自警録
新渡戸稲造
第二章 一人前の人と一人前の仕事
一人前とは何を標準とした言葉か
永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは
老若を問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例に
違わず四十歳前後のころよりしばしば、
「
己れは一
人前の仕事を
為したであろうか」
を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなる
量を指すかということである。
一
人前、一
人分、一と
通り、
人並、十
人並
、男一
匹の任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。
反物一反あれば一人前の衣服が出来る。五
合
の米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。
独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。
料理屋で
飯を注文すれば一
合二、三
勺を一人前という。
牛肉屋に肉を注文すれば二十五
匁より三十五
匁
までをもって一人前とする。
一人前に
対してかくのごとき標準を
設けたのは何より起こったのであるか。
四
尺に足らぬ
小男にも、六
尺ちかい
大兵にも、一
反
の反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、
丈の長短を
斟酌せず一人前は一
反
と定めてある。
また小食の人も
健啖家も、
肉を注文すれば同じ分量を
授けられる。ほとんど個性を無視して
男一
匹の
食物は
何合、衣類は
何尺と、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。
日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚
要るかから割り出したものでもない。
それと同じく人の
容貌を評するにも、よく十人
並
という言葉を使う。これはすなわち
美醜の一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、
眼鼻や
顔形の寸法を
計って出来得るものでない。まして芸などについては
算盤にかけることは絶対的に不可能のことである。
これによりてこれを見れば一人前あるいは一人
分と称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶ
趣を異にしているように思う。
一人前と統計学者のいうノルム
大槻先生はその著『
言海』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人の
列なること、
尋常
と説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。通常これを標準、規範、
型などと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同する
虞があるから、僕は
原語のままにノルムという字を
用
いたいと思う。ノルムはその
語原を調べると
大工
の使用する
物指すなわち
定規である。この定規に
適ったものがノルム
的すなわち英語にいうノーマル(normal)である。一人前の
人というのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり
具備わっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。
これすなわちその国のノルムに
適
うというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸に
陥る。ゆえに同じ
国人のうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムに
適わぬ。
ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は
実在的現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、
誰れいうとなく、十
目が見、十
指が
指して、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであると
思う。
老子の有名なる語に、
「
道の
道とすべきは
常の
道にあらず」と。
これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一
法となし得はせぬか。人が普通に
道というのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが
出来ようか。僕はかくのごとき問題で長く
頭脳を痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。
一人前の人と一人前の業
この問題を提出したならば、
何人もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に
当つることは出来ぬというであろう。一人前の
業を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても
諺にあるごとく、
「
田舎の一
升は
江戸でも一
升」
というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、
丁稚奉公の職にあるものならば
丁稚の一人前のことをなしたか、一国の
宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだ
けの解決はしたいものである。
自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について
愚説を述べてみよう。
一人前の仕事という分量は
何人が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく
譬えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は
授けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず
結了
することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに
為すべき
掃除
なり料理なりその他
夫に対する義務、子供に対する世話をも
首尾よく
為しとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを
完うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、
「
世に
在ること一日ならば、一日の
好人と
做るを要す」
との心掛けを連日実行して、一生を
貫けば、その人は
実に好人である。
測る標準は内にあるか外にあるか
しかるにこの例について起こる疑問は、
定規として用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を
完うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは
定規なりといったが、この定規は自己以外に、
世人がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が
為しつつある分量であって、甲も乙も
丙も
丁も
やり得るのだから誰れでも
やるべきものと定められている分量である。俗にいう
世間の勤めとはこのことをいうらしい。
ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし
俺は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。
もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の
勝手にならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、
俺は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十
匁なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十
匁
である。
己れは
碌な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ
業をすれば世間は
斟酌
せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや
否やはおのずから別問題である。
職業上の一人前と全人としての一人前
故に人を
測るについて、
目方をもって
某は
何貫ときめることは出来る。
丈をもってして某は何
尺何
寸
と定むることも出来る。そしてこの人の
貫目、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並み
優れて高いとか低いとか、かく別々に
測ることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの
寸尺貫目を測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは
脳髄もよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして
肉附もよく大きいという関係があるかも知れぬ。
しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には
頭脳の透明
鋭利な者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が
世人よりたっとばるるのもこれがためである。
専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習を
加え
優れた者は世に
貢献することが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっとも
能く当たることであるが、これはいわば人を
幾多の
片に切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。
しかるに専門家中には、その専門に
熱中し、他の
天稟
の力を発達せしめない者がたくさんある。その
怠りたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も
間々ある。すなわちかかる人は
全人として見れば一人前に足らぬ人である。
己れの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。むかし
孔子は、
「
君子は
器ならず」
といったが、学者はとかく器械化しやすい。ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。しかし
実地家の中にも同じ
過ちに
陥るものが多い。すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに
鋭く、その成功のためにはほとんど人倫を
紊すも
恬として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。かかる
風あるものは人間失格者としか思われぬ。
おそらく人間として平均の調和を
失えるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。
譬えていえば、人の
腕は
身幹に比して
何分とか、たいてい一定した割合がある。この割合を
越えても
不具であり、不足しても不具である。いわゆる世の実務家あるいは実業家などには
手の長過ぎる人があるとすれば、学者
間に短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとの
譏はまぬがれまい。
要は人は業なり
かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一
人並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に
昇らばよろしく
室にも入るを要する。しかして
甲がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の
造詣は深さ高さによりて測り、たしかに
某は何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを
為したとしても、その人はやはり専門については一人前の
分をなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一
人並みであるや
否やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。
しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして
衆
に
優れたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに
大分の相違があるであろう。
今日のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の
効果さえ
挙ぐるを得ば人として生まれ来た
甲斐ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを
顧みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる
仕事師は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。
「文は人なり」
というが、人格を示すもの
豈に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を
措いては事もなく
業もない。一人前の仕事を
為し
遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し
難きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。
これを
譬えていえば、ここに
数多の
器があるとする。これらの
器――仮りに
徳利とすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一
石も
容るれば小さきものは一
勺も容れ得ぬ。しかしいかに
小なるも
玩具にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び
做す。してみれば徳利の徳利たる
所以はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の
多寡には大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、
白痴でなければ、みな一人前と
算えらるるであろう。
しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるや
否やの問題である。四
斗樽大を
備
えても
空なれば四
升樽にも劣る。二
合徳利でもいっぱいに
満つれば一
斗入りの
空徳利に
優さる。人もどれほど「
王佐棟梁」の才であっても、これを利用もせず
懶惰に日を送れば、
小技小能
なるいわゆる「
斗筲の
人」で正直に
努める者に比して、一人前と称しがたく、ただ
大なる「
行尸走肉」たるに過ぎぬ。してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい
天賦の才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、
己れ以外に求むべきものでなかろう。すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。英国の大詩人テニソンの句に、
Self-reverence, self-knowledge, self-control, ――
These three alone lead life to sovereign power.
(自尊、自知、自治の三路は、一生を導いて王者の位に達せしむるなり)
と。太古ギリシアの
神託に、
「
己れを
知れ」
とありしは自己の性質能力を
覚り、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人を
知らざるを
患うる者がある。人の
己れを知らざるを
患うる者はさらに多いが、
己れを知らざるを
患うる者ははなはだ少ない。
冒頭にいうがごとく僕は永く自分の身に
顧みて、我は果たして一人前の仕事を
為し終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は
遺憾ながらいまだ述ぶることは出来ぬ。恐らくは
何人といえども、
己が身に
顧みてこの問題を提出したならば、
確固たる答えを
為し得るものはあるまいと思う。もし為し得る人があるとすればもって
世人に示して欲しい。僕がここに自分の
迷いの
径路を述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考に
供したいからである。