
「こどもが水へ落ちたんですよ。」一人が云いますとその人たちは
一斉にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。橋の上は人でいっぱいで河が見えませんでした。白い服を着た
巡査も出ていました。
ジョバンニは橋の
袂から飛ぶように下の広い河原へおりました。
その河原の
水際に沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう
烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。
河原のいちばん下流の方へ
州のようになって出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会いました。マルソがジョバンニに走り寄ってきました。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ
押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「みんな探してるんだろう。」
「ああすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども
見附からないんだ。ザネリはうちへ連れられてった。」
ジョバンニはみんなの居るそっちの方へ行きました。そこに学生たち町の人たちに囲まれて青じろい
尖ったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめていたのです。
みんなもじっと河を見ていました。
誰も一言も物を云う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れているのが見えるのでした。
下流の方は川はば一ぱい銀河が
巨きく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
「ぼくずいぶん泳いだぞ。」と云いながらカムパネルラが出て来るか
或いはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて誰かの来るのを待っているかというような気がして仕方ないらしいのでした。けれども
俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。
「もう
駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」
ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。すると博士はジョバンニが
挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう。」と
叮ねいに云いました。
ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう帰っていますか。」博士は
堅く時計を
握ったまままたききました。
「いいえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ。ぼくには
一昨日大へん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が
遅れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」
そう云いながら博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。
ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました。