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[7] 七草の
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『守貞謾稿 巻二十六(春時)』より 正月七日 喜田川守貞 国立国会図書館所蔵 |
注:『
守貞謾稿 』は、天保8年・1837年
から慶応3年・1867年
まで、
喜田川守貞
によって30年間にわたって書かれた江戸時代後期の風俗史。
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七草なずな、唐土の鳥が、
日本 の土地に、渡らぬ先に、七草なずな、手につみいれて、こうしとちょう七草なずな、唐土の鳥の、日本 の土地へ、渡らぬ先に、七草なずな、手につみいれて、こうしとちょう七草なずな、唐土の鳥と、日本 の鳥と、渡らぬ先に、七草なずな、手につみいれて、こうしとちょう注:この「唐土の鳥と、日本の鳥と」は、「唐土の鳥の、日本の土地へ」が訛ったものとされると「朝野年中行事(1892年・明治25年) 」(国立国会図書館)には記されている。- 「
唐土 」は、「もろこし」「から」とも読み、昔、日本 から中国を呼んだ言葉で、ここでの「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に」などの言葉は、大陸から鳥が疫病を持って来ないうちに、また、農耕に悪さをする鳥を追い払うという意味も込めているものと思われます。 - 「唐土の鳥」と言われる中国の鳥は、「
鬼車鳥 (「きしゃどり」とも)」と言われる鳥で、「ふくろう」の属とされる頭が九つの怪鳥です。鬼車鳥は夜になると飛び回り、人家に入ると凶事があり幼児に祟りをすると恐れられました。また、人の爪を好むとされました。 - この言い伝えが、「夜爪を切るな」という俗信の根拠の一つにもなっているとも言われます。
- 「こうしとちょう」とは、「亢觜斗張」で、中国古代天文学による二十八宿の中の四つの星、亢、觜、斗、張を指し、これを書くことで鬼車鳥の類を追い払ったといわれます。
- 「
- 七草なずな、唐土の鶏が、日本の土地に、渡らぬ先に、ストトントン
- 七草なずな、唐土の鳥が、渡らぬ先に、ストトン、トントン
- 七草なずな、唐土の鳥と、日本の鳥が、渡らぬ先に、ストトン、トントン
- 唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、何々たたく、トントントン
- 唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、七草なずなな
- 七草なずな、唐土の鳥が、渡らぬ先に、七草なずな、トコトントントン、トコトントントン
- 七草なずな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、トントントン、トントントン
- 七草なずな、唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、トントンぱたり、トンぱたり
- 「七草の囃子」の基になったのではないかと思われる風習が、このサイト内の「
人日 」の項にも出て来た日本の七草がゆの起源になったのではないかとされる記述のある、中国の「荊楚歳時記 」に見られます。 - その内容は、「正月の夜に鬼鳥(注:鬼車鳥)が沢山飛ぶので、それを追い払うために家々では槌で床や戸を打って鳴らし、
狗 の耳を捩 って吠えさせ、また、明かりを消して鬼鳥を祓った」というものです。荊楚歳時記 ・6世紀の半ばに成立『荊楚歳時記』(梁宗懍撰)
(廣漢魏叢書 明刊より)
国立国会図書館所蔵- 九頭の怪鳥「
鬼車鳥 」は、首の一つを犬に噛まれいつも血を滴り落としているとされます。「荊楚歳時記」に出て来る「狗 の耳を捩 る」というのは、鬼車鳥を噛んだことがある、鬼車鳥に対抗出来る狗を吠えさせて鬼車鳥を追い払うということと思われます。
- 九頭の怪鳥「
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この風習については、大正11年・1922年に永尾竜造によって書かれた、
日本人 による中国民俗研究書の「支那民俗誌」でも触れられています。 - 『七草粥の習慣は中国から来たことは知らぬ人はない』とし、『唐土の鳥というのは、中国では鬼車鳥といって恐れられたもの』としています。
『支那民俗誌』 ・大正11年・1922年成立『支那民俗誌. 上巻』 永尾竜造
大正11年・1922年
国立国会図書館所蔵 - 寛永15年・1638年に成立したとされる『
桐火桶 』(藤原定家が書いたと伝えられる)には、『七草は49回叩く』として、『亢觜斗張 』が含まれる囃子詞が記されています。-
『
桐火桶 』・寛永15年・1638年の成立
正月七日、七草を叩くに、七つづゝ七度通ふなれば、四十九叩くなりと有識の人申しけるとばかりなり。是もしひて問ひ申しければ、それ迄の事はとて笑ひつゝ語り給ふ。まづ七草は七星なり。四十九叩くは七曜、九曜、廿八宿、五星、合せて四十九の星をまつるなり。
唐土の鳥と、日本のとりと、わたらぬ先に、七草なづな、手につみいれて、亢觜斗張『桐火桶』
伝 藤原定家
(寛永15年・1638年)
「群書類従」より
国立国会図書館所蔵『桐火桶』
伝 藤原定家
「新校群書類従」より
(昭和12年・1937年版)
国立国会図書館所蔵
『群書類従 』は、江戸時代後期に塙保己一 が編纂し刊行した叢書。
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『
- この『
桐火桶 』の記述について、江戸時代の随筆家で雑学者の山崎美成 が、文政5年・1822年に書いた『民間時令』で解説をしています。-
『民間時令』
・文政5年・1822年の成立
桐火桶(類従本) なゝくさなづな たうどのとりと にほんのとりと わたらぬさきに なゝくさなづな てにつみいれて かうしとちやう」 (桐火桶には、初のなゝくさ なづなの一句なし、されど今は先にしか唱へり、これを加へざれば、四十九にならず、今補ひて四十九の数をあはせ置。)
注:『民間時令』の著者山崎美成は、「桐火桶では、最初の『七草なずな』が書かれていないが、これがないと四十九にならない。今はこれを最初に言うので、これを書き足した」として、『桐火桶』を引用しながら『桐火桶』にはない「なゝくさなづな」を書き足している。『民間時令』(文政5年・1822年成立)
山崎美成
『民間風俗年中行事』(大正5年・年版)より
国立国会図書館所蔵
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『民間時令』
- 前出の『
桐火桶 』や『民間時令』には『日本 の鳥と』という言葉が出て来ますが、天保3年・1832年に山東庵京山の作、歌川国芳の画で刊行された『五節供稚童講訳 』では、これは『日本の土地』の誤りであるとしています。 - つまり、「
唐土 の鳥が、日本 の土地へ(に)、渡らぬさきに」と言うのが正しいということになるでしょうか。また、「渡らぬさきに」も「渡るを避けん」が正しく、間違って伝えられて来ているとする趣旨のことを書いています。-
『
五節供稚童講訳 』・天保3年・1832年の成立
〔唐土 の鳥 の事 〕 正月六日の夜、擂粉木 ・庖丁 ・切匙 の類 、食用の品七ツ集めて打ち囃す事、 上つ方より下々 までする事なり。打ち囃す言葉に、「とうどの鳥と日ほんの鳥と、わたらぬさきに、といふ。とうどの鳥とは、唐土 の鳥といふ事、日本の鳥とは、日本の土地といふ誤りなり。これをいかなる謂われと尋ぬるに、歳時記 といふ書に、正月七日、鬼車鳥 渡る。この鳥、人の魂を消し、血を滴 らす。血の滴りたる家は災いありとて、正月六日の夜、七日の暁 にも、門口 を叩きてこの鳥を驚かして、他所へやる、といふ。この説をもて、昔より、唐土 の鬼車鳥 、日本の土地へ、渡るを避けん、と唱へしと 、渡らぬ先にと、誤り唱え来たりしなり。「隣の七艸 で目が覚めたゆゑ、よんどころなく叩くのだ。叩いてよければ、おらが宿六 の面 を叩きてへ。きのふから出て、まだ帰らねへ。いけ馬鹿々々しい。「父 うの鳥は二本の鼻毛、わからぬ奴だ。とゝ、/\/\とんよ。『五節供稚童講訳 』
〔唐土の鳥の事〕
天保3年・1832年
山東庵京山 作 歌川国芳 画
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『
- 江戸時代から明治にかけての錦絵や文献で、「七種を囃す」様子のいくつかを見てみます。
- 次に、「
小正月 」の「七種粥 」と「小豆粥 」の風習について見てみます。
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