《 コラム - ちょっと知識 》 「日傘」がつく四字熟語 『乳母日傘』 1. 「乳母日傘」という言葉 検索のヒント 1 「乳母日傘」という言葉 2 「乳母日傘」が登場する文芸作品 ≪≪ 日傘の数え方へ戻る 1. 「乳母日傘」という言葉 「乳母日傘」という言葉があります。 「おんばひがさ」と読みます。または、「おんばひからかさ」「おんばひがらかさ」などともと読むことが出来ます。また、「お乳母日傘」と書いて「おうばひからかさ」「おうばひがらかさ」などと読むこともあります。 乳母(うば) がいて、日傘まで差し掛けてくれるという、とても恵まれた環境で大事に育てられることを言いますが、転じて、子供が甘やかされて過保護に、ちやほやされて育てられるという意味に使われることもあります。辞典によっては、「過保護」のみをその意としているものもあります。 江戸時代の後期に、喜田川守貞(きたがわ もりさだ)という人が書いた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という、当時の風俗を記した文献があります。 この『守貞謾稿』に『乳母日傘』が登場し、江戸時代に『乳母日傘』という言葉がどのように捉えられていたか、江戸時代における『乳母』とは何かを知ることが出来ます。 ■ 江戸時代における「乳母日傘」という言葉 「守貞謾稿 巻之三十(傘・履)」喜田川守貞 『骨董集』に云う、お乳母日傘(うばひがらかさ)と云う諺、今の世、賤しき者の人に誇るに、お乳母日傘にて育ちたる者ぞと云う諺あり。昔は乳母を召し仕うほどのしかるべき者の児には、日傘をさしかけさせたる故に、さは云うめり。その傘は丹青(たんせい) [編集注:丹青とは、赤と青の意で絵の具のこと] もてさま/″\絵をかきし物なり。ことに菱川が絵に多く見えて、天和・貞享の此、専ら用いたり。これ近き世までもありしが、今は絶えて諺にのみ遺れり、云々。 右のごとく云いて、乳母、嬰児(えいじ)を懐(ふところ)にし、その後より、この長柄日傘を差しかけたり。この長柄傘を持ちたるは婢なるべく、ほかに妻女あるいは婢と覚ゆる者も倶(とも)せり。この諺、今も稀に云う人あり。 寛永の頃の「乳母日傘」の図 『お乳母日傘(うばひがらかさ)という諺のこと』という文字が見える。 [ 拡大 ] [] 【編集注】喜田川守貞が引用している『骨董集』は、守貞が『守貞謾稿』を書き始める20年ほど前の、文化11年(1814)から翌年にかけて、岩瀬醒(さむる)によって書かれた随筆。近世初期以降の風俗などを古書・古画などを引用して考証している。[] ■ 江戸時代における「乳母」という言葉 「守貞謾稿 巻之四(人事)」喜田川守貞 乳母 俗におんばと云う。半季給銀百目ばかりを与え、夏は麻衣・冬は冬服を与え、その間春秋には主婦の古服を与え諸費を供す。因みに云う、三都[編集注:三都は、江戸、京都、大阪のこと]ともに半季奉公給金を与う者は、皆諸費を与えず、諸費給金にてこれを便ず。けだし家制にて給金のほかに 烟草(たばこ)・紙等を与え、髪結銭・浴銭を与うことあり、あるいは与えざるあり。皆家制による。ただ三都ともに乳母のみ給料のほかに服および諸費を与う。けだし京坂にては乳母の児存亡ともにその児を養わず、またその費を与えず。江戸にては乳母の子存する者を好(よ)しとし、これを養うの費を与う。 《中略》 また江戸にて乳母をばゞあと云う。年給等大略京坂に同じく、けだし乳母の児ある者は母子ともにこれを養う。あるいは乳母の児を他に養わせて、その費を主家より供す。これを里扶持(さとぶち)と云う。大略月費金一分、銭二、三百文をもって里扶持とす。乳母の児を養はざるを半乳と云う。 ■ 喜田川守貞・「守貞謾稿」とは ■ 喜田川守貞(きたがわ もりさだ)(季荘)。文化7年・1810年 に大阪で生まれる。(没年未詳) ■ 天保11年・1840年、31歳の時、大阪から江戸に移り住む。 ■「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は、天保8年・1837年から慶応3年・1867年まで、30年間にわたって書かれた、巻三十と、後集五からなる江戸時代後期の風俗を知る貴重な資料である。 ■ にあたる。 ■ 守貞は、一度書いたものの追加訂正などをしているが、嘉永6年・1853年にペリー艦隊来航の報を受けて一度筆を置いている。戦争が起こるのではないかとの不安を抱いていたが、「幕府無事を旨とするにより」、さらに追書・追考を行い、慶応3年・1867年に「百年の遺笑を思ひながら再び蔵蓄す」と結び、擱筆している。 【国立国会図書館デジタル化資料による解説】 喜田川守貞(季荘)が著した近世風俗書。稿本のまま残され江戸時代には刊行されなかった。「専ら民間の雑事を録して子孫に遺す。」という著者の言葉どおり生業、遊戯、年中行事、食物など広範囲にわたり図も交え記されている。喜田川守貞は、文化7(1810)年大阪生まれ。没年は未詳。初め石原氏。天保11(1840)年江戸に移り、北川氏を継いだ。31歳の時、大阪から江戸に移住したので、上方と江戸との相違にも注目している。天保8(1837)年より書き始め、嘉永6(1853)年以降にも追書や追考を行ったとの書入れがある。 「国立国会図書館デジタル化資料」で読むことが出来ます。 次のページでは、「乳母日傘」が文中に登場する文芸作品を見てみます。 1 2 次へ 1 「乳母日傘」という言葉 2 「乳母日傘」が登場する文芸作品 ≪≪ 日傘の数え方へ戻る ● 目次 | あ | か | さ | た | な | は | ま | や | ら | わ ● おすすめサイト・関連サイト…