新井白石 編『東雅とうが』に見る「月の名称・由来」など

 『東雅』に見る由来など  
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  • 東雅とうが』は、享保2年(1717年)に成立したとされる江戸中期の語源研究書。新井白石の著による語学書で、《 和名類聚抄わみょうるいじゅしょう》にみえる物名について語義の解釈をしたもの。
    和名類聚抄》は平安中期の漢和辞書で、 源順みなもとのしたごう 著。承平4年(934年)頃の成立。漢語を意義分類し、出典を記して意味と解説を付し、字音と和訓を示したもの。

  • 新井白石あらいはくせき :江戸中期の儒学者・政治家。(明暦3年・1657年 ~ 享保10年・1725年)
新井白石 編『東雅』に見る「月の名称・由来」など
 東雅 巻之一 天文第一より『月』(国立国会図書館所蔵版より)

新井白石編 東雅 巻之一

天文第一(部分)


ツキ  正月ムツキ、二月キサラキ、三月ヤヨヒ、四月ウツキ、五月サツキ、六月ミナツキ、七月フミツキ、八月ハツキ、九月ナガツキ、十月カミナツキ、十一月シモツキ、十二月シハス、義共に不詳、我國の月名、太古よりいひつぎし言葉とも聞へず、舊事記に、邪神之音サハへなせしといふ事、三たび見えたり、それが中、二つは狹蝿の字を用ひ、讀てサハへとし、一つは五月蠅の字を用ひ、讀むこと狹蠅の如し、さらば上宮太子の頃ほひ五月をよひてサツキといひし事、既にありしにや、其餘の如き、また如何にやありけん、陰陽の二神、日神月神を生み給ひしに、其月神の御名、一つには月讀つきよみとも申せしは、上古の語に讀むといひしは、後世にカゾフルといふ言葉なりなどといひ傳たり、月の數をかぞへ伝はむには、かぞへいふ所の名なき事を得べからず、天地より始て、凡物の名に至るまて、後世にいふ所の如き、上古に云ひし所の事なりとも見へず、古を去る事の久しくして、世の移り替りぬるに隨ひ、其いふ所も亦うつり替りぬる故なり、たとへば初空ハツゾラ月、梅見ウメミ月などいふが如き、後代の歌詞に出たれど、遂に其月の名となりし事のごとく、古を去る事、久しき世の、人の云ひしところの終に其名となりて、古にいひし所の如きは知る人もなくなるにいたるなり、五月をサツキといひ、又世の人今も猶つヽしむべき月なりなどもいふなり、此月の事は、舊事記に見えし所なれば、古の時の名なりけむとも知らるヽなり、卯月、長月、カミナ月、歳終シハスなどいふが如きは、漢にも古くいひ傳へにし所なれば此等の如きは、我國に漢字傳へ得し後の人の云ひし所なるにやまたたま〳〵其名の相同じかりしにや、すべて其詳なる事をしらず。
疑いを闕くとも疑を傳ふとも見えたれば、我疑ひ思ふ所の中、其一二をこゝに註しぬ、舊説には、ムツキといふ事は、ムツビキツキといふ也、上古の語にスベムツ神などいふ事はあれど、ムツをムとのみいひて、睦の義ありとも見へず。又ムツといひ、ツキといふ、ツと、いふ詞のかさなれる故に、一つのツといふ言に、二つのツといふ言葉はこもれり、などいふべけど、夫れもまた然るべしとも思はれず、キサラキ、ヤヨヒ、などいふが如きも、古く釋せし所の如きは、その釋なからむには、空さえかへりぬる月なりとも、草木の生ひそふる月なりとも知らるべしとも覺えず、古き語に、キサとも、キサケとも、キサキとも、キサイとも、云ひし事どもあれど、其釋せし所の義とは同じからず、卯月といふ事は、詩の豳風に、四之日といふ事を、周正の四月は卯月なりと、見えしものともある也、周正の如きは左もこそあらめ、其時を行はれんに至ては、四月を卯月といふべき事にあらず、などいふ事もあるべければ、今も猶四月を卯月といふ事は、たとへば上巳といふは、もとこれ三月上旬の巳の日をいふ事なれど、魏晋より後には、巳日にはあらねど、三日をもて上巳といふ事の如し、卯花の咲ぬる月なれば、卯月といふなりといふ説の如き、然るべしとも思はれず、ウツキといふ木は、その中のウツホなれば、ウツキと名つけしに、其花のたま〳〵卯月に咲ぬれば、卯の花などとしるせしなり、サツキといふ事は、早苗とる月なれば早苗月といひしを、サツキとはいふなりといふ説も、また如何あるべき、舊事記に見へし所は、前にしるせし事の如しサナヘといふも、サハヘといふか如く、これ此月の名になりてこそ、云ひし言葉なるべけれ、水無月といふは、水涸れて盡るの義なりといふなり、水無瀬ミナセなどいふ地名もあれば、さもあるべしや、されど此月はやみする事ありて、御祓する事なれば、是等の事にや依りぬらん、フツキといふ事、これも亦文月の義なるべしとも見えず、ハツキといふは、八月を葉月といふ事、漢にも見えしといふ事あれど、其事疑ふべき事あり、長月陽月の如きは、漢にも古くいひ傳へし所なり、其中に陽月を讀て、カミナツキといひしは、カミノツキといひし詞なり、たとへば萬葉集の歌に、神邊山カミノベヤマとしるせしを讀て、ミムナヒヤマといふが如し、古語にはノといふは、轉してナとなりし事は、いくらもあり、水上の如き、ミノカミといふべきを、ミナカミといひ、田上の如き、タノカミといふべきを、タナカミといふが如し、霜月といふ事、漢にも古く云ひし事なれど、それは九月をこそいひけれ、我國にては十一月をいひしなり、その月は異なれど、其義をとる事は相同じ、シハスとは、これも漢に十二月を歳終といひしが如く、歳の終りいふをなり、古語に年をトシともいひ、トセともいひ、またチともいひしこと、前に註せしところの如く、そのチといひしは、トシといふ言葉一たび轉じてシとなり、シといふ詞ふたヽび轉じてチとなりしなり、シハスといふが如き、シとはトシといふ詞の一たび轉ぜしところなり、ハスといふは、ハツなり、スといひ、ツといふも、その語の轉ぜしなり、我國の語に、およそ事の終りをば、ハツともハテともいふなり、されば萬葉集に、極の字よむて、ハツともいへば、俗に極月の字を用ひて、ハスともいふなるべし。

新井白石編 東雅 巻之一 天文第一(部分)

ツキ  正月ムツキ、二月キサラキ、三月ヤヨヒ、四月ウツキ、五月サツキ、六月ミナツキ、七月フミツキ、八月ハツキ、九月ナガツキ、十月カミナツキ、十一月シモツキ、十二月シハス、義共に不詳、我國の月名、太古よりいひつぎし言葉とも聞へず、舊事記に、邪神之音サハへなせしといふ事、三たび見えたり、それが中、二つは狹蝿の字を用ひ、讀てサハへとし、一つは五月蠅の字を用ひ、讀むこと狹蠅の如し、さらば上宮太子の頃ほひ五月をよひてサツキといひし事、既にありしにや、其餘の如き、また如何にやありけん、陰陽の二神、日神月神を生み給ひしに、其月神の御名、一つには月讀つきよみとも申せしは、上古の語に讀むといひしは、後世にカゾフルといふ言葉なりなどといひ傳たり、月の數をかぞへ伝はむには、かぞへいふ所の名なき事を得べからず、天地より始て、凡物の名に至るまて、後世にいふ所の如き、上古に云ひし所の事なりとも見へず、古を去る事の久しくして、世の移り替りぬるに隨ひ、其いふ所も亦うつり替りぬる故なり、たとへば初空ハツゾラ月、梅見ウメミ月などいふが如き、後代の歌詞に出たれど、遂に其月の名となりし事のごとく、古を去る事、久しき世の、人の云ひしところの終に其名となりて、古にいひし所の如きは知る人もなくなるにいたるなり、五月をサツキといひ、又世の人今も猶つヽしむべき月なりなどもいふなり、此月の事は、舊事記に見えし所なれば、古の時の名なりけむとも知らるヽなり、卯月、長月、カミナ月、歳終シハスなどいふが如きは、漢にも古くいひ傳へにし所なれば此等の如きは、我國に漢字傳へ得し後の人の云ひし所なるにやまたたま/\其名の相同じかりしにや、すべて其詳なる事をしらず。
疑いを闕くとも疑を傳ふとも見えたれば、我疑ひ思ふ所の中、其一二をこゝに註しぬ、舊説には、ムツキといふ事は、ムツビキツキといふ也、上古の語にスベムツ神などいふ事はあれど、ムツをムとのみいひて、睦の義ありとも見へず。又ムツといひ、ツキといふ、ツと、いふ詞のかさなれる故に、一つのツといふ言に、二つのツといふ言葉はこもれり、などいふべけど、夫れもまた然るべしとも思はれず、キサラキ、ヤヨヒ、などいふが如きも、古く釋せし所の如きは、その釋なからむには、空さえかへりぬる月なりとも、草木の生ひそふる月なりとも知らるべしとも覺えず、古き語に、キサとも、キサケとも、キサキとも、キサイとも、云ひし事どもあれど、其釋せし所の義とは同じからず、卯月といふ事は、詩の豳風に、四之日といふ事を、周正の四月は卯月なりと、見えしものともある也、周正の如きは左もこそあらめ、其時を行はれんに至ては、四月を卯月といふべき事にあらず、などいふ事もあるべければ、今も猶四月を卯月といふ事は、たとへば上巳といふは、もとこれ三月上旬の巳の日をいふ事なれど、魏晋より後には、巳日にはあらねど、三日をもて上巳といふ事の如し、卯花の咲ぬる月なれば、卯月といふなりといふ説の如き、然るべしとも思はれず、ウツキといふ木は、その中のウツホなれば、ウツキと名つけしに、其花のたま/\卯月に咲ぬれば、卯の花などとしるせしなり、サツキといふ事は、早苗とる月なれば早苗月といひしを、サツキとはいふなりといふ説も、また如何あるべき、舊事記に見へし所は、前にしるせし事の如しサナヘといふも、サハヘといふか如く、これ此月の名になりてこそ、云ひし言葉なるべけれ、水無月といふは、水涸れて盡るの義なりといふなり、水無瀬ミナセなどいふ地名もあれば、さもあるべしや、されど此月はやみする事ありて、御祓する事なれば、是等の事にや依りぬらん、フツキといふ事、これも亦文月の義なるべしとも見えず、ハツキといふは、八月を葉月といふ事、漢にも見えしといふ事あれど、其事疑ふべき事あり、長月陽月の如きは、漢にも古くいひ傳へし所なり、其中に陽月を讀て、カミナツキといひしは、カミノツキといひし詞なり、たとへば萬葉集の歌に、神邊山カミノベヤマとしるせしを讀て、ミムナヒヤマといふが如し、古語にはノといふは、轉してナとなりし事は、いくらもあり、水上の如き、ミノカミといふべきを、ミナカミといひ、田上の如き、タノカミといふべきを、タナカミといふが如し、霜月といふ事、漢にも古く云ひし事なれど、それは九月をこそいひけれ、我國にては十一月をいひしなり、その月は異なれど、其義をとる事は相同じ、シハスとは、これも漢に十二月を歳終といひしが如く、歳の終りいふをなり、古語に年をトシともいひ、トセともいひ、またチともいひしこと、前に註せしところの如く、そのチといひしは、トシといふ言葉一たび轉じてシとなり、シといふ詞ふたヽび轉じてチとなりしなり、シハスといふが如き、シとはトシといふ詞の一たび轉ぜしところなり、ハスといふは、ハツなり、スといひ、ツといふも、その語の轉ぜしなり、我國の語に、およそ事の終りをば、ハツともハテともいふなり、されば萬葉集に、極の字よむて、ハツともいへば、俗に極月の字を用ひて、ハスともいふなるべし。
〔 東雅 巻之一 天文第一より『月』〕
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Last updated : 2024/06/28