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『延喜式 巻四十 主水司』
(国史大系 第13巻より) 国立国会図書館所蔵 『
平安時代の延長5年・927年に完成した法令集。 |
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・承平5年・935年頃の成立『土佐日記』に見られる「小豆粥」
十五日、今日小豆粥煮ず。口をしくなほ日のあしければゐざるほどにぞ今日廿日あまり經ぬる。徒に日をふれば人々海をながめつゝぞある。めの童のいへる、
「立てばたつゐれば[#「ゐれば」は底本では「ゐれは」]又ゐる吹く風と浪とは思ふどちにやあるらむ」。いふかひなきものゝいへるにはいと似つかはし。
『土佐日記』
[定家本土佐日記 : 尊経閣叢刊]
国立国会図書館所蔵『土佐日記』[現代語訳]
藤村作 昭和22年・1947年刊
国立国会図書館所蔵
『土佐日記』 は、紀貫之が土佐国から京に帰る55日間の船旅を、筆者を女性に仮託して、全行程を1日も欠かさず仮名文で書き綴った虚実混交の日記文学。承平5年・935年頃の成立とされる。〈男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり〉という書き出しで有名。
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・享保15年・1730年成立『
古今沿革考 』 柏崎永似
七種
兼明親王の公事根源にいわく、寛平の此より始れるにや、延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供すといへり。是は新年の若菜を取て菜に調じて奉る。今世正月七日粥に入、七種の若菜を入るゝは、十五日の七種のかゆをとりちがへたる物なり。十五日の七種は、白穀、小豆、粟、栗、柿、小角小豆等なり。是をかゆに入れ調じたるなり。若菜は七種にもかぎらず、十二種も供する事有、尋常には七種の物なり。薺、はこべら、芹、菁、御形、すゞしろ、仏の座などなり。此七種の品類、古今家々説々紛擾なり。春秋七草に弁別するがゆへ、今こゝに略す。若菜も古は禁中にては、内蔵寮ならびに内膳司より献ぜしが、いつの比よりか、今世は精全といへる針医の家より、献ずる事とはなりぬ。
- ・享保20年・1735年版『
江府年行事 』
正月七日
七種御祝儀、世俗に云ふ五節句始也、七種の菜粥いわふ
正月十五日
小豆粥をいわふ『江府年行事』
菊岡沾凉
(享保20年・1735年版)
「江戸年中行事」
(昭和2年・1927年刊)より
国立国会図書館所蔵
- ・安永8年・1779年刊『
青陽唱詁 』
ななくさもいはうたが、十五日がござりて、あかのかゆをたくとのふ、これさまにさふろう、しこく入の上がまに、しらげのよねと、だいなごんのあづきと、くぶんめにゆりたてよの、ざう木でゆでた/\とにたて、『青陽唱詁』
狻猊子(入江昌喜)
(安永8年・1779年刊)
※入江は大坂を代表する町人学者の1人とされる。
「日本歌謡集成. 巻5」
(昭和17年・1942年刊)より
国立国会図書館所蔵
- ・享和3年・1803年版『増補江戸年中行事』
正月十五日
あづき粥いわふ『増補江戸年中行事』
(出版年不明)
国立国会図書館所蔵『増補江戸年中行事』
(享和3年・1803年版より)
「江戸年中行事」
(昭和2年・1927年刊より)
国立国会図書館所蔵
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・天保3年・1832年の成立『
五節供稚童講訳 』
〔十五日の小豆粥 の事〕 正月十五日に小豆の粥を祝ふ事、大昔よりある事なり。清少納言が枕草子に、十五日は餅粥の節供といふ事見へたれば。九百年ばかりの昔より、十五日の粥を祝ふ事今の如し。粥の中へ餅を入るを粥柱といふ。この日小豆の粥を食すれば、万病を除 け、風邪を引かずとなり。右にいふ如く、九百年余の昔より今に至りて、三ヶの津はもとよりいづくの田舎にても、正月十五日には必ず小豆粥を祝ふ事、めでたき古 事なり。『五節供稚童講訳 』
(天保3年・1832年)
山東庵京山 作 歌川国芳 画
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・天保9年・1838年刊『
東都歳時記 (江戸歳時記) 巻之一 春之部』
正月十五日
上元御祝儀、貴賤今朝小豆粥を食す『東都歳時記』
(天保9年・1838年刊)
斎藤月岑
国立国会図書館所蔵
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・嘉永4年・1851年版『
東都遊覧年中行事 』
正月十五日
上元御祝儀、貴賤とも今朝小豆粥を祝ふ『東都遊覧年中行事』
(嘉永4年・1851年版)
幽篁庵 編撰
「江戸年中行事」(昭和2年・1927年刊)より
国立国会図書館所蔵
- 江戸時代後期の『守貞謾稿』に見られる小正月の「小豆粥」など
「守貞謾稿 巻之二十六(春時)」
正月十五日、十六日 俗に小正月と云う。
元日と同じく、戸をとざす。また三都ともに[注:三都とは、江戸、京都、大阪のこと] 、今朝(十五日)、赤小豆 粥を食す。京坂は、このかゆにいささか塩を加う。江戸は、平日かゆを食せざる故に粥を好まざる者多く、今朝のかゆに専ら白砂糖をかけて食すなり。塩は加えず、また、今日の粥を余し蓄えて、正月十八日に食す。俗に十八粥と云う。京坂には、このことこれなし。
(略)
今日粥を食すこと、始めは、宇多天皇寛平二年(注:890年)正月十五日、七種の粥を献ず。白穀、大豆、赤小豆、粟、栗、稗柿、小角豆なり。これより先、進献定めず。ここに至りて、勅して、今より毎歳供すと云々。古は、今日も七種のかゆを食せしなり。今、あづきがゆも上の七種の一にて、古の遺風なり。けだし今俗は、七種・七草、和訓同じき故これを混ず。
『守貞謾稿 巻二十六(春時)』より
正月十五日、十六日
喜田川守貞
国立国会図書館所蔵
「守貞謾稿 後集 巻之一(食類)」
粥
その炊法、飯よりは水をはなはだ多くし柔らかなるものなり。
今世、右の水を多くし炊きたるを白粥と云う。これ茶がゆに対す言なり。茶がゆは専ら冷飯に煎茶を多くし、塩を加え再炊するものなり。白糜には塩を加えず。
(略)
正月七日は三都ともに七草粥、十五日は小豆糜なり。京坂、あづきがゆには塩を加え炊き食す。江戸は塩を加えず、炊後、専ら霜糖を加え食す。これ常に粥を食し馴れざるの故に、糖味を仮りてこれを食すなり。
『守貞謾稿 後集 巻之一(食類)』より
粥
喜田川守貞
国立国会図書館所蔵
注:『守貞謾稿 』は、喜田川守貞 による江戸時代の様々な風俗や事物が記された全35巻に及ぶ書物で、天保8年・1837年 から書き始め、日本 が明治の時代へと入る直前の慶応3年・1867年 に脱稿。実に30年間に亘って様々な事物習俗を江戸と京坂(京都・大坂)の違いを交えて書き綴り、また、「追考」「追書」として不明であった点を補ったり、誤謬点の訂正を行ったりしている。 「近世風俗史の基本文献」とも評される。
- 次に、「七草」「七草粥」「囃子詞」などが登場する明治以降の文献について見てみます。
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